八重桜の唄
1、桜の思い出
「今年の春は少し寒い」
ここ数年、三月の下旬を待たずに町を染めていたソメイヨシノの開花。今年は、少し遅かった。
四月中旬になり葉桜が目立ち始めた頃、温かな風とともに少し遅れて、自宅近くの八重桜が静かに咲き始めた。
一本の八重桜をぼんやり眺めると、あの時見た景色が瞼の裏に蘇る。
初めて渋沢丘陵を訪れたのは、五年前の春。
ちょうど八重桜が見頃で、里の景色はやや濃い桜色に染まっていた。
ぬるまった風がなぜか心地よいのは、遠くに聞こえる鶯のおかげかも知れない。
山肌を染める八重桜に、理由もなく心が引き寄せられていた。
幾重にも重なる花びらをまとう八重桜は、軽やかに、そして凛々しくも潔く散るソメイヨシノとはどこか異なる雰囲気を感じる。
ソメイヨシノを武士にたとえるなら、八重桜は庶民かもしれない。
潔さよりも、日々の暮らしの中に静かに根を下ろす。地に足の着いた、どこか素朴な花だと感じる。
今年は五年ぶりに、八重桜の里を歩いてみようか。

2、五年ぶり、駅にたつ
八重桜の開花から、数日後、ハイキング姿の人であふれる渋沢駅に立つ。多くのハイカーは丹沢を目指すのだろう。ひと通り人がはけたところで歩き出す。
バスのロータリーに足を入れた時、五年前に感じたあのぬるまった風が、体を吹き抜けていった。何となく顔を上げると富士山が見えた。
雪がほどけ青く染まる富士山と遠くに聞こえる鳥の声。再び温い風に包まれた。

3、豊かな里の景色
駅からゆっくり歩いてきた。やわらかな緑がふえて、鶯が聴こえる。駅から街、そして里の景色へ、少しずつ変化してきた。体を撫でる風も少しひやりと感じるようになった。
八重桜の里へ向かう道の途中に、小さな湧水地があった。吐水場は苔むし、足元の土はぬかるんでいる。惜しみなく流れ落ちる水の量。長きにわたり、この里での生活支えているのだろうか。
水の流れに逆らうように、手を伸ばす。両手に流れる水はしぶきを立てて、こぼれていく。残った水を口に含むとやわらかい。指先にジンと冷たさが残った。

4、八重桜の里に触れる
少しずつ、八重桜が増えてきた。
青い空の下に咲く八重桜は、多くの花びらをまとい、枝は重くしなっていた。
そっと手のひらに置く桜の花は、思ったよりも軽い。
風が吹く。身体の汗をさらうと、桜の花びらも舞い落ちた。
濡れた腕に張り付く桜の花びら。足元は散った花びらが重なり、歩くたびにゆれていた。
遠くには耕運機の音が響いてきた。むせ返る土の匂いと鶯の声。
足元では、黒いアリが忙しげに行き交っていた。

5、山肌を染める八重桜
「もう少しで、あの景色に会える。」はやる気持ちを抑えてゆっくりと坂道を歩く。
標高300mに満たない山の中腹に広がる八重桜の里につく。
幾重にも重なる八重桜は、花霞のように広がり山肌を染めている。
青、緑、そしてピンク。景色を彩る配色は多くない。しかし、町中で見る多彩な色より豊かで心地よい。
近くにあるベンチに腰を下ろす。顔にはりついた髪をぬぐった。
爽やかな風が吹くたびに揺れる桜の花。遠くには鳥の声。背中につたう汗も少しずつ乾いていく。
八重桜の穏やかな空気の中で一つ深呼吸をした。
湿った草の香りが、鼻の奥へと広がる。
遠くに耕運機の音が響き、鶯の声が聞こえた。
しばらくベンチに座っていた。
濡れたシャツも、少しずつ乾いていく。
目を閉じる。五年前の八重桜の景色が広がった。


五年ぶりに八重桜の里、渋沢丘陵を歩きました。
記憶の中にあった八重桜の美しさと春の風、土の匂いはあの頃のままでした。
実際に歩いたコースや現地の様子は、アメブロで詳しく紹介しています。
よろしければ、ご覧ください
https://ameblo.jp/dorpusagi/entry-12964482049.html
