「どうでもいい」と言いながら、少し気にしてる
第21章:小さな苛立ちの居場所
――怒るほどでもないことが、心を削る日常
気にしない努力ほど、不自然な筋トレはない。
放っておく才能が、まだ育ってない。
「どうでもいいよ」と言いながら、本気で“どうでもよくなれたこと”って、人生で何回あったっけ。
大抵の場合、その言葉は消火器じゃなくて、フタみたいなものなんだよね。
ただ、小さくパタンと閉じておきたいだけ。
中身はじんわり湯気を出したまま。
例えば、メッセージが返ってこないとき。
たいした話じゃないし、相手も忙しいんだろうし、こっちも別に急いでるわけじゃない。
それでも、心のどこかで「既読の青い光よ、成仏してくれ」と念じてしまう。
どうでもいいと言いながら、通知欄を2回くらい覗いてる時点で、もう“どうでもよくなれていない”のがバレている。
面白いよね。
人が「どうでもいい」って言うとき、その実、内容じゃなくて“このモヤモヤを処理する体力がない”という疲労のサインだったりする。
火種は小さいのに、火消しまでの導線が長い。
言語化する気も起きない。
だから、手っ取り早く「どうでもいい」で蓋する。
この蓋、便利なんだけど、しばらくすると蒸気がこもってくる。
時間差でフタの内側が曇るように、じんわり気になる。
あれ、まだ引っかかってたんだ、っていう遅延型の胸のざわめきが訪れる。
個人的には、これを「放置された雑味」と呼んでいる。
コーヒーを最後まで飲まず、ちょっと残して放置すると、味の輪郭がぼやけて変な渋みだけ残る、あの感じ。
あれと同じ現象が、心でも起きる。
とはいえ、雑味って悪役じゃない。
むしろ、“やたら正しい判断や綺麗な感情ばかり求められる現代”で、雑味は人間らしさの残り香みたいなものだ。
誰にも見せる必要はないけれど、ないと困る。
均整の取れすぎた感情は、息苦しいだけだから。
そう思うと、「どうでもいい」と言いながら少し気にしてる自分って、案外かわいい。
悩んでるようで悩んでないし、気にしてるようで気にしすぎてもいない。
生活の隙間にたまるホコリみたいに、すぐに捨てなくても死なないレベルのやつ。
本当に厄介なのは、“すごく大事なように感じるのに、実は大事じゃないこと”だ。
見分けがつかないから、余計に困る。
あれもこれも心配しすぎると、生活がわずかに重くなる。
それで、夜寝る前に「あれ、あんなに気にすることだった?」と気づく。
人生の8割くらいは、この「微妙な引っかかり」の集合体でできている。
だから、完璧に片付けようとするのは体力の無駄遣い。
むしろ、少し気にしながら、それでも日常を回せているなら、それはそれで健全なのかもしれない。
「どうでもいい」って、ある種の技なんだよ。
無関心ではなく、投げやりでもなく、ちゃんと“距離調整の術”。
心の棚卸しを、優先度順にさばいていくための非公式コマンド。
本当にどうでもよかったら、言葉にしない。
口に出すという行為は、ほんのり未練の証拠。
でも、それでいい。
未練があるうちは、まだ人生と交渉している段階だから。
むしろ怖いのは、何も感じなくなることだ。
苛立ちも違和感も雑味も、全部なくなったら、生きてる手触りが減る。
それこそ“どうでもよくなる”のが本番の無関心。
だから、少し気にしてしまうぐらいがちょうどいい。
その程度の引っかかりは、むしろ生活のリズムを整えてくれる。
気になるほどではないけど、気にしている。
その曖昧な中間地帯に、人は長く住んでいる。
いま気になっているそれも、きっと明日には味が薄まる。
“今日の雑味”は、明日の自分にはちょっとした風味になる。
人生の味は、結局そういうもので混ざり合っていく。
「どうでもいい」って言いながら、ちょっと気にしてる。
それで充分だ。
その曖昧さこそ、生きている証。
