なぜ創作SNSは「小学校の作品展示会」になったのか

創作者は交流した方がいい。
他人の作品も積極的に見た方がいい。
自分も見てもらいたいのだから、他人の作品を見るべきだ。
作品を見たら、良いところを見つけよう。
無理のない範囲で、ほどよく交流しよう。
最近、こういう話をよく見かける。
もちろん、それを楽しいと思っている人がやる分には何の問題もない。
ただ、一つ疑問がある。
なぜ創作に、そんな義務が必要なのだろう。
そしてこの光景、どこかで見たことがある。
小学校の作品展示会だ。


みんなの作品を見ましょう

学校では、全員が何かを作る。
絵を描く。
作文を書く。
工作を作る。
そして廊下や教室に並べる。
先生は言う。
「みんなの作品を見てみましょう」
「お友達の良いところを見つけましょう」
「感想を書いてみましょう」
発表すれば、みんなで拍手する。
これは別におかしくない。
学校だからだ。
学校には教育という目的がある。
普段なら興味を持たないものにも触れさせる。
他人の考え方を知る。
良いところを探す。
感じたことを言語化する。
人前で発表する経験を与える。
そして何より、特定の子だけが完全に無視されるような状況を避ける。
教育として考えれば、かなり合理的な仕組みだと思う。
問題は、
なぜ大人になってからも同じことをしているのか
ということだ。

「自分も見てもらいたいから、他人も見る」

創作SNSでは、ときどき不思議な倫理が生まれる。
「自分の作品を見てもらいたいと思うなら、自分も他人の作品を見るべきだ」
一見すると、とても公平に聞こえる。
でも本当にそうだろうか。
私がある曲を聴いたからといって、その作曲者が私の曲を聴く必要はない。
私がゲームを遊んだからといって、その開発者が私のゲームを遊ぶ必要もない。
小説を読んだから、作者に私の文章を読んでもらう権利が発生するわけでもない。
鑑賞は、本来交換ではない。
見たいから見る。
それだけだ。
ところが、
「見てもらったから見る」
になった瞬間、
興味による鑑賞が、恩義による鑑賞に変わる。

それ、作者は本当に求めているのだろうか

さらに不思議なのが「配慮」だ。
創作者なら作品を見てもらいたいだろう。
感想が欲しいだろう。
反応が欲しいだろう。
だから見に行こう。
だから感想を書こう。
だから良いところを探そう。
でも、
相手は本当にそれを求めているのだろうか。
作品をただ置いておきたい人もいる。
誰か一人が偶然見つければそれでいい人もいる。
感想なんて別に要らない人もいる。
そもそも誰にも見られなくても作る人だっている。
それなのに、
「創作者なら見てほしいはず」
と想像して、
「だから私が見なければ」
と考える。
これは優しさにも見える。
でも少し角度を変えると、
自分がその作品に承認を与える側だと思っている
とも読める。
作品は、私が見なくても存在している。
私が褒めなくても存在している。
私が「良いところ」を発見してあげなくても存在している。

「その人の美しさを見つける」という不思議

作品を見ることで、
「その人の美しさに触れる」
という考え方もある。
これも綺麗な言葉だ。
でも、ここでも疑問が出てくる。
その作品、美しさを作ったものなのだろうか。
醜いものを作りたかったのかもしれない。
不快にしたかったのかもしれない。
ただ笑わせたかっただけかもしれない。
技術実験かもしれない。
意味なんてないかもしれない。
「なんとなく作った」だけかもしれない。
それでも、
「この人の美しいところを探そう」
と鑑賞するなら、
作品から何かを受け取っているのではなく、
最初から存在すると決めた美しさを、作品の中から探している
ことになる。
これも学校でやったことに似ている。
「お友達の作品の良いところを見つけましょう」
あれは教育だから意味がある。
でも大人の創作まで、
必ず良いところを見つけなければならない
のだろうか。
「私にはよく分からなかった」
「興味がない」
「好きじゃない」
そして、
「そもそも見ない」
でもいいはずだ。

見たくないものを見ることは、作者への敬意なのか

むしろ私は、こちらの方が気になる。
興味がない作品を、
「創作者同士だから」
という理由で見る。
そして何か良いところを探して感想を書く。
それは本当に作者にとって嬉しいことなのだろうか。
義理で100人に見られる。
何の関係もない一人が偶然見つけて、
「なんだこれ?」
と気になって見る。
私なら後者の方が面白い。
少なくとも、
作品そのものが一人を引っ掛けた
ことが分かるからだ。
義理の鑑賞が増えれば増えるほど、
その反応が作品への反応なのか、
人間関係への反応なのか分からなくなる。

SNSでは鑑賞が「社会行為」になった

SNSでは作品と人間関係が同じ場所に存在する。
フォローする。
いいねする。
コメントする。
リポストする。
感想を書く。
これらは作品への反応であると同時に、
人間関係を維持する行為にもなる。
すると、
「この作品が好きだからいいねした」
と、
「いつも反応してくれる人だからいいねした」
が同じ数字になる。
さらに、
「この人には前に見てもらったから」
まで入ってくる。
こうして鑑賞は徐々に、
作品との関係から、人との関係へ変わっていく。

「ほどよく交流」の正体

そこで出てくるのが、
「無理せず、ほどよく交流しましょう」
という言葉だ。
でも、
ほどよくって何だろう。
一日何回いいねすればいい?
何人フォローすればいい?
週に何回コメントすればいい?
どの程度界隈に顔を出せばいい?
そして、もっと根本的な疑問がある。
そもそも交流は必要なのだろうか。
作品を作る。
置く。
誰かが気になったら見る。
何か言いたくなったら言う。
そこで会話が始まれば、結果として交流になる。
それで十分ではないだろうか。

交流には「流」がある

そもそも「交流」という言葉には「流」という字がある。
なら、何が流れているのだろう。
創作なら分かりやすい。
作者 → 作品 → 他者
作品が流れる。
誰かが拾う。
その人の中で何かが起きる。
感想を返すかもしれない。
何も言わないかもしれない。
その作品から影響を受けて、別の作品を作るかもしれない。
作者と受け手が一言も会話しなくても、作品はすでに他者と交わっている。
むしろ、これこそ交流ではないだろうか。
交流と会話は同じものではない。

交流は先に作るものなのか

本来の流れは、
作品

発見

興味

鑑賞

必要なら会話

だと思う。
ところがSNSでは、
会話

フォロー

相互認知

反応

露出

作品

になりやすい。
作品が人を繋いだのではない。
先に人間を繋いで、その接続に作品を流している。
これは本当に「交流」なのだろうか。
交流という字には「流」がある。
作品が流れ、誰かと交わる。
それなら分かる。
しかし先に相手のところへ行き、
挨拶して、
関係を作って、
自分の作品を見てもらう。
これは、流しているというより直接渡している。

ボトルメールを村まで手渡しに行く

創作物の公開は、ボトルメールに少し似ている。
何か伝えたいことを入れてもいい。
特に伝えたいことなんてなくてもいい。
ただ、
「誰かが気づいたら面白い」
くらいでもいい。
ボトルを海に流す。
誰が拾うかは分からない。
拾われないかもしれない。
でも誰かが偶然見つけて、気になったら開ける。
それで成立する。
ところがSNS式の「交流」は違う。
ボトルを持って村まで行く。
村人に挨拶する。
村の集会に顔を出す。
村人のボトルを拾って感想を言う。
名前を覚えてもらう。
そして、
「ところで私もボトルを作ったんです」
と手渡す。
もう流していない。
直接渡している。
交流というより、接続を維持しながら直接送り続けている。
それを「交流」と呼んでいるだけなのかもしれない。

大人の作品展示会

こうして眺めてみると、創作SNSの一部は本当に学校の展示会に似ている。
みんな作品を出しましょう。
みんなの作品を見ましょう。
良いところを見つけましょう。
感想を伝えましょう。
自分だけ見てもらおうとしてはいけません。
みんな仲良く交流しましょう。
そして、それをしないと、
「交流しない人」
「他人の作品に興味がない人」
のように見られることがある。
でも私たちは、もう学校にいるわけではない。
先生もいない。
クラスメイト全員を参加させる必要もない。
全員に花丸を渡す必要もない。

創作はもっと勝手でいい

作りたい人が作る。
置きたい人が置く。
見たい人が見る。
面白かったら反応する。
話したくなったら話す。
興味がなければ通り過ぎる。
それぞれ独立していていい。
「見てもらいたいから他人も見なければ」
という交換も必要ない。
「創作者だから交流しなければ」
という義務も必要ない。
「作品には必ず良いところがあるから探さなければ」
という配慮も必要ない。
ましてや、
「私が見てあげなければ」
と思う必要もない。
作品はそんなに弱いものではない。

誰かが勝手に拾えばいい

創作は、もっとボトルメールみたいなものでいいと思う。
作ったものを入れる。
海に投げる。
流れていく。
誰にも拾われないかもしれない。
数年後に誰かが拾うかもしれない。
拾ったけど何も言わずに帰る人もいる。
突然、
「これ、なんだ?」
と興味を持つ人もいる。
それでいい。
作品を公開したからといって、作者本人まで社交の場へ出ていく必要はない。
受け手も、作品を見たからといって作者へ何か返す義務はない。
見たいときに、見たいものを見る。
それだけのことが、いつの間にこんなに難しくなったのだろう。
創作SNSが息苦しいのだとしたら、
交流が足りないからではなく、
もしかすると私たちは、
学校を卒業したあとも、自分たちで作品展示会のルールを作り続けている
からなのかもしれない。

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