手塚治虫は「プロ」なのか?
変なタイトルだと思う。
手塚治虫がプロではない、と言いたいわけではない。
漫画を描き、それによって収入を得ていた。
その意味では、間違いなくプロだった。
では、少し質問を変えてみたい。
今の創作界隈で語られる「プロの条件」を、手塚治虫は本当に満たしているのだろうか。
プロなら高品質。
プロなら売れる。
プロなら独創的。
プロなら誰にも真似できない。
プロなら革新的。
プロなら作品を厳選する。
プロなら低品質なものを世に出さない。
プロなら一作品一作品に十分な時間と労力をかける。
プロなら失敗しない。
ここまで条件を積み上げていくと、ちょっと怪しくなってくる。
手塚治虫ですら、本当に「プロ」なのだろうか。
手塚治虫は、漫画で金を得ていた
まず話を単純にしたい。
手塚治虫は漫画を描き、それを職業としていた。
だからプロだった。
これだけなら何も難しくない。
ところが「プロ」という言葉には、いつの間にか色々な意味が追加されている。
たとえば仕事として依頼を受け、
要求を理解し、
予算と納期の中で、
一定以上の品質を保証し、
成果物を納品する。
これも確かに「プロの仕事」と呼ばれる。
ただ、手塚治虫の創作活動の中心を、この受託モデルだけで説明するのはかなり無理がある。
出版社や編集者との契約も締切も当然あった。
しかし基本的には、
自分で作品を考える。
描く。
世に出す。
読者に評価される。
売れることもある。
売れないこともある。
打ち切られることもある。
そしてまた描く。
という作家だった。
クライアントから要求仕様を渡され、それを正確に納品することだけが彼の創作ではない。
むしろ市場へ作品を投げ続ける側だった。
当然、全部が売れたわけではない
後世から手塚治虫を見ると、代表作ばかりが見える。
『鉄腕アトム』
『火の鳥』
『ブラック・ジャック』
『ブッダ』
その他にも大量の有名作品がある。
すると、なんとなくこういう人物像ができる。
天才が革新的な作品を思いつく。
↓
大ヒットする。
↓
また革新的な作品を作る。
↓
また成功する。
しかし、そんなわけがない。
膨大な作品を作ったのだから、当然その中には現在ほとんど語られないものもある。
人気が出なかったものもある。
短期間で終わったものもある。
市場から評価されなかったものもある。
手塚治虫の作品を全部知っている人なんて、現在どれだけいるだろう。
私たちは成功した作品を中心に手塚治虫を知っている。
歴史は失敗作を勝手に消してくれる
ここが面白い。
創作者が活動している最中には、
成功作も、
失敗作も、
実験作も、
微妙な作品も、
全部存在している。
ところが数十年経つと、その中から代表作が選ばれる。
そして残った作品から作者像が再構築される。
すると、
「天才は名作を作る」
という綺麗な物語が完成する。
でも実際には逆かもしれない。
大量に作った。
大量に試した。
大量に外した。
その中から一部が残った。
もちろん技術も才能もある。
しかし同時に、
試行回数が異常に多かった。
ここを消してしまうと、創作という行為そのものがかなり違って見える。
プロなら革新的でなければならない?
創作界隈では、ときどきプロにものすごい能力が要求される。
技術が高い。
品質が高い。
売れる。
納期を守る。
大衆に伝わる。
独創的である。
誰にも似ていない。
思想がある。
そして、
誰も見たことのない革新的なものを作る。
一人の人間に要求しすぎではないだろうか。
試しにプロのクリエイターへ発注してみる。
誰も見たことのないものを作ってください。
もちろんプロ品質で。
大衆にも理解できるように。
商業的にも成功してください。
予算は守ってください。
納期厳守です。
失敗は困ります。
困ると思う。
そもそも誰も見たことがないのだから、成功事例が存在しない。
成功事例がないなら、成功するかどうかも分からない。
本当に未知を探索するなら、失敗する可能性を受け入れなければならない。
プロの仕事と、未知の探索は別の能力だ
依頼を受けるプロにとって重要なのは、むしろ不確実性を減らす能力ではないだろうか。
経験がある。
技術がある。
過去の事例を知っている。
だから、
「この方法なら、このくらいの品質になる」
と予測できる。
期限までに完成させられる。
要求された仕様を満たせる。
毎回100点でなくても、少なくとも大事故を起こさない。
これは立派な専門能力である。
しかし、
「未知のものを発明する能力」
とは別軸だ。
むしろ未知へ行けば行くほど、
結果が読めない。
品質基準もない。
市場が受け入れるかも分からない。
失敗率も上がる。
だから、
品質を安定させる能力
と、
結果の分からない場所へ飛び込む能力
を同じ「プロ度」という一本の物差しで測ること自体がおかしい。
手塚治虫の異常さは、プロ品質では説明できない
そう考えると、手塚治虫の異常さが少し違って見えてくる。
「プロだから革新的だった」
ではない。
「プロだから全部売れた」
でもない。
「プロだから失敗しなかった」
なんて当然違う。
むしろ、
漫画で金を得るプロでありながら、異常な量の探索を続けた。
ここが特殊だったのではないだろうか。
作る。
出す。
外す。
また作る。
違うジャンルへ行く。
また出す。
その中から、ときどき後世まで残るものが出る。
プロであることと、この探索性は別の話だ。
手塚治虫がそういう創作者だったのである。
「もっと厳選してください」
では、現在よく聞く創作論を手塚治虫に適用してみよう。
作品数が多すぎませんか?
一作品ずつもっと時間をかけた方がいいと思います。
本当に伝えたいものだけ作りましょう。
品質の低い作品まで世に出す必要がありますか?
プロなんだから、もっと厳選してから公開しましょう。
どうだろう。
確かに作品数は減る。
平均品質は上がるかもしれない。
失敗作も減るかもしれない。
だが同時に、
成功作まで何本か消えるかもしれない。
どれが後世に残る作品なのかを制作前に完全に判断できるなら、創作はずいぶん簡単な仕事になる。
そして生成AIは、失敗を安くした
ここで生成AIの話につながる。
生成AIが変えたものとして「誰でもプロ品質のものを作れる」がよく語られる。
でも、もっと大きな変化がある。
失敗がものすごく安くなった。
一曲作る。
ダメだった。
もう一曲作る。
変だった。
もう一曲。
さらに変になった。
面白いからそっちへ行ってみる。
従来10回しか試せなかった人間が、100回、1000回試せるようになる。
これは創作にとってかなり大きな変化だと思う。
ところが、
「一作品ずつ丁寧に」
「プロ品質まで仕上げて」
「低品質なものは公開しない」
「大量生成はslop」
という方向だけへ進めば、せっかく手に入れた
大量に失敗できる能力
を自分たちで封印することになる。
プロ、熟練、独創、革新、成功を混ぜすぎている
たぶん問題は、「プロ」という言葉に色々詰め込みすぎたことだ。
プロ/アマチュア
それで金を得ているか。
熟練/未熟
技術や経験がどの程度あるか。
独創的/定型的
既存の表現からどの程度離れているか。
革新的/保守的
新しい領域をどの程度探索しているか。
成功/失敗
市場や社会からどう評価されたか。
本来、別々の軸である。
プロでも売れない。
プロでも定型的な仕事をする。
アマチュアでも革新的なものを作る。
初心者の偶然が新しい表現になることもある。
熟練者が大失敗することもある。
ところがこれを全部まとめて、
「本当のプロなら全部できる」
にしてしまう。
そうするとプロが職業ではなく、超人になる。
では、手塚治虫はプロだったのか?
漫画によって金を得ていた。
その意味では、間違いなくプロだった。
それ以上のものを「プロ」という言葉へ勝手に詰め込む必要はない。
大量に描いたこと。
大量に試したこと。
売れない作品も作ったこと。
新しい表現を試したこと。
そして後世に残る作品を生み出したこと。
それらすべてが、
「プロだったから」起きたわけではない。
手塚治虫が、そういう創作者だったから起きた。
もし、
「プロなら高品質」
「プロなら売れる」
「プロなら独創的」
「プロなら革新的」
「プロなら失敗しない」
「プロなら作品を厳選する」
を全部プロの条件にするなら、
手塚治虫ですらプロの資格が怪しくなる。
それなら疑うべきなのは手塚治虫ではない。
「プロ」という言葉に、こちらが勝手に載せた幻想の方ではないだろうか。
