重いテーマの中にあった、命の意味―― 映画『時には懺悔を』を観て
📚 これまで読んできた本
障害児や障害者をめぐる問題について、
私はこれまでにもたくさんの本を読んできました。
『選べなかった命』
『個人的な体験』
『命は輝く』
『赤ちゃんを我が子として育てる方を求む』
『発達障害に生まれて』
……など。
障害児について書かれた本だけでなく、
特別養子縁組について書かれた本なども読みました。
どの本にも、それぞれの立場から見た、
親の気持ち。
当事者の気持ち。
生きるということ。
が描かれていました。
どれも決して軽い内容ではありません。
けれど、
目を背けることのできない現実として、
とても考えさせられるものばかりでした。
🎬 重いテーマの中にあった、命の意味
―― 映画『時には懺悔を』を観て
今日は、『時には懺悔を』という映画を観ました。
この映画を観ようと思ったきっかけは、
実は映画の内容そのものではありませんでした。
ご近所さんが、この映画に関わっていたこと。
それを知って、
「どんな映画なんだろう?」
と、少し気になって観てみました。
実際に観てみると――
とても重いテーマを扱った作品でした。
でも、その重さの中に、
ミステリーとしての完成度の高さがあり、
ただ重いだけではなく、
観終わったあとにいろいろなことを考えさせられる映画でした。
🌱 なぜ、この子が出演したのだろう
映画を観ながら、
私は重度障害児として出演されていたお子さんと、
その保護者の方の気持ちを想像していました。
そして、ふと、
「なぜ、この子を映画に出演させたのだろう」
と思いました。
もちろん、そこにはご家族にしか分からない思いがあると思います。
でも、映画を最後まで観てみると、
私はラストのシーンに、その答えのようなものがある気がしました。
✨ 一生懸命に生きている姿そのものが、誰かの力になる
その子が一生懸命に生きている姿。
そこには、
誰かを励ます力がある。
毎日の生活には、
きっと大変なことも、苦しいことも、
数えきれないほどあるのだと思います。
それでも、その子の存在そのものが、
「生きてみよう」
「もう少し前を向いてみよう」
と思わせてくれる。
そんな力を持っているのではないかと思いました。
何か特別なことをするからではなく、
ただ、その子がそこにいて、一生懸命に生きている。
それだけで、
誰かの心を動かすことがある。
その存在は、
他の誰にも代えることのできない、
とても温かいものなのだと思います。
そして、この映画に出演することで、
そのことをたくさんの人に伝えたかったのではないかな……。
そんなふうに、私は感じました。
🌿 観終わって
障害について考えるとき、
どうしても「大変さ」や「困難」に目が向きます。
実際、簡単なことではありません。
親としても、当事者としても、
「こんなに大変なのか」と思うことはあります。
社会の壁にぶつかることもある。
それでも、
その人が生きていること。
その人が存在していること。
そのこと自体に、
大きな意味があると思います。
そして、その姿が誰かの心を救ったり、
誰かが前を向くきっかけになったりする。
そんなこともあるのだと思いました。
重く、苦しいテーマを扱った映画でしたが、
私にとっては、
「生きる」ということを改めて考える時間になりました。
🎬 「正解のない選択」の先にあるもの
映画を観終わって、
最後に主人公たちや、そこに登場する人々の気持ちを考えてみました。
そうすると、
「どうしてそんな行為をしたのか」
「なぜ、そんな判断をしたのか」
と、簡単に責めることはできないなと思いました。
そこに至るまでには、
きっと私たちには見えない、
苦しみや葛藤、迷い、
受け止めようとする気持ち、
それでも受け止めきれない気持ち……
いろいろなものが積み重なっていたのだと思います。
そして時には、
誰かが背負うことになった命を、
別の誰かが受け止め、
その命を輝かせていくこともある。
そんなことも、この映画を観て感じました。
🌱 「正解」は、きっと一つじゃない
重度障害児を育てるということ。
このテーマについて考えたとき、
誰かの判断や行動を、
「間違っている」と簡単に決めることはできない。
そして反対に、
「これが正解です」と言えるものもない。
それぞれが迷って、
苦しんで、
悩みながら、
そのとき、その人にできる選択をしている。
映画を観終わって、
私はそんなふうに受け止めました。
🤝 本当は、家族だけで抱えなくていい社会に
だからこそ私は思います。
本当は、そういった迷いや苦しみ、葛藤を
家族だけで抱え込まなくてもいい社会になってほしい。
一人で背負い続けることなく、
誰かに相談できて、
誰かに助けてもらえて、
「もう自分だけでは無理です」
と言える場所があってほしい。
だって、
全部を一人で抱え込んで生きていくなんて、
そんなことは、とてもできることではないから。
家族だから頑張らなければいけない。
親だから背負わなければいけない。
そんなふうに、
家族にだけ責任や負担が集中してしまったら、
いつか誰かが限界を迎えてしまう。
そして最悪の場合、
家族間の深刻な事件や、
命が失われるところまで追い込まれてしまうこともある。
🕊️ 「誰が悪いか」ではなく、「なぜそこまで追い込まれたのか」
私は、そういうニュースを見るたびに、
「この人が悪い」
だけで終わらせてはいけないのではないかと思います。
もちろん、起きたことに対する責任はあります。
でも、それと同時に、
「なぜ、そこまで一人で抱えなければならなかったのか」
「その前に誰かが支えることはできなかったのか」
「社会に何が足りなかったのか」
を考える必要があると思っています。
誰かを責めるだけでは、
同じことがまた起きてしまうかもしれない。
🌿 私が願っていること
障害という、個人の問題を
「家族だけで何とかしてください」
という社会ではなく、
「一緒に考えます」
「一緒に支えます」
「困ったら頼ってください」
と言ってもらえる社会になってほしい。
親も、子どもも、
障害のある本人も、
きょうだいも、
誰か一人にすべての負担が集中するのではなく、
それぞれが生きていける社会。
そんな社会を、私は願っています。
💭 映画を観て、最後に思ったこと
結局、この映画が私に考えさせてくれたのは、
「誰が正しいのか」ではなく、
「どうしたら、誰もそこまで追い詰められずに済むのか」
ということでした。
人は、迷います。
苦しみます。
間違えることもあります。
でも、その迷いや苦しみを
一人で抱え込まなくてもいい社会をつくることはできるはず。
「なぜ、そうなったのか」
「どうすれば、そうならずに済むのか」
そこを考えていくことこそが、
社会の役割なのではないかなと、私は常々思っています。
この映画を観て、
その思いが改めて強くなりました。
命に正解をつけるのではなく、
命を抱える人を、一人にしない。
そんな社会であってほしい。
私は、そう願っています。
📝 今日のひとこと
一生懸命に生きている姿そのものが、
誰かの勇気になることがある。
映画を観て、そんなことを考えました。
そして、自分自身も、
完璧じゃなくてもいいから、
今日を一日ずつ生きていこうと思いました。
今日は有給を取得していたので、近所の市民プールに行ってアクアウォークしてきました。
特別な1日じゃなくて、ありきたりの日常の1日です。
そんな日々を送れていることにまず、感謝です。
