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小説|あの恋以上の恋はないと信じて生きてきた [1〜3話]


〜第1話〜 「まだ残っていた店」


十一月の終わりだった。

打ち合わせを終えて駅へ向かう途中、和也はかじかむ首元をかばうようにコートの襟を少しだけ立てた。

見上げれば、夕方の空は早くも青灰色へと溶け落ちており、吐き出す息がかすかに白く揺れる。

この街へ来たのは、単なる仕事の都合だった。

目的の打ち合わせは終わり、あとは電車に乗って帰るだけ。

そう思いながら、駅までの近道を探して街灯の少ない細い路地へと足を踏み入れ――和也はそのまま、ぴたりと足を止めた。

かつての記憶よりもアスファルトの舗装は新しくなっていた。

空き地だった場所には安普請の小さなアパートが建ち、立ち寄った覚えのある文房具店はすでに跡形もない。

それでも、緩やかに弧を描くこの道の曲がり方だけは、あの頃のままだった。

「……まだ、この辺だったよな」

誰に聞かせるでもなく、吐息とともに言葉が漏れた。

思い出を探しに来たわけじゃない。そう自分に言い聞かせるものの、靴底が地面を叩く歩幅は、自然とゆっくりになっていく。

高校生だった頃。

放課後、傾いた日差しの中で自転車を押しながら歩いた道。

期末試験が終わった開放感の中、あてもなく彷徨った帰り道。

凍えるような寒さの中、自動販売機で買った缶コーヒーを分け合った交差点。

どれも今では曖昧で不確かな景色のはずなのに、踏み出す足だけは迷いなく記憶を辿っていた。

角を曲がった、その時だった。

視界の端に、見覚えのある木の看板が飛び込んできた。

和也は思わず息を飲み、その場に立ち尽くす。

街の隙間にひっそりと佇む、小さな喫茶店。

使い込まれた外壁は少し色があせ、時代の流れを感じさせたが、窓から漏れ出す橙色の灯りは柔らかく、薄暗い夕暮れの通りを静かに照らし出していた。

和也はしばらくの間、動くことができなかった。

とうに無くなっているものだとばかり思っていた。高校を卒業してから、ここには一度も足を運んでいない。

いや、来られなかった、と言ったほうが正しいのかもしれなかった。

だが店は、確かにそこにあった。

ガラス越しに見える店内は、時の流れから切り離されたように落ち着いている。

飴色に磨かれた木の椅子、シックなカウンター、そして棚に整然と並ぶ無数のカップ。

その中に、ふと目が留まった。

少し使い込まれて色の落ちた、シンプルな白いコーヒーカップ。長く店で大切にされてきたことだけが伝わってくるような佇まいだ。

高校生だった頃にあのカップが存在したのかどうかは思い出せない。それでも、不思議とそこから目を離すことができなかった。

店内からは、カチャンと食器とスプーンが触れ合うかすかな音が聞こえてくる。

扉の隙間から暖房の効いた空気がわずかに漏れだし、香ばしいコーヒーの薫香が冬の風に交じって鼻腔をくすぐった。

懐かしい――そんな一言だけでは到底あふれきらない感情が、胸の奥から湧き上がってくる。

この扉を開けて中へ入れば、止まっていた何かが動いてしまうような気がした。

けれど同時に、ずっと胸の中にしまってきた大切な思い出が変わってほしくない、という恐れもあった。

「……こんなことを考える歳になったのかな」

和也は自嘲気味に、小さく口元を緩めた。

三十八歳。

妻と離婚して三年が経つ。

日々の仕事は忙しく、余計なことを考える間もなく毎日は通り過ぎていく。

それなのに、かつて過ごしたこの街へ足を運んだというだけで、高校生だった頃の自分が今も胸のどこかにそのまま残されていたことを思い知らされる。

ゆっくりと歩み寄り、扉の前に立った。

ガラスには、街灯に照らされた自分の少し疲れの残る顔が映り込んでいる。

帰ろうと思えば、今すぐにでも帰れた。

今から駅へ向かえば、予定通りの電車にも十分間に合う。引き返す理由は、いくらでも頭の中で作り出せた。

……いや、深読みすることなんてないのだ。

ただの仕事帰りに、ふらりと昔ながらの喫茶店へ寄るだけ。ただそれだけのことじゃないか。

自分にそうと言い聞かせ、和也はかじかんだ手で真鍮のドアノブへ手を伸ばした。

からん、と小さな鈴の音が店内に響く。

足を踏み出すと同時に、包み込むような温かい空気が頬を撫でた。

「いらっしゃいませ」

聞き覚えのある、静かで通る声だった。

カウンターの奥に立っていた女性が、ふっと顔を上げる。

肩のあたりで切り揃えられた黒髪。

落ち着いた色合いの服の上に、シンプルなエプロンを身につけている。

目が合った。

チクタクと刻まれていたはずの時間だけが、その瞬間、静かに止まった。

そこにいたのは、小川紗季だった。


〜第2話〜 「久しぶりの代わりに」


店内は静まり返っていた。

窓際の席では、一人の男性客がランプの灯りの下で黙々と文庫本を開いている。

奧から、コーヒーミルが立てるゴリゴリという低い機械音が一定のリズムで聞こえていた。

和也はドアの前に立ったまま、足が床に縫い付けられたように動けずにいた。

紗季もまた、手にしていた布巾を止めたまま、すぐには何も言ってこない。

お互いの視線が交差したまま、二秒、三秒と静寂だけが過ぎていく。

耐えかねて先に視線を外したのは、和也のほうだった。

「……一人です」

引きつった喉から絞り出した声に、自分でも思わず苦笑いが漏れる。

すると、紗季の口元がほんの少しだけ柔らかく緩んだ。

「どうぞ。お好きな席へ」

その声は、かつてと変わらない穏やかな響きを帯びていた。

和也は窓際から一つ離れた四人掛けのテーブル席を選び、深く腰を下ろす。

使い込まれた木の椅子が、体重を受けて小さくギィと軋んだ。

机の上のメニューを開いたものの、印刷された文字は上滑りしてまるで頭に入ってこない。

「ブレンドでお願いします」

「はい」

短く簡潔な返事。

かつての時間と感情を共有した者同士とは思えないほど、驚くほど事務的なやり取りだった。

だが、その距離感が今の和也にはどこか救いでもあった。

無理に明るい声で「久しぶり」と踏み込まれなかったこと。

そして何より、自分自身もその一言を口にする勇気が持てなかったからだ。

やがて店内には、シュンシュンと湯が沸く小さな音が響き始めた。

豆を挽く音。ペーパーフィルターに湯を注ぐ音。トレイにカップを載せる乾いた音。

一つひとつの動作から生まれる音が静かな空間に心地よく重なり、耳に残る。

「お待たせいたしました」

静かな歩調で歩み寄ってきた紗季が、テーブルに白磁のカップを置いた。

立ち上る白い湯気が、二人の間の空気をゆっくりと揺らす。

「どうも」

和也は短く礼を言い、カップの取っ手に指をかけた。

そっと口をつけると、熱い液体が口内に広がる。

ガツンとした苦みが先に来て、その後に香ばしさと柔らかな甘みがじんわりと舌に残った。

高校生の頃、ブラックコーヒーのこんな深い味わいを知っていたわけではない。

それでも、温かい旨味が胃へ落ちていくたび、強張っていた胸の奥がほどけていくような気がした。

「お仕事?」

唐突に、紗季が声をかけてきた。

「え?」

「この街に来たの、お仕事なのかなって」

「あ……ああ、うん。ちょっと近くで打ち合わせがあってさ」

「そうなんだ」

それだけ言うと、会話は途切れ、再び静けさが二人の間に落ちる。

紗季はそれ以上深く踏み込んでくることはなく、すっきりと背筋を伸ばしたままカウンターの内側へと戻っていった。

和也もまた、次に続く言葉を見つけられずにいた。

聞きたいことなら、山ほどあったのだ。

今までどうしていたのか。元気だったのか。ずっとこの店で働いていたのか。

――そして、あの日のことを覚えているのか。

けれど、喉まで出かかったその問いのどれもが、いまこの店を満たしている穏やかな時間には似合わない気がした。

壁に掛けられた古時計が、チクタクと規則正しく時を刻んでいく。

遥か遠くのガード下を、ガタゴトと電車が通り過ぎていく重低音が微かに響いた。

一杯のコーヒーを飲み終える頃には、窓の外の街並みはすっかり夜の闇に飲み込まれていた。

和也は卓上の伝票を手に取ると、静かに立ち上がる。

レジで会計を済ませる。

「ごちそうさまでした」

「ありがとうございました」

丁寧にお釣りとレシートを受け取り、そのまま扉へと向かう。

このまま外へ出れば、今日という日は「懐かしい店にふらりと寄っただけ」で終わる。

それでいいはずだった。

そう自分に言い聞かせ、真鍮のドアノブへ手をかけた、その時。

「……水野くん」

背後から、静かだがしっかりと芯のある声が届いた。

和也は息を呑み、ゆっくりと振り返る。

紗季はカウンターの内側に佇んだまま、まっすぐにこちらを見つめていた。

「久しぶり」

たったそれだけの、ひとことだった。

和也は何か言葉を返そうと口を開かけたが、うまく声にならない。

結局、困ったような笑みを浮かべ、小さく深くうなずくのが精一杯だった。

「……うん。久しぶり」

カランと鈴が鳴り、ドアを開けると冬の冷たい夜風が頬をなでた。

店を後にし、夜道を踏みしめて歩き出しても、彼女が呼んだ自分の名前の余韻だけが、いつまでも耳から離れなかった。


〜第3話〜 「また来た理由」


週の半ば、水曜日の夜だった。

オフィスを出た和也は、駅へと向かって伸びる人波の中で、ふと足を止めた。

今日はこの街に特別な用事があるわけではない。仕事の打ち合わせも、同僚との約束も入っていなかった。

ホームへと滑り込み、そして離れていく電車の重いジョイント音が、夜の空気に混じって遠くから聞こえてくる。

一本乗り遅れたところで、次を待てばいいだけだ。

和也はポケットからスマートフォンを取り出し、乗換案内のアプリを開いた。

無意識に画面を閉じる。

そして、理由もなくまた開く。

液晶の眩しい光を見つめながら、意味のない指の動きを二度三度と繰り返した後、和也は小さく息を吐き出した。

「……コーヒーでも飲んで帰るか」

誰に聞かせるでもない、自分に向けた静かな言い訳だった。

駅とは反対の方向へ足を進める。店へと続く道筋には、もう何の迷いもなかった。

通りを吹き抜ける冷たい冬風に身を縮めながら歩く。

整然と並ぶ住宅街の窓には、暖色の灯りがひとつ、またひとつとともり始めていた。

街の静けさに歩調を合わせるうちに、昼間まで頭を占めていた仕事の雑多な懸念事項は、いつの間にか綺麗に薄れていっていた。

やがて、路地の暗がりにぽつりと浮かび上がる、あの木の看板が見えてくる。

まるで昨日までそこになかった宝物を偶然見つけたかのように、胸の奥がふっと軽くなるのを感じた。

真鍮のノブを押し込み、扉を開ける。

カランと、澄んだ鈴の音が店内に響いた。

「いらっしゃいませ」

カウンターの奥から、紗季が顔を上げた。

一瞬だけ、視線がまっすぐに交差する。

次の瞬間、彼女は「あ」と気づいたように、ごく小さく会釈をした。

和也もまた、コートの襟を緩めながら同じように頭を下げる。

「こんばんは」

「こんばんは」

前回よりもずっと滑らかに、自然な声が出た。

案内される前に、和也は前回と同じ窓際のテーブル席へと腰を下ろした。

メニューに手を伸ばそうとしたとき、水を持ってきた紗季がすっと静かに尋ねてきた。

「いつもの、で大丈夫ですか?」

和也は思わず手をとめ、驚いたように顔を上げた。

「……まだ、二回目だけど」

その言葉に、紗季の口元がかすかに緩んだ。

「あ、そうだったね」

悪戯が見つかった子どものように可憐に微笑んだが、その笑顔はすぐに消え、いつもの凛とした落ち着いた表情へと戻る。

たったそれだけの他愛もないやり取りだったが、店内のしんと張り詰めていた空気全体が、ほんの少しだけ柔らかく解けた気がした。

「じゃあ……ブレンドでお願いします」

「はい」

背を向けた紗季が、豆を挽き始める。

ゴリゴリという心地よい音が店内に響き渡る中、和也は改めて店内へと視線を巡らせた。

前回と変わらない無垢材の棚。

壁で静かに時を刻む柱時計。

使い込まれて深みを増した木の床。

一見すると、高校時代から何も変わっていないように思えた。

けれど、目を凝らしてみれば、テーブルの端には細かな傷が増え、漆喰の壁の色も年月なりに少しずつ褪せてきている。

時間が止まっているように見えて、確かにこの店にも、自分たちと同じだけの年月が流れていたのだ。

やがて運ばれてきたコーヒーに口をつける。

湯気とともに広がる深い苦みと香ばしさは、前回味わったものと寸分違わず熱かった。

「お仕事、やっぱりお忙しいんですか?」

カウンターの向こう側から、カップを磨く手を止めずに紗季が尋ねてきた。

「まあ、それなりにね」

「今日は……この近くでお仕事だったんですか?」

和也はカップを持ったまま、一瞬だけ言葉を詰まらせた。

適当な嘘をついて誤魔化すこともできた。

けれど、彼女のまっすぐな雰囲気を前にすると、不思議と嘘をつく気が起きなかった。

「……いや」

正直に、静かに答える。

「今日は、ここに来ようと思って来たんだ」

紗季は手元を止め、和也の顔をじっと見つめた。

そして、「そう」とだけ低く呟いた。

驚く様子も、あるいは困惑するような素振りも見せない。

ただ、すんなりとその言葉を受け止めてくれた。

その自然な反応に、和也の肩に入っていた余計な力が、すーっと抜けていくのがわかった。

店内には再び沈黙が訪れた。

だが、それは決して気まずいものではなく、互いの存在を感じながら静けさを共有できる、心地よい沈黙だった。

和也がコーヒーを啜る音と、ストーブが吐き出す暖房の低い運転音だけが、空間に静かに重なり合っていく。

やがてカップが空になり、和也は伝票を持って席を立った。

レジで会計を済ませ、釣銭をポケットに収める。

「ありがとうございました」

「また…」

言いかけて、和也はとっさに口をつぐんだ。

「また来ます」と言ってしまうと、まるで次の訪問を約束するような、特別な意味を帯びてしまいそうだったからだ。

代わりに、短く軽く頭を下げる。

紗季もまた、カウンターの中で静かに深々と会釈を返してくれた。

店を出ると、夜の空気は先ほどよりもさらに一段と冷え込んでいた。

息を白く吐き出しながら駅へと向かって歩く道すがら、和也は自分に対して自嘲気味な笑みを漏らした。

ただコーヒーが飲みたかっただけなんて嘘だ。

わざわざ途中下車をしてまで、この場所を目指した理由。

そんなことは、自分自身が一番よくわかっていた。



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