「普通に感じられない」は、本当に失ったことなのか

「失音楽症」というものがあるらしい。
音程の違いや旋律を、一般的な人と同じようには認識しにくい。
これを知った人が、
「こんな病気があるなんて怖い」
「音楽が楽しめなくなるなんてつらい」
と感じるのは、まあ分かる。
でも私は、別のところが気になった。
なぜ最初から「失った」と考えるんだろう。


感覚が変わっただけではないのか

人間の感覚は固定されていない。
スポーツを続けていれば、初心者には分からなかった身体の動きが分かるようになる。
音楽を続けていれば、以前は同じに聞こえていた音の違いが分かるようになる。
絵を見続ければ、色や構図の見え方も変わる。
こういう変化は普通、
「上達した」
「感覚が研ぎ澄まされた」
「経験を積んだ」
と呼ばれる。
つまり私たちは普段から、
経験によって知覚そのものが変化する
ことを受け入れている。
なのに、変化する方向が多数派の基準から外れた途端、
「失った」
「症状」
「障害」
という言葉が出てくる。
ここには、かなり大きな前提が隠れている気がする。
普通の人が感じている世界が、正しい世界である。
という前提だ。

昔好きだった音楽が気持ち悪くなったら

もっと本人の内側だけで考えてみる。
ずっと好きだった音楽が、ある日から気持ち悪く聞こえるようになったとする。
すると普通は、
「どうしてこんなことになったんだ」
「以前のように音楽を楽しみたい」
「元に戻りたい」
と考える。
でも、ここでも不思議なことが起きている。
なぜ過去の自分の感覚が正解なのだろう。
昔の私は、この音を心地いいと思った。
今の私は、この音を気持ち悪いと思う。
事実としては、それだけでもいい。
ところが過去の経験を「自分の音楽観」として固定すると、
昔の感覚=正常
現在の感覚=異常
になってしまう。
経験は本来、
「私はこれまでこう感じてきた」
という履歴だったはずだ。
それがいつの間にか、
「私はこれからもこう感じなければならない」
という規則になっている。
経験によって、自分自身を縛っている。

「高い声が出る=歌が上手い」だった時代

これは別に特殊な話ではない。
たとえば、かつてのJ-POPでは高音域を強く使う楽曲が大量に流行した。
すると、
高い声が出る

難しい曲が歌える

歌が上手い
という評価が成立しやすくなる。
逆に元々声の低い人間は、原曲キーを歌えない。
すると「歌が下手」と評価される。
でも考えてみれば変な話だ。
低い声には低い声の響きがある。
倍音もある。
表現もある。
低音だから成立する音楽だって当然ある。
本人の能力が低かったのではなく、
その時代の採点表に「低い声の価値」という項目がほとんどなかった
とも言える。
そして流行が変われば、同じ声が突然、
「声質がいい」
「渋い」
「個性的」
と評価されることもある。
本人は何も変わっていない。
採点表が変わっただけだ。

「音質がいい」も同じではないか

音質についても似ている。
クリアである。
低域が締まっている。
高域が抜けている。
ダイナミクスが適切。
音圧が適切。
定位が明確。
もちろん、これらには測定可能な物理量がある。
LUFSも測れる。
True Peakも測れる。
周波数特性も測れる。
位相も測れる。
でも、
「測れる」と「良い」は同じではない。
クリッピングしていることは測れる。
だからといって、
「クリッピングしている音楽は美的に間違っている」
とはならない。
歪みもノイズも極端な定位も、不自然な接続も、技術的には修正対象になり得る。
しかし創作では、それ自体が表現になる。
技術的安全性と、美的評価は別の話なのだ。

市場で生きるなら「普通の感覚」は重要になる

もちろん、多数派の感覚を理解する能力が重要になる場面はある。
それが市場だ。
多くの人が気持ちいいと思う音。
多くの人が上手いと思う歌。
多くの人が高音質だと思うミックス。
それを再現できれば、商業的には非常に便利だ。
つまり、
平均的な評価関数を高精度で再現できる能力
には市場価値がある。
だから、その能力が変化すれば仕事では困るかもしれない。
でも、それは、
創作能力を失った
という意味ではない。
単に、
既存市場への適応能力が変化した
だけかもしれない。
ここを一緒にしてしまうと、おかしなことになる。

上司の指示に疑問を持った人間

会社で考えると分かりやすい。
今まで上司から、
「これをやれ」
と言われれば、
「はい」
と動いていた人がいる。
ところがある日、
「……なんで?」
と思うようになった。
組織から見れば困る。
以前のように指示通り動いてくれない。
「適応できなくなった」と評価されるかもしれない。
でも本人から見れば、
初めて自分で考え始めただけ
とも言える。
音楽も似ている。
「このコードは美しい」
はい。
「この音質がプロの音です」
はい。
「高音を出せる人が歌の上手い人です」
はい。
「このミックスが正解です」
はい。
ずっとそうやって経験を積み重ねる。
そしてある日、
「……なんで?」
となる。
それを「音楽能力を失った」と見ることもできる。
でも、
外から与えられた評価軸に自動的に従えなくなった
とも考えられる。

適応と創造は同じではない

ここで「適応」という言葉も怪しくなってくる。
既存の環境にうまく合わせられる人を、私たちは高く評価しがちだ。
学校に適応できる。
会社に適応できる。
市場に適応できる。
音楽業界の慣習に適応できる。
もちろん、それは一つの能力だ。
でも、
適応できることと、創造できることは同じではない。
むしろ創作では、
「普通なら直すところ」
を直さない人がいる。
「普通なら気持ち悪い」
と言われるものを面白がる人がいる。
「普通なら失敗」
と言われるものを作品にする人がいる。
そして一人だけ、
「いや、これ面白くない?」
と言ったところから、新しい表現が生まれることがある。
多数派への適応能力だけで創作を測ったら、その芽は全部「間違い」になる。

「能力を失った」ではなく「評価関数が変わった」

だから私は、感覚が変わったときに、
「以前の能力を失った」
とだけ考える必要はないと思う。
もちろん、医学や認知科学が特定の知覚能力を測定し、分類することには意味がある。
しかし、
特定の情報を多数派と同じように処理できるか
という測定と、
その人がどんな音楽を作り、どんな音を美しいと思うべきか
は別問題だ。
創作側から見れば、
「おかしくなった」
ではなく、
「自分の評価関数が変わった」
と考えることもできる。
だったら面白い。
以前好きだったものを好きになろうと努力するのではなく、
「今の私は何を気持ちいいと思うんだろう」
と探せばいい。
今まで不快だった音が面白いかもしれない。
今まで音楽だと思わなかったものが音楽になるかもしれない。

経験は正解ではなく履歴

経験を積むこと自体が悪いわけではない。
問題なのは、
経験から作った評価基準を、現在の自分より上に置いてしまうこと
なのだと思う。
過去の自分は先生ではない。
まして裁判官でもない。
ただのログだ。
昔の私はこう感じた。
今の私はこう感じる。
明日の私はまた違うかもしれない。
それでいい。
むしろ創作なら、その差分こそ面白い。
「正しい音楽」を覚えるために経験するのではなく、
自分の感覚がどう変わっていくのかを見るために経験する。
そう考えれば、感覚が変わることは必ずしも怖いことではない。
「普通」から外れたのでもない。
ひょっとすると、
他人から渡された採点表を手放して、自分の採点表を作り始めただけなのかもしれない。

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