「2時間で作った」が作品になる時代──AI創作と“制作RTA”
最近、AIを使ったゲーム制作や映像制作を見ていて、ひとつ気になることがある。
「AIで2時間でゲームを作った」
「1日でアプリを作った」
「数十分でこんな映像ができた」
こういう投稿が非常に多い。
もちろん、AIによって制作時間が短縮されること自体は面白い。
ただ、見ているうちに思った。
これ、作品を作っているというより「制作RTA」を遊んでいるんじゃないか。
制作時間そのものがコンテンツになった
普通、ゲームを遊ぶ人にとって、そのゲームが何時間で作られたかはあまり関係ない。
2時間で作られていても、2年かけて作られていても、
面白いかどうかは別の話だ。
ところがSNSでは事情が変わる。
「ゲームを作りました」
だけでは、そのゲームを実際に見たり遊んだりしないと凄さが分からない。
しかし、
「AIだけで2時間でゲームを作りました」
なら、遊ばなくても投稿を見ただけで意味が分かる。
2時間。
ゲーム。
完成。
この3つだけで驚きが成立する。
つまり成果物だけではなく、
完成度 ÷ 制作時間
のような別の評価軸が生まれている。
短時間でそれらしいものが出てくるほど、SNSでは映える。
だから「制作RTA」はSNSと非常に相性がいい。
でも、本来のRTAとは少し違う
ここで妙なことに気づいた。
ゲームのRTAは、単純に急いでゲームを遊ぶものではない。
マップを覚える。
敵の行動を理解する。
当たり判定を調べる。
乱数を研究する。
入力受付やゲーム内部の仕様を理解する。
場合によってはバグすら利用する。
そうやってゲームを普通のプレイヤー以上に熟知した結果、
異常な速度でクリアできる。
つまり本来のRTAでは、
理解の深さ → 速度
という順番になっている。
速いのは、深く知っているからだ。
ところがAIを使った「制作RTA」は、しばしば順番が逆になる。
まず、
「2時間で作る」
という目標がある。
すると、
2時間で作れる題材を選ぶ。
AIが得意なものを選ぶ。
面倒な仕様を避ける。
時間のかかる調整を削る。
動いたら完成とする。
結果として、
速度の制約 → 制作内容
になっていく。
同じRTAという言葉を使っていても、構造はほとんど逆なのかもしれない。
AIで浮いた時間はどこへ行ったのか
AIによって、以前なら一週間かかっていた実装が数時間でできるようになった。
これはものすごい変化だ。
なら、その余った時間を何に使うのだろう。
遊んでみる。
違和感を探す。
ゲームルールを変える。
いらない機能を消す。
何度も作り直す。
そうやって作品を深くしていくこともできる。
ところが制作RTAでは、浮いた時間が
「次の作品を生成する時間」
に使われる。
1週間 → 1作品
だったものが、
1日 → 7作品
になる。
制作速度は7倍になった。
しかし、一作品について考える時間まで7分の1になれば、作品の密度まで7倍になるわけではない。
AIによる時間短縮を、
深掘りに使うのか、生成回数を増やすために使うのか。
ここにはかなり大きな違いがあると思う。
なぜゲームからAI動画へ移るのか
少し前まで、AIでゲームを短時間で作ること自体がかなり目立っていた。
ところが動画生成AIが急速に進歩すると、今度はそちらへ人が移っていく。
これも制作RTAとして考えると分かりやすい。
ゲームはAIを使っても意外と面倒だ。
操作を作る。
UIを作る。
当たり判定を作る。
バグを直す。
ゲームルールを調整する。
ビルドする。
実際に遊んで確認する。
一方、動画なら生成した数秒〜数十秒の映像だけでも成果物として成立する。
つまり、
ゲーム生成RTAより動画生成RTAの方がタイムが出る。
しかも映像はSNS上でそのまま再生できる。
遊んでもらう必要すらない。
そう考えると、
「ゲームを作っていた人が動画制作へ転向した」
というより、
制作RTAのプレイヤーが、より記録が出やすく観客受けする競技へ移動した
と考えた方がしっくりくる。
制作RTAが流行っているのか、流行っているように見えるのか
ただし、本当にAI創作者の大多数が制作RTAをしているのかは分からない。
むしろ重要なのは、
制作RTAはSNS上で非常に目立つ
ということだと思う。
「半年間ゲームシステムを改善しました」
という投稿は、一瞬見ただけでは何が凄いのか分かりにくい。
一方、
「AIで2時間でゲームを作りました」
なら一瞬で分かる。
短時間。
数字。
驚き。
ビフォーアフター。
分かりやすい映像。
SNSで強い要素がほとんど揃っている。
だから、
制作RTAが流行っているからSNSでよく見る
だけではなく、
SNSで映えるから制作RTAが流行っているように見え、その可視性がさらに制作RTA人口を増やす
という循環もありそうだ。
「作れる」と「作りたい」は違う
AIによって、いろいろなものが短時間で作れるようになった。
ゲームも作れる。
アプリも作れる。
音楽も作れる。
映像も作れる。
3Dも作れる。
すると次第に、
何を作れるか
より、
なぜそれを作るのか
の方が重要になってくる。
ゲームを作りたいのか。
それとも、
AIを使って短時間で何かを完成させたいのか。
この二つは似ているようで、かなり違う。
後者なら、もっと速く成果物が出るAIが登場した瞬間に、そちらへ移るのは合理的だ。
ゲーム生成が一番速ければゲームへ行く。
動画生成が速くなれば動画へ行く。
その次に3D世界が数分で生成できるようになれば、そこへ行く。
作品ジャンルへの執着ではなく、
「AIでどこまで速く成果を出せるか」
そのものが遊びになっているからだ。
本当の「制作RTA」は別にあるのかもしれない
もし本来のゲームRTAに近い「制作RTA」があるとすれば、少し違うものになると思う。
経験豊富な制作者が、
どこを作らなくていいのか。
何を共通化できるのか。
どこを自動化できるのか。
どの仕様がコアなのか。
何を削ってもゲーム性が変わらないのか。
それらを理解したうえで、通常なら3か月かかるものを3日で成立させる。
そこには、
理解の深さ → 制作速度
がある。
ゲームRTAと同じだ。
速く作るために作品を薄くするのではない。
深く知っているから、無駄なものを作らずに済む。
AI時代に面白いのは、こちらの制作RTAなのかもしれない。
速さは目的なのか、結果なのか
AIによって制作速度が上がること自体は、間違いなく面白い。
ただ、
「2時間で作った」ことと「2時間で作れるほど制作を理解している」ことは違う。
本来のRTAでは、速さは理解の結果だった。
制作でも同じなのではないだろうか。
AIで最短時間の成果物を競う遊びがあってもいい。
それ自体、一つの新しい遊び方だと思う。
ただ、それを「制作の進化」と呼ぶなら、少し違う気もする。
速く作れるようになった先で、
余った時間を何に使うのか。
次の成果物を生成するのか。
それとも、今作っているものをもっと変なものにするのか。
AI時代の創作で本当に差が出るのは、案外そこなのかもしれない。
