半分ずつの傘――完璧じゃない二人が、同じ歩幅で愛を覚えていく。
半分ずつの傘
――完璧じゃない二人が、同じ歩幅で愛を覚えていく。
その男は、傘を半分しか差さなかった。
駅前の時計台の下で初めて会った夜、雨は細く、けれどしつこく降っていた。
約束の時間を三十分過ぎていた。仕事で乱れた髪を片手で押さえながら、綾乃は人混みの向こうにその人を見つけた。
スマホも見ず、壁にもたれもせず、両手で鞄の持ち手を握って立っている男。
待たされた不機嫌さよりも、彼女が無事に来たことへの安堵を先に顔に出してしまう男。
綾乃はその時点で、少しだけ負けていたのかもしれない。
雨脚が強くなった時、佐伯誠司は鞄から紺色の折り畳み傘を取り出した。
二人で入るには、明らかに小さかった。
綾乃は、男が差し出したその傘を見て、思わず笑いそうになった。
それなのに誠司は、大真面目な顔でその傘を綾乃の方へ傾けていた。自分の肩が濡れていることには、まるで気づいていない。
「佐伯さん、濡れています」
「あ、大丈夫です。私は平気です」
「平気じゃありません」
綾乃は傘の柄に手を添えた。
その時、誠司の指が小さく震えた。
触れたいのに、触れてはいけないと思っている人の震えだった。
綾乃はこれまで、男の余裕をたくさん見てきた。
慣れた店選び。
慣れた褒め言葉。
慣れた沈黙。
慣れた嘘。
けれど、目の前の男には、余裕がなかった。
その代わりに、綾乃を濡らすまいとする不器用な必死さがあった。
「半分ずつにしましょう」
綾乃が言うと、誠司は深く頷いた。
「はい。半分ずつで」
その時の綾乃は、まだ知らなかった。
この小さな傘が、いつか二人の合言葉になることを。
嬉しいことも、怖いことも、迷う夜も、言えなかった過去も。
全部、半分ずつ持つことになるなんて。
綾乃は、恋愛というものを少しだけ信用していなかった。
大会社の社長秘書として働いていると、男の優しさにはたいてい目的があるのだと、嫌でも知ってしまう。
高級な店を予約する男。
肩書きをちらつかせる男。
こちらの予定より、自分の都合を優先する男。
褒め言葉の形をした値踏み。
綾乃はそれらを、微笑みながら受け流す術を知っていた。
ただし、慣れていたわけではない。
慣れた顔をするのが上手くなっただけだった。
エレベーターの鏡に映る自分の笑顔が、たまに他人のものに見えることがある。唇の角度は正しく、声の高さも崩れていない。けれど胸の奥では、薄い紙を一枚ずつ重ねられていくような息苦しさがあった。
綺麗ですね、と言われる。
仕事ができそうですね、と言われる。
隙がないですね、と言われる。
褒められているのに、なぜか少しずつ孤独になる。
誰かの視線の中で、綾乃はいつも「綾乃らしい綾乃」を演じていた。
背筋を伸ばし、相手の言葉に相槌を打ち、必要な距離を保つ。
その所作だけで、たいていの男は勝手に満足した。
綾乃、二十九歳。
高身長で、姿勢がよく、落ち着いた声をしている。
社内では、誰もが彼女を「高嶺の花」と呼んだ。
けれど綾乃自身は、その言葉があまり好きではなかった。
高嶺の花というのは、誰かに見上げられるだけの存在だ。
触れられず、近づかれず、理解もされない。
美しいと言われるたびに、綾乃は少しだけ遠くへ置かれていく気がした。
飲み会の帰り道、同僚の女性に「綾乃さんは悩みなんてなさそうでいいですよね」と笑われたことがある。
その時も綾乃は笑った。
いいですよね、と言われるほど楽ではなかったし、悩みがないほど鈍くもなかった。
でも、そこで本当のことを言うと、場の空気を壊してしまう。
だから彼女は、いつものように静かに笑った。
そんな彼女がマッチングアプリを入れたのは、ほんの気まぐれだった。
友人に勧められたから。
休日の夜に、少しだけ寂しかったから。
自分にもまだ、誰かを好きになる余地があるのか確かめたかったから。
もっと正直に言えば、自分の人生がこのまま、誰にも乱されない綺麗な部屋のように終わっていくことが、少し怖かったからだ。
仕事はある。
収入もある。
ひとりで生きていく知恵も、振る舞いも、身だしなみも身につけている。
それでも夜、洗面所の鏡に映る自分を見ると、ふいに思うことがあった。
この顔を、本当に心配してくれる人はいるのだろうか。
この人が帰ってきてよかったと、ただそれだけで安心してくれる人はいるのだろうか。
けれど届くメッセージは、どれも似ていた。
『綺麗ですね』
『秘書さんなんですね、すごい』
『今度飲みに行きませんか?』
『年上はどうですか?』
綾乃はそれらを読んでは、静かに画面を閉じた。
その中で、ひとつだけ妙に硬い文章が届いた。
『はじめまして。突然のご連絡、失礼いたします。
プロフィールを拝見し、文章の落ち着いた雰囲気に惹かれました。
私は佐伯誠司と申します。四十歳、会社員です。
不慣れなため失礼がありましたら申し訳ありません。
よろしければ、少しだけお話させていただけませんでしょうか。』
綾乃は思わず、画面を二度見した。
「……面接?」
ひとりの部屋で、声に出して笑ってしまった。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
軽くない。
慣れていない。
そして、嘘がない。
誠司のプロフィール写真は、少しぎこちなかった。
スーツ姿で、肩に力が入りすぎている。
若く見せようともしていない。
自分を大きく見せようともしていない。
綾乃は少し迷ってから、返信した。
『はじめまして。綾乃です。
丁寧なメッセージをありがとうございます。
こちらこそ、よろしくお願いいたします。』
それが始まりだった。
誠司のメッセージは、いつも丁寧だった。
流行りの言葉も、絵文字も、駆け引きもない。
返事は少し遅い。
けれど一通一通に、きちんと考えた跡があった。
『今日はお仕事、お疲れさまでした。
秘書のお仕事は想像以上に気を遣われることが多いのではないかと思います。
どうかご無理なさらないでください。』
『お好きだと書かれていた紅茶ですが、私は詳しくありません。
ただ、今度お会いできる機会がありましたら、綾乃さんのお好きなものを教えていただけたら嬉しいです。』
綾乃は最初、その文章を少し重いと思った。
でも、日を追うごとに、帰宅後スマホを見るのが習慣になった。
通知欄に「佐伯誠司」の名前があると、なぜか肩の力が抜けた。
ある夜、誠司からこんなメッセージが届いた。
『正直に申し上げます。
私は、綾乃さんに惹かれています。
軽い気持ちではありません。
もしご迷惑でなければ、一度きちんとお会いしたいです。』
綾乃は、しばらく返信できなかった。
告白としては、あまりにも早い。
そして、あまりにも不器用だった。
普通なら警戒するところだ。
けれどその文章は、なぜか彼女の胸にまっすぐ届いた。
下心ではない。
勝負でもない。
ただ、誠実に自分の気持ちを差し出している。
綾乃は画面を見つめながら、小さく息を吐いた。
『ありがとうございます。
少し驚きました。
でも、嫌ではありません。
お会いしてみたいです。』
送信したあと、綾乃の胸は静かに鳴っていた。
初めて電話をした日のことを、綾乃はよく覚えている。
誠司は突然かけてこなかった。
『本日、もしご都合がよろしければ、五分ほどお電話してもよろしいでしょうか。
難しければ、まったく気になさらないでください。』
綾乃はその文面を見て、また少し笑った。
五分の電話に、こんなに改まる人がいるのだろうか。
『大丈夫です。二十一時でしたら出られます。』
約束の時間、二十一時ちょうど。
スマホが震えた。
綾乃が通話ボタンを押すと、向こう側で一瞬、息を呑む音がした。
『……こんばんは。佐伯です』
「こんばんは。綾乃です」
『あ、はい。あの、本日は、お電話のお時間をいただきまして……』
あまりにも固い。
まるで昭和の時代に、好きな女の子の家へ電話をかけ、父親が出ないか怯えている青年のようだった。
綾乃は思わず、唇を押さえた。
「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ」
『すみません。緊張しています』
正直すぎる返事だった。
『綾乃さんの声を聞いたら、余計に緊張しました』
綾乃の胸が、ふいに小さく跳ねた。
今まで、綾乃を口説く男たちは余裕を見せた。
慣れた声で、慣れた言葉を使った。
女性の扱いを知っているという顔をした。
けれど誠司は違った。
四十歳の大人の男が、たった五分の電話でこんなにも緊張している。
自分の存在が、この人をこんなに揺らしている。
その事実が、綾乃の心をくすぐった。
初めて会う日は、金曜日の夜だった。
場所は、駅前の大きな時計台の下。
誠司が指定した。
『分かりやすい場所を調べました。
改札からも近く、人も多いので安心かと思います。』
綾乃はその一文に、彼らしさを感じた。
しかしその日、仕事でトラブルが起きた。
社長が急な会食を入れ、海外支社との連絡が乱れ、役員の機嫌が悪くなった。
綾乃は笑顔で対応しながら、内心では時計ばかりを気にしていた。
約束の時間を十五分過ぎた。
二十分。
三十分。
綾乃は駅へ向かうタクシーの中で、急いでメッセージを送った。
『申し訳ありません。仕事で遅れています。
三十分ほど遅れてしまいます。』
すぐに返信が来た。
『承知しました。
急がなくて大丈夫です。
お気をつけていらしてください。』
怒っていない。
責めてもいない。
その文面を見た瞬間、綾乃の胸に少しだけ痛みが走った。
駅に着くと、夜風が冷たかった。
時計台の下に、誠司はいた。
スマホを見ていなかった。
壁にもたれてもいなかった。
背筋を伸ばして、両手で鞄の持ち手を握り、ただ前を見て立っていた。
まるで、待ち合わせという行為そのものを大切にしているようだった。
「佐伯さん」
綾乃が声をかけると、誠司ははっと顔を上げた。
そして、心底ほっとしたように笑った。
「よかった」
「遅れてしまって、本当に申し訳ありません」
「いえ。ご無事でよかったです。事故にでも遭われたのかと、少し心配していました」
その言葉に、綾乃は一瞬、何も返せなかった。
遅れたことを責めるのではなく。
待たされた自分の不満を言うのでもなく。
この人は、綾乃の無事を先に心配した。
仕事の世界では、遅れれば責められる。
失敗すれば評価が下がる。
完璧でいなければ、存在価値が薄れていく。
けれどこの人は違う。
綾乃が息を切らしていることに気づき、誠司は少し慌てた。
「あの、歩けますか。少し休みますか。お店は予約してありますが、時間は変更できます。たぶん。いや、できるはずです」
「たぶん?」
「あ、すみません。確認します」
誠司は急いでスマホを取り出した。
その瞬間、画面の検索履歴がちらりと見えた。
『初デート 待ち合わせ 注意点』
『女性 歩きやすい 駅近 店』
『会話 沈黙した時』
『二十九歳女性 喜ぶ 食事』
『緊張しない方法』
綾乃は見なかったふりをした。
けれど、胸の奥がじんわり熱くなった。
この人は、私と会うために調べたのだ。
何度も考えて、失敗しないように準備して、それでも緊張してここに立っていた。
高価なレストランに慣れた男はたくさんいた。
スマートにエスコートできる男もたくさんいた。
でも、自分のためにここまで不器用に努力してくれた人は、初めてだった。
店へ向かう道でも、誠司は少しぎこちなかった。
「こちらです。……たぶん」
「たぶんが多いですね」
「あ、いえ、昨日一度歩いたので大丈夫です」
「昨日?」
誠司はしまった、という顔をした。
「いえ、その……駅からお店まで、迷わないように確認しました」
「わざわざ?」
「はい。綾乃さんを、初対面で不安にさせたくなかったので」
綾乃は足を止めそうになった。
夜の街は騒がしかった。
人の流れが速く、ネオンが水たまりに滲んでいる。
その中で、誠司の言葉だけが静かに届いた。
不安にさせたくなかった。
たったそれだけのために、この人は一度ここを歩いたのだ。
改札から時計台まで。
時計台から店まで。
もしかしたら雨の日のルートまで。
綾乃は、気づいてしまった。
彼の不器用さは、欠点ではない。
自分を大切にしようとしてくれる形なのだ。
店は小さな洋食屋だった。
派手さはない。
けれど清潔で、温かい明かりが灯っていた。
誠司は予約名を告げる時、少し声が大きくなった。
席に着く時、椅子を引くタイミングを間違えた。
メニューを渡す手も、わずかに震えていた。
綾乃はそのすべてに気づいた。
そして、そのすべてを愛おしいと思い始めている自分に気づいた。
「佐伯さん」
「はい」
「そんなに頑張らなくても大丈夫です」
誠司は目を瞬いた。
「でも、今日は大事な日なので」
「どうしてですか?」
誠司は少し黙った。
それから、まっすぐ綾乃を見た。
「綾乃さんに、ちゃんと会える日だからです」
何の飾りもない言葉だった。
けれど綾乃は、しばらく目を逸らせなかった。
恋愛とは、もっと巧妙なものだと思っていた。
もっと駆け引きがあり、条件があり、刺激があり、熱に浮かされるようなものだと思っていた。
でも今、目の前にあるのは違う。
ぎこちない沈黙。
震える指先。
下手なエスコート。
検索履歴に残った努力。
そして、こちらを傷つけまいとする真剣な眼差し。
綾乃はグラスの水を一口飲んだ。
心の底にあった冷たい場所が、少しずつほどけていくのを感じた。
「私、こういうお店、好きです」
誠司の顔が明るくなった。
「本当ですか」
「はい。落ち着きます」
「よかった……」
その安堵の仕方があまりにも本気で、綾乃はとうとう笑ってしまった。
誠司は驚いたように彼女を見た。
「すみません、何かおかしかったですか」
「違います」
綾乃は首を横に振った。
「嬉しくなっただけです」
誠司はその意味が分からないようだった。
けれど、少し遅れて照れたように笑った。
その笑顔を見た時、綾乃は思った。
この人を好きになるのは、きっと簡単ではない。
スマートではないし、器用でもない。
年齢も違う。
周囲に話せば、驚かれるかもしれない。
それでも。
この人の隣にいる自分は、少し息がしやすい。
完璧な秘書ではなく。
高嶺の花でもなく。
ただの一人の女性として、ここにいられる。
食事のあと、店を出ると雨が降り始めていた。
誠司は慌てて鞄を開けた。
「あ、傘を……すみません、折り畳みしかなくて」
小さな紺色の傘だった。
二人で入るには少し狭い。
誠司は迷った末に、傘を綾乃の方へ大きく傾けた。
自分の肩が濡れていることに、まるで気づいていない。
「佐伯さん、濡れています」
「あ、大丈夫です。私は平気です」
「平気じゃありません」
綾乃は少しだけ傘の柄に手を添えた。
二人の手が触れた。
誠司が固まる。
綾乃も、少しだけ呼吸を忘れた。
雨音が、二人の間をやわらかく包んでいた。
「半分ずつにしましょう」
綾乃が言うと、誠司は真面目な顔で頷いた。
「はい。半分ずつで」
その言い方があまりに律儀で、綾乃はまた笑った。
駅までの短い道。
二人は肩が触れそうな距離で歩いた。
誠司は何度も歩幅を合わせようとしてくれた。
不自然なほどゆっくり歩いて、時々こちらを見る。
そのたびに綾乃は、息の奥が温かくなった。
改札の前で、誠司は深く頭を下げた。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ」
「また、お会いしたいです」
その言葉は、やはり直球だった。
綾乃はすぐに返事をしなかった。
誠司の表情が少し不安に揺れる。
綾乃はその揺れを見て、自分の心がもう傾き始めていることを知った。
「はい」
静かに答えた。
「私も、またお会いしたいです」
誠司の顔に、子どものような喜びが広がった。
その瞬間、綾乃は思った。
これはまだ、愛と呼ぶには早いのかもしれない。
けれど、愛になっていくものの始まりを、今たしかに見ている。
その夜、綾乃は自宅の玄関で靴を脱ぐ前に、もう一度スマホを見た。
誠司からのメッセージはまだ届いていなかった。
少しだけ落胆している自分に気づいて、綾乃は苦笑した。
つい数週間前まで、誰かからの返信を待つことなど面倒だと思っていた。
届いたら届いたで、返す言葉を考えなければならない。
届かなければ届かないで、こちらも忘れていられた。
恋愛における連絡というものは、綾乃にとって仕事のメールより厄介なものだった。
それなのに今夜は、違った。
靴を揃え、部屋の明かりをつけ、コートをハンガーに掛ける。
洗面所で手を洗い、鏡を見る。
少し雨に濡れた髪が頬に貼りついていた。
化粧はまだ崩れていない。
けれど、いつもの自分より表情が柔らかい。
綾乃は鏡の中の自分に向かって、小さく息を吐いた。
「何を期待しているの」
答えはなかった。
部屋はいつものように整っている。
白いカーテン。
低いテーブル。
読みかけの本。
冷蔵庫の微かな音。
ベランダの向こうでは雨が静かに落ちている。
綾乃は湯を沸かし、紅茶の缶を開けた。
茶葉の匂いが立ちのぼる。
休日の午後にひとりで飲むために買ったものだった。
誰かに説明するためではなく、自分が落ち着くためだけに選んだ香り。
誠司は紅茶に詳しくないと言っていた。
今度教えてください、と彼は書いた。
その言葉を思い出すだけで、綾乃は不思議な気持ちになる。
男たちはたいてい、知っているふりをした。
ワインも、映画も、音楽も、店も、女の扱いも。
知らないことを知らないと言うのは、彼らにとって負けのようだった。
でも誠司は、知らないと言った。
そして、教えてほしいと言った。
綾乃はカップを両手で包み、ソファに座った。
スマホはテーブルの上に伏せて置いた。
気にしていないふりをするためだった。
けれど、通知音が鳴ると、指はすぐに動いた。
『本日はありがとうございました。
無事にご自宅へ着かれましたでしょうか。
今日は緊張してしまい、失礼が多かったかもしれません。
ただ、綾乃さんとお会いできて、本当に嬉しかったです。
雨でお足元が悪い中、お越しいただきありがとうございました。
どうか今夜は温かくしてお休みください。』
長い。
綾乃は思わず笑った。
けれど、その長さを面倒だとは思わなかった。
むしろ、一文一文に彼の姿が見えた。
帰りの電車で何度も書き直し、送信する前に読み返し、失礼がないか考えたのだろう。
綾乃は返信欄を開いた。
『こちらこそ、ありがとうございました。
無事に帰宅しました。
佐伯さんも、肩が濡れていたので風邪をひかないようにしてください。』
そこまで打って、少し迷った。
何かもう一言、足したかった。
ただの礼ではなく、今夜の気持ちが少しだけ伝わる言葉。
けれど、何を書けばいいのか分からなかった。
綾乃はしばらく画面を見つめたあと、最後にこう付け加えた。
『今日は、とても安心しました。』
送信した瞬間、体の内側が少し熱くなった。
安心。
それは恋の言葉としては地味だった。
ときめいた。
楽しかった。
また会いたい。
そういう言葉の方が分かりやすい。
けれど、綾乃にとっては、安心という言葉がいちばん正しかった。
誠司といる間、彼女は自分を守る必要がなかった。
値踏みされているかどうかを測らなくてよかった。
会話の裏を読まなくてよかった。
相手の欲望がどこに向かっているのかを警戒しなくてよかった。
ただ、そこにいればよかった。
スマホがまた震えた。
『安心していただけたなら、何よりです。
それが一番嬉しいです。』
綾乃はその一文を、何度も読んだ。
その夜、眠る前に、彼女は久しぶりに日記帳を開いた。
仕事の予定や読んだ本の題名だけを短く書いていたノート。
何かを吐き出すためではなく、自分が自分の生活を見失わないためにつけているものだった。
綾乃はペンを持ち、少し考えてから書いた。
――不器用な人に会った。
――丁寧で、まっすぐで、少し古い。
――でも、古いのではなく、大事にしているだけなのかもしれない。
そこまで書いて、ペンを止めた。
雨音が続いている。
綾乃は最後に、もう一行だけ書いた。
――また会いたいと思った。
週明けの朝、会社のエレベーターの鏡に映る綾乃は、いつもと同じだった。
白いブラウス。
細身のジャケット。
低めのヒール。
髪は後ろでゆるくまとめ、口紅は控えめな色。
秘書としての綾乃に、過不足はなかった。
彼女は完璧に見えるように作られている。
いや、正確には、そう見えるように自分を整えてきた。
失敗しないように。
余計なことを言わないように。
感情を仕事場に持ち込まないように。
誰かの視線に乱されないように。
社長室のあるフロアに着くと、空気が変わる。
低い声。
革靴の音。
会議室へ運ばれる資料。
役員たちの予定を示す画面。
そこには、時間も表情も計算された世界があった。
「綾乃さん、おはよう」
同じ秘書課の美咲が、紙袋を片手に近づいてきた。
「おはようございます」
「金曜、早く帰れた?」
「少し遅くなったけど、何とか」
「ふうん」
美咲は目ざとい。
綾乃の髪型が少し違う日、口紅の色が変わった日、昼休みにスマホを見る回数が増えた日。
そういう小さな変化を、彼女は決して見逃さない。
「何かあった?」
「何も」
「嘘。綾乃さん、ちょっと柔らかい顔してる」
「柔らかい顔って何」
「ほら、いつもは綺麗なガラスみたいなの。今日は、なんか温かいお茶みたい」
綾乃は笑った。
「たとえが分からない」
「恋でしょ」
あまりに突然だったので、綾乃は持っていたファイルを落としそうになった。
美咲はその反応を見て、楽しそうに目を細めた。
「やっぱり」
「違う」
「誰? 社内?」
「違います」
「社外なんだ」
しまった、と思った。
美咲は小さく拍手した。
「いいじゃん。綾乃さん、今まで誰に誘われても全然乗らなかったし。やっと人間っぽくなってきた」
「人間ではありました」
「高嶺の花だったから」
その言葉に、綾乃は少しだけ黙った。
美咲は悪気なく使ったのだろう。
社内の誰もがそう言う。
綾乃さんは綺麗だから。
綾乃さんは隙がないから。
綾乃さんは普通の男じゃ無理だから。
褒め言葉の形をしているが、そこには距離がある。
綾乃は微笑んだ。
「そんなことありません」
「でも本当に、相手どんな人?」
綾乃は廊下の先に目を向けた。
誠司のことを、どう説明すればいいのか分からなかった。
四十歳の会社員。
不器用。
まじめ。
検索履歴に『初デート 会話』と残す人。
雨の日に自分の肩を濡らす人。
それらを口にすると、うまく伝わらない気がした。
「……普通の人です」
美咲は意外そうに眉を上げた。
「普通?」
「はい。とても普通で、でも、きちんとしている人」
「それ、褒めてる?」
「褒めています」
自分でも驚くほど、穏やかな声が出た。
美咲は少しだけ真面目な顔になった。
「綾乃さんがそう言うなら、いい人なんだね」
綾乃は返事をしなかった。
いい人。
その言葉は簡単すぎる気がした。
誠司は、いい人というより、逃げない人だった。
格好つけることからも、知らないことからも、自分の緊張からも、彼は逃げなかった。
恥ずかしさを隠さず、未熟さを隠さず、ただこちらに失礼のないように立っていた。
それは、綾乃がこれまで見てきた男の優しさとは違った。
土曜日の午後、綾乃は誠司を小さな紅茶専門店へ連れて行った。
駅から少し離れた裏通りにある店だった。
古いビルの二階にあり、階段は狭く、看板も控えめで、初めて来る人には少し分かりづらい。
綾乃はこの店が好きだった。
人が多すぎない。
店員が必要以上に話しかけてこない。
ひとりで本を読んでいても、誰も不思議そうに見ない。
誠司は店に入る前、入口の前で少し立ち止まった。
「緊張していますか?」
綾乃が尋ねると、彼は正直に頷いた。
「はい。紅茶に詳しい方々の場所という気がして」
「大丈夫です。試験ではありません」
「そうですね。すみません」
「謝ることでもありません」
綾乃は階段を上がりながら、少しだけ笑った。
店内には柔らかい午後の光が入っていた。
木のテーブル。
白いカップ。
棚に並ぶ茶葉の缶。
窓の外では、春の終わりの風が街路樹の葉を揺らしている。
向かい合って座ると、誠司はメニューを真剣に見つめた。
「種類が多いですね」
「多いです」
「ダージリン、アッサム、ウバ……これは国名ですか?」
「産地です」
「なるほど」
彼は小さく頷き、まるで会議資料を読むようにメニューに目を落とした。
綾乃は彼の眉間にしわが寄っているのを見て、そっと言った。
「最初は、好きな香りで選べばいいと思います」
「好きな香り」
「はい。難しく考えなくていいんです」
誠司は少し考えたあと、店員に勧められたアッサムを選んだ。
綾乃はダージリンにした。
紅茶が運ばれてくるまでの間、二人は仕事の話を少しした。
誠司はメーカーの総務部で働いていると言った。
華やかな部署ではない。
人事、設備、契約、社内調整。
誰かが困る前に整えておく仕事。
「目立たないお仕事ですね」
綾乃が言うと、誠司は少しだけ笑った。
「はい。目立たない方がうまくいっている仕事です」
その言葉に、綾乃は顔を上げた。
「秘書も少し似ています」
「そうなのですか」
「はい。問題が起きる前に整える仕事です。うまくいっている時ほど、誰にも気づかれません」
「それは、大変ですね」
誠司はすぐにそう言った。
分かったふりでも、軽い共感でもなかった。
彼自身が目立たない仕事をしているからこそ、その大変さを想像できるのだろう。
綾乃は少し驚いた。
綾乃の仕事を聞いた男たちは、多くが華やかな部分だけを見た。
社長秘書。
美人。
大企業。
役員フロア。
そこから勝手にドラマを作り、勝手に憧れた。
けれど誠司は、その裏側の疲れを先に見ようとした。
紅茶が運ばれてきた。
誠司はカップを持ち上げ、慎重に香りを嗅いだ。
「どうですか?」
「……安心する匂いがします」
綾乃は少し目を見開いた。
「いい表現ですね」
「専門的ではなくてすみません」
「専門的でなくていいんです。その方が、私は好きです」
誠司は少し照れたようにカップを見た。
午後の光が彼の手元に落ちている。
指は太く、少し節が目立つ。
華奢でも美しくもない。
けれど、誠司の手はきちんと働いてきた人の手だった。
綾乃は、ふと、その手が自分の傘を支えていたことを思い出した。
二人の手が触れた瞬間。
雨音。
狭い傘。
半分ずつで、と彼が真面目に頷いた顔。
思い出しただけで、胸の内側が静かに熱くなった。
「綾乃さん」
「はい」
「私は、何か間違ったことをしていないでしょうか」
突然の言葉に、綾乃は瞬きをした。
「どういう意味ですか?」
「私は、女性とのお付き合いに慣れていません。ですので、自分では丁寧にしているつもりでも、綾乃さんに負担をかけているかもしれないと思いまして」
綾乃はカップを置いた。
誠司の目は真剣だった。
彼は自信がないのではない。
相手を軽く扱いたくないのだ。
「負担ではありません」
「本当ですか」
「はい」
綾乃は少しだけ迷った。
けれど、言葉を選んで続けた。
「佐伯さんは、丁寧すぎるところがあります」
「はい」
「でも、それは私を縛る丁寧さではありません」
「縛る?」
「自分をよく見せるための優しさではなくて、私が嫌な思いをしないための丁寧さに見えます」
誠司はしばらく黙っていた。
彼の顔に、何かが静かに届いたようだった。
「そう見えているなら、よかったです」
「はい」
「私は、綾乃さんに嫌われたくないのだと思います」
あまりにも素直な言葉だった。
綾乃は視線を落とした。
嫌われたくない。
大人になってから、その言葉をこんなにまっすぐ聞いたのは初めてだった。
人はたいてい、傷つくことを恐れて余裕を装う。
追っていないふりをする。
相手の心など必要ないような顔をする。
誠司には、それができない。
できないから、不器用なのだ。
でもその不器用さは、綾乃にとって、隠されていない心そのものだった。
「嫌いではありません」
綾乃は静かに言った。
誠司は顔を上げた。
「本当ですか」
「はい。むしろ……」
そこまで言って、綾乃は言葉を止めた。
好きです、と言うにはまだ早い。
早いというより、怖かった。
好きと言ってしまえば、この穏やかなものに名前がついてしまう。
名前がつけば、期待が生まれる。
期待が生まれれば、失うことも考えなければならない。
綾乃はまだ、その場所に立つ勇気がなかった。
「むしろ?」
誠司が控えめに尋ねる。
綾乃は微笑んだ。
「安心します」
誠司は一瞬、言葉をなくした。
そして、小さく頷いた。
「それは、私にとって一番嬉しい言葉です」
年齢差について、綾乃が最初に意識したのは、美咲の何気ない一言だった。
「四十歳? 十一歳上?」
秘書課の休憩室で、綾乃は思わず口を噤んだ。
言うつもりはなかった。
けれど美咲に聞かれるうち、誠司の年齢だけは答えてしまった。
「はい」
「へえ。結構上だね」
美咲に悪意はなかった。
ただ、一般的な反応としてそう言っただけだろう。
「バツイチ?」
「違います」
「じゃあ、ずっと独身?」
「たぶん」
「たぶんって」
「そこまで詳しく聞いていません」
美咲は紙コップのコーヒーを持ったまま、少し考える顔をした。
「いい人ならいいけど、綾乃さんならもっと選べるでしょ」
その言葉は、綾乃の胸に小さな棘のように残った。
もっと選べる。
それはこれまで何度も言われてきた言葉だった。
もっと若い人を。
もっと肩書きのある人を。
もっと収入の高い人を。
もっと見栄えのいい人を。
綾乃の恋愛は、いつも他人の評価表の上に置かれた。
釣り合う、釣り合わない。
もったいない、もったいなくない。
得をする、損をする。
誰も、綾乃がその人の隣で呼吸できるかどうかまでは聞かなかった。
「選ぶって、難しいですね」
綾乃がそう言うと、美咲は少し驚いたように見た。
「綾乃さんでも?」
「私だから、かもしれません」
それ以上は言わなかった。
その夜、誠司と電話をした。
通話はもう五分ではなくなっていた。
それでも誠司は毎回、事前にメッセージを送ってくる。
『本日、もしご負担でなければ、少しお電話できますでしょうか。』
綾乃はその文面を見るたび、少し笑ってから返信する。
『大丈夫です。二十一時半なら。』
そして、誠司は必ず二十一時半ちょうどにかけてくる。
『こんばんは』
「こんばんは」
最初のぎこちなさは少しずつ薄れてきた。
けれど、誠司の声にはまだ緊張が残っている。
綾乃はその緊張が嫌いではなかった。
「佐伯さんは、どうして今まで結婚されなかったんですか」
自分でも少し唐突だと思った。
受話口の向こうで、誠司が小さく息を吸う音がした。
『そうですね……』
彼はごまかさなかった。
『仕事を言い訳にしていたところはあると思います。若い頃は、いつか自然に誰かと出会えると思っていました。でも、そういうものではありませんでした』
「自然には、出会えませんでしたか」
『はい。私は、気持ちを伝えるのが得意ではありません。好意を持っても、相手に迷惑ではないかと考えているうちに、何もしないまま終わってしまうことが多かったです』
綾乃は黙って聞いていた。
『それから、三十代の後半になって、今さら誰かに好意を持つこと自体が恥ずかしくなりました』
「恥ずかしい?」
『はい。四十にもなって、緊張したり、返信を待ったり、相手の言葉で一喜一憂したりする自分が、情けなく思えることがあります』
少し間を置いて、誠司は続けた。
『昔、結婚を考えた人がいました』
綾乃は息をひそめた。
『三十代の前半です。相手は同じ会社の人でした。彼女はよく笑う人で、私にもずいぶん我慢してくれました』
「我慢?」
『私は、彼女に迷惑をかけないことばかり考えていました。仕事が忙しくても忙しいと言わない。会えなくても理由を説明しない。悩みがあっても相談しない。彼女のためだと思っていました』
誠司の声は低くなった。
『でも最後に言われました。あなたは優しいけれど、私を必要としてくれない、と』
綾乃は何も言えなかった。
必要としてくれない。
その言葉は、誠司という人の不器用さの奥へ静かに光を当てた。
『それから私は、誰かの人生に踏み込むことが少し怖くなりました。求めることも、頼ることも、相手を縛ることのように思えてしまって』
「それで、何でも大丈夫にするんですか」
『たぶん、そうです』
綾乃はスマホを持つ手に力を込めた。
誠司はただ恋に慣れていないのではない。
大切にしたい人を失った経験から、今度は何も求めないことで相手を守ろうとしている。
その優しさは美しい。
けれど、間違えれば相手を孤独にする。
「情けなくはありません」
綾乃は静かに言った。
『そうでしょうか』
「はい」
少し間を置いて、続けた。
「私も、返信を待ちます」
言ってしまってから、綾乃は顔が熱くなるのを感じた。
電話でよかった。
もし向かい合っていたら、こんな言葉は言えなかったかもしれない。
誠司はすぐには答えなかった。
やがて、低い声で言った。
『それを聞いて、今とても嬉しいです』
「大げさです」
『大げさではありません』
その声は、少し震えていた。
『綾乃さんが、私からの返信を待ってくださることがあるのなら、それは私にとって、信じられないくらい幸せなことです』
綾乃は窓の外を見た。
夜のマンション群に、点々と明かりが灯っている。
どの部屋にも生活があり、誰かの気配があり、言えなかった言葉がある。
綾乃は膝の上で手を重ねた。
「佐伯さん」
『はい』
「私、年齢のことを少し考えました」
誠司は黙った。
「十一歳違いますよね」
『はい』
「周りから見たら、不思議に思われるかもしれません」
『そうだと思います』
誠司の声は静かだった。
『綾乃さんは、私にはもったいない方です』
綾乃は眉を寄せた。
「その言い方は、あまり好きではありません」
『すみません』
「謝らないでください」
綾乃は少し息を整えた。
「もったいない、という言葉は、私を物みたいにする気がします」
『……はい』
「私は、誰かの評価で誰かを選びたいわけではありません」
言いながら、綾乃は自分の言葉に驚いていた。
これは美咲に言えなかった言葉だ。
いや、ずっと誰にも言えなかった言葉だった。
「私は、自分が息をしやすい人のそばにいたいです」
電話の向こうで、誠司が長く沈黙した。
綾乃は不安になった。
「重かったですか」
『いいえ』
誠司の声は、低く、ゆっくりだった。
『今の言葉を、私は大切にします』
大切にします。
誠司はいつもそうだった。
受け取った言葉を、ただ喜んで消費しない。
手のひらに置いて、形を確かめるように大切にする。
綾乃は胸の奥が静かに揺れるのを感じた。
三度目に会った日、二人は映画を観た。
誠司が選んだのではなく、綾乃が選んだ。
昔の外国映画を小さな映画館で再上映していると知り、誘ったのだ。
誠司は待ち合わせ場所に十五分前からいた。
それはもう驚くことではなかった。
けれどその日、彼は片手に小さな紙袋を持っていた。
「それは?」
綾乃が尋ねると、誠司は少し困った顔をした。
「差し入れ、というほどのものではありませんが」
紙袋の中には、喉飴と小さなハンドクリームが入っていた。
「この間、電話で、最近乾燥するとおっしゃっていたので」
綾乃は袋の中を見つめたまま、しばらく言葉を失った。
高価なものではない。
洒落てもいない。
包装も簡素で、きっと駅ビルの店で買ったのだろう。
けれど、彼は覚えていた。
綾乃が何気なく言ったことを。
乾燥する。
喉が少し疲れる。
ハンドクリームを切らしている。
そんな小さな言葉を、彼は拾っていた。
「ありがとうございます」
綾乃は静かに言った。
「嬉しいです」
誠司はほっとしたように笑った。
「よかったです。重いかもしれないと思って迷ったのですが」
「重くありません」
「本当ですか」
「はい」
綾乃は紙袋を鞄に入れた。
「佐伯さんは、私の話をちゃんと聞いてくれますね」
誠司は少し驚いた顔をした。
「聞いています」
「普通は、聞いているようで聞いていない人が多いです」
「そうなのですか」
「はい」
誠司は少し考えた。
「綾乃さんの言葉は、聞き逃したくありません」
綾乃は視線を逸らした。
人通りの多い街でよかった。
雑音があってよかった。
そうでなければ、自分の鼓動が聞こえてしまいそうだった。
映画館は古かった。
座席は少し狭く、床はきしみ、スクリーンも最新の劇場ほど大きくはなかった。
けれど綾乃は、こういう映画館が好きだった。
時間がゆっくり流れる場所。
新しさではなく、残ってきたものに価値がある場所。
誠司は上映中、ほとんど動かなかった。
飲み物を取る時も音を立てないように慎重で、咳をしそうになると、ハンカチで口元を押さえた。
綾乃は横顔を少しだけ見た。
スクリーンの光が誠司の頬に揺れている。
若くはない。
華やかでもない。
けれど、その横顔には静かな誠実さがあった。
映画の中で、主人公の女が恋人に別れを告げる場面があった。
彼女は泣かなかった。
ただ、駅のホームで、相手のコートの襟を直し、「風邪をひかないで」と言った。
それだけだった。
綾乃はその場面で、なぜか胸が詰まった。
愛していると言わなくても、そこに愛があることが分かる。
触れなくても、触れているより深く相手を思っていることがある。
隣で誠司が、ほんの少し姿勢を変えた。
彼も同じ場面を見ている。
同じ暗闇の中で、同じ沈黙を共有している。
そのことが、綾乃には不思議だった。
映画が終わると、外は夕方になっていた。
映画館を出た人々が、それぞれの会話をしながら街へ散っていく。
綾乃と誠司は、しばらく黙って歩いた。
「どうでしたか?」
綾乃が尋ねると、誠司は少し考えた。
「静かな映画でした」
「退屈でした?」
「いいえ。静かなのに、後からいろいろ残ります」
「そうですね」
「最後に、襟を直す場面がありましたね」
綾乃は足を止めそうになった。
「覚えていたんですか」
「はい。あの場面が一番印象に残りました」
「どうしてですか」
誠司は歩道の端で少し立ち止まった。
「好きだと言わないことが、かえって好きだと言っているように見えたからです」
綾乃は何も言えなかった。
誠司は続けた。
「私は、言葉にしないと伝わらないこともあると思います。でも、言葉にしすぎると軽くなることもあるのかもしれません」
その言葉は、綾乃の心の奥に触れた。
綾乃は、愛しているという言葉を簡単に言う男たちを知っていた。
出会って間もなく、熱に浮かされたように。
あるいは、相手を動かすための合図のように。
その言葉は綺麗だった。
けれど、軽かった。
誠司は、好きだという言葉すら、いつも両手で持つように差し出す。
綾乃はその重さを、少し怖いと思う。
でも、その重さに守られているとも思う。
駅へ向かう途中、人混みが少し増えた。
横断歩道の手前で、前から走ってきた自転車を避けるように、綾乃の体がふらついた。
その瞬間、誠司の手が彼女の腕に触れた。
「危ない」
短い声だった。
彼の手はすぐに離れた。
「すみません、急に触れて」
綾乃は首を横に振った。
「大丈夫です」
腕に残った感覚が、なかなか消えなかった。
誠司はまた距離を取ろうとした。
綾乃はその動きを見て、胸の中で何かが小さく動くのを感じた。
この人は、近づきたいはずなのに、近づきすぎないようにしている。
触れたいはずなのに、触れていいかを怖がっている。
それは、もどかしかった。
同時に、とても大切にされている気がした。
駅までの道は、あと数分だった。
綾乃は自分の手を見た。
指先が少し冷えている。
誠司の手は、きっと温かいのだろう。
そう思った瞬間、自分でも驚くほど自然に、彼女は言った。
「佐伯さん」
「はい」
「手を、つないでもいいですか」
誠司は立ち止まった。
街の音が、一瞬遠くなった気がした。
彼は綾乃を見た。
驚きと、喜びと、信じていいのか分からない不安が、その表情に同時に浮かんでいた。
「私と、ですか」
綾乃は思わず笑った。
「他に誰がいますか」
「あ、すみません」
誠司は右手を出しかけて、すぐに引っ込めた。
「手が汗ばんでいるかもしれません」
「構いません」
「本当に?」
「はい」
綾乃は自分から手を伸ばした。
誠司の手に触れる。
大きくて、少し硬くて、温かかった。
彼の指が、戸惑うように綾乃の指を包んだ。
ただ手をつないだだけだった。
それなのに、綾乃はまるで長い橋を渡ったような気がした。
この人の手を取ることは、この人の不器用さを受け入れることだった。
この人の誠実さの前で、自分も嘘をつかないと決めることだった。
誠司は黙っていた。
綾乃も黙っていた。
二人は手をつないだまま、駅へ向かった。
改札の手前で、誠司は名残惜しそうに手を離した。
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ」
「映画も、紅茶も、手も……」
そこまで言って、彼は顔を赤くした。
「すみません。変な言い方になりました」
綾乃は笑った。
「変でした」
「はい」
「でも、嫌ではありませんでした」
誠司は安心したように息を吐いた。
綾乃は改札を抜ける前に、彼を見た。
「また、手をつなぎましょう」
誠司は一瞬、言葉を失った。
そして、深く頷いた。
「はい」
その返事は、約束のように聞こえた。
綾乃が誠司を自分の部屋に呼んだのは、出会ってから三か月ほど経った雨の日だった。
その日、二人は美術館へ行く予定だった。
しかし朝から雨が強く、電車も遅れていた。
誠司は早い時間に連絡してきた。
『本日は雨が強いようです。
無理に外出しなくても大丈夫です。
綾乃さんがお疲れでしたら、予定を変更しましょう。』
綾乃は窓の外を見た。
白いカーテン越しに、雨の線が見える。
休日の朝の部屋は静かで、どこにも行かなくてもよい気配があった。
美術館をやめることには、すぐ同意できた。
けれど、会わないことには、少し寂しさがあった。
綾乃はしばらく迷った。
そして、思い切って打った。
『よろしければ、うちに来ますか。
紅茶を淹れます。
無理なら、また今度で大丈夫です。』
送信したあと、心臓が少し速くなった。
自分の部屋に男を呼ぶ。
その事実が、綾乃を少し緊張させた。
これまでにも、付き合う前の男から部屋に行きたいと言われたことはある。
綾乃はいつも断ってきた。
部屋という場所は、自分の生活そのものだった。
そこに誰かを入れることは、自分の弱さや癖や孤独を見せることでもあった。
誠司からの返信は、少し遅かった。
『ありがとうございます。
とても嬉しいです。
ただ、ご自宅に伺うことは大きなことだと思います。
綾乃さんが少しでも迷われているなら、今日は外でお茶だけでも構いません。』
綾乃はその文面を見て、肩の力が抜けた。
この人は、入ってこようとしない。
許された場所にしか、入らない。
だからこそ、入ってきてほしいと思えた。
『迷っていません。
来てください。』
短く送った。
誠司は約束の時間より五分前にマンションの下に着いた。
インターホン越しの彼の声は、いつもより少し固かった。
『佐伯です』
「どうぞ」
エントランスの自動扉が開く音がした。
綾乃は部屋の中をもう一度見回した。
散らかってはいない。
けれど、いつもより生活の気配が気になった。
読みかけの本。
膝掛け。
昨日乾かしたマグカップ。
洗面所のタオル。
窓辺の小さな観葉植物。
玄関のチャイムが鳴った。
ドアを開けると、誠司が立っていた。
傘を畳み、濡れた肩をハンカチで押さえている。
手には小さな箱を持っていた。
「お邪魔いたします」
「どうぞ」
「こちら、近くのお店で買いました。甘いものがお嫌いでなければ」
「ありがとうございます」
箱の中には焼き菓子が入っていた。
高価すぎず、軽すぎず、相手の負担にならないものを選ぼうとした気配があった。
誠司は靴を脱ぐ時、きちんと揃えた。
綾乃はそれを見て、なぜか胸が少し温かくなった。
リビングへ案内すると、誠司は入口近くで立ち止まった。
「綺麗なお部屋ですね」
「普通です」
「落ち着きます」
その言い方がとても自然だったので、綾乃は嬉しかった。
部屋を褒められることはあった。
女性らしい、綺麗、センスがいい。
そういう言葉は、どこか部屋ごと値踏みされているようで苦手だった。
でも誠司の「落ち着きます」は、まるでこの部屋が人を休ませる場所であることを認めてくれたようだった。
「座ってください」
「はい」
誠司はソファの端に、背筋を伸ばして座った。
「そんなに端でなくても」
「あ、すみません」
「謝らなくていいです」
綾乃はキッチンで湯を沸かした。
背後に誠司の気配がある。
誰かが自分の部屋にいる。
自分が湯を沸かす音を聞いている。
カップを選ぶ手元を見ている。
それは不思議な緊張だった。
怖くはなかった。
ただ、静かに心の奥を見られているような気がした。
紅茶を淹れて戻ると、誠司は棚に置かれた写真立てを見ていた。
「あ、すみません。勝手に見てしまって」
「大丈夫です」
写真は、大学時代の友人たちと旅行に行った時のものだった。
綾乃はまだ二十二歳で、今より少し笑い方が無防備だった。
「楽しそうですね」
「学生時代です」
「綾乃さんは、昔から綺麗だったのですね」
綾乃は少しだけ構えた。
しかし誠司はすぐに言った。
「いえ、すみません。綺麗という言葉だけでは足りませんね」
「足りない?」
「今より少し、安心して笑っているように見えます」
綾乃は手元のカップを見た。
その言葉は、彼女が自分でも気づかないようにしていたことだった。
若い頃の写真を見ると、少し胸が痛む。
あの頃の自分は、何も知らなかった。
人の視線がどれほど疲れるかも、美しさが時に孤独を連れてくることも、仕事で完璧でいることがどれほど息を詰めることかも知らなかった。
「今は、安心して笑っていませんか」
綾乃は、少し意地悪な質問をした。
誠司は真剣に考えた。
「笑ってくださる時はあります」
「はい」
「でも、時々、笑顔の奥に別のものがあるように見えます」
綾乃は黙った。
「すみません。勝手なことを言いました」
「いいえ」
綾乃はゆっくり首を横に振った。
「合っています」
雨が窓を打っている。
白いカーテンが部屋の明かりを柔らかくしている。
誠司はカップに手を添えたまま、何も言わなかった。
綾乃はその沈黙が好きだった。
何かを聞き出そうとしない。
慰めようと急がない。
ただ、そこにいてくれる。
「私、疲れていたのかもしれません」
綾乃は自分でも驚くほど自然に言った。
「仕事ですか」
「仕事も。人から見られることも」
誠司は静かに頷いた。
「高嶺の花って、言われるんです」
「はい」
「褒め言葉なのは分かっています。でも、私は花ではありません」
声が少し震えた。
「誰かに見上げられるために生きているわけではありません」
言ってしまってから、綾乃は目を伏せた。
こんなことを人に話したことはなかった。
誠司はすぐに答えなかった。
やがて、ゆっくりと言った。
「私は、綾乃さんを見上げたいとは思っていません」
綾乃は顔を上げた。
「隣にいたいと思っています」
その言葉は、部屋の中に静かに落ちた。
派手な告白ではなかった。
熱い口説き文句でもなかった。
でも、綾乃の胸の奥にあった硬いものが、その一言で少しほどけた。
隣にいたい。
見上げるのでもなく、所有するのでもなく、勝ち取るのでもなく。
ただ、隣に。
綾乃は少しだけ笑った。
「佐伯さんらしいですね」
「そうでしょうか」
「はい」
「嫌ではありませんか」
「嫌ではありません」
誠司の顔に安堵が広がる。
その表情を見て、綾乃は胸が詰まった。
この人は、いつも自分の言葉が綾乃を傷つけないか気にしている。
自分が近づきすぎていないか、押しつけていないか、不安にさせていないかを考えている。
それは時に不器用で、もどかしい。
けれど、その不器用さの中にしかない優しさがあった。
雨は強くなっていた。
外の音が遠ざかり、部屋の中だけが小さな船のように浮かんでいる。
綾乃は誠司の隣に座った。
いつもより近い距離だった。
誠司の肩がわずかに固くなる。
「緊張していますか」
「はい」
「正直ですね」
「嘘をついても、たぶん分かりますよね」
「分かります」
二人は少し笑った。
綾乃はテーブルの上に置かれた誠司の手を見た。
大きくて、少し不器用な手。
彼女はゆっくり、自分の手を重ねた。
誠司が息を止めたのが分かった。
「綾乃さん」
「はい」
「私は、どうしたらいいでしょうか」
その問いに、綾乃は胸が痛くなった。
どうしたらいいか。
彼は主導権を奪おうとしない。
彼女の沈黙を同意と決めつけない。
大人の男なら当然のように進めてしまう場面で、彼は立ち止まる。
綾乃は彼の手を握った。
「そのままでいてください」
「そのまま」
「はい。急がなくていいです」
誠司は深く息を吐いた。
「分かりました」
しばらく二人は、そのまま黙っていた。
手をつないでいるだけだった。
けれど綾乃には、それがとても親密なことに思えた。
体の距離よりも、心の中に入る許可を出したような気がした。
やがて誠司が、静かに言った。
「綾乃さんを、大切にしたいです」
綾乃は目を閉じた。
何度も聞いたはずの言葉だった。
男たちは皆、大切にすると言う。
守ると言う。
幸せにすると言う。
でも誠司の言葉は、未来を派手に飾るものではなかった。
今、この手を強く握りすぎないこと。
今、この沈黙を壊さないこと。
今、彼女が怖がらない速度で隣にいること。
それが、彼の「大切にしたい」だった。
綾乃は小さく頷いた。
「分かります」
「本当ですか」
「はい」
そして、少し間を置いて言った。
「私も、佐伯さんを大切にしたいです」
誠司は何も言わなかった。
ただ、握っていた手にほんの少しだけ力がこもった。
その力の弱さが、綾乃には愛おしかった。
綾乃が初めて誠司に腹を立てたのは、夏の初めだった。
きっかけは些細なことだった。
仕事帰りに会う約束をしていた日、綾乃は急な残業で一時間近く遅れた。
誠司はいつものように、怒らなかった。
『大丈夫です。お仕事を優先してください。』
駅に着くと、彼は改札の近くで待っていた。
「すみません、本当に遅くなって」
「大丈夫です」
「食事、予約していましたよね」
「キャンセルしました」
「え」
「時間が読めなかったので。近くで軽く食べましょう」
その言葉だけなら、優しさだった。
けれど彼の顔色が少し悪いことに、綾乃は気づいた。
「佐伯さん、もしかして具合悪いですか」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃない顔をしています」
「少し頭痛がするだけです」
「いつから?」
「昼頃からです」
綾乃は眉を寄せた。
「それなら、先に言ってください」
「でも、綾乃さんもお忙しい中で来てくださったので」
「そういう問題ではありません」
声が少し強くなった。
誠司は驚いたように彼女を見た。
綾乃自身も驚いていた。
なぜこんなに腹が立つのか、すぐには分からなかった。
彼は優しい。
自分を責めず、予定を変え、体調が悪くても待っていてくれた。
でも、それが嫌だった。
「佐伯さんは、どうして何でも大丈夫にするんですか」
「え」
「大丈夫じゃない時は、大丈夫じゃないと言ってください」
誠司は黙った。
駅の構内は人で混んでいた。
会社帰りの人々が足早に通り過ぎ、アナウンスが頭上で流れている。
綾乃は少し息を整えた。
「私は、佐伯さんに我慢してほしいわけではありません」
「……すみません」
「謝らないでください」
その言葉も少し強くなった。
誠司は困った顔をした。
「では、どう言えばいいのか……」
綾乃は胸が痛くなった。
彼は本当に分からないのだ。
誰かを大切にすることと、自分を消すことの違いが。
誠司は、相手に合わせることに慣れすぎている。
迷惑をかけないこと。
怒らせないこと。
負担にならないこと。
それを優しさだと思っている。
けれど、それでは隣にいられない。
綾乃は静かに言った。
「今日は帰りましょう」
「でも」
「私がそうしたいです」
誠司は少し驚いた。
「佐伯さんの体調が悪いのに食事をしても、私は楽しくありません」
彼は何か言おうとして、やめた。
そして、ゆっくり頷いた。
「分かりました」
そのまま二人は駅のホームへ向かった。
会話は少なかった。
別れ際、誠司はいつものように頭を下げた。
「今日は申し訳ありませんでした」
綾乃は少しだけため息をついた。
「謝るなら、ひとつ約束してください」
「はい」
「次から、無理な時は無理と言ってください」
「……努力します」
「努力ではなく、約束です」
誠司は彼女を見た。
綾乃の声には、自分でも思うほど真剣さがあった。
「約束します」
「はい」
誠司は少し困ったように笑った。
「綾乃さんは、怒ると静かですね」
「そうですか」
「はい。怖いです」
綾乃は思わず笑ってしまった。
「怖がってください」
「はい」
二人は少しだけ笑った。
その夜、綾乃は帰宅してからしばらく落ち着かなかった。
怒りすぎただろうか。
誠司を傷つけただろうか。
彼の優しさを否定してしまっただろうか。
けれど、違うとも思った。
彼に我慢してほしくなかった。
自分のために、体調の悪さまで隠してほしくなかった。
それは、彼を大切に思い始めているからだった。
夏のある月曜日、美咲はいつもの明るさを少しだけ失っていた。
給湯室で紙コップのコーヒーを持ったまま、彼女はなかなか口をつけようとしなかった。
「綾乃さん、私、またやっちゃいました」
「何を?」
「アプリの人です。二回目のデートだったんですけど」
美咲は苦笑した。
その笑い方が、いつもの彼女らしくなかった。
軽く見せようとしているのに、目だけが疲れている。
「顔も悪くないし、仕事もちゃんとしてるし、話も合う気がしたんです。でも、帰り際に急に距離が近くなって。嫌なら嫌って言えばよかったのに、私、そこで笑っちゃって」
綾乃は黙って聞いていた。
「断ったら、次はないかもしれないって思ったんです。私、何やってるんですかね。好きかどうかも分からない人に、嫌われないようにして」
その言葉は、綾乃の胸に刺さった。
美咲は派手で、恋愛に慣れていて、傷ついてもすぐ立ち直る人だと思っていた。
でも違った。
軽く見える人ほど、軽く扱われることに慣れてしまうことがある。
そして、慣れたふりをしているだけで、本当は毎回少しずつ傷ついている。
「その人とは、もう会わない方がいいと思います」
綾乃が言うと、美咲は小さく笑った。
「綾乃さん、今日ははっきり言いますね」
「はい」
「佐伯さんの影響?」
「たぶん」
美咲は紙コップを両手で包んだ。
「いいなあ。ちゃんと大事にされる恋って、あるんですね」
「大事にされるだけでは、だめみたいです」
「え?」
「こちらも、相手を大事にさせてもらえないと、苦しくなるみたいです」
美咲はしばらく考えて、それからぽつりと言った。
「私、誰かに大事にされたいんじゃなくて、自分のことを雑にしない恋がしたいのかもしれません」
その言葉を聞いた時、綾乃は思った。
これは自分だけの話ではない。
女たちはみんな、どこかで値踏みされ、選ばれ、比べられ、軽く扱われないように背筋を伸ばしている。
美しい女も、明るい女も、若い女も、強そうな女も。
誰もが、自分を安く渡さずに済む場所を探している。
その日、綾乃は誠司に短いメッセージを送った。
『今日は少し、考えることがありました。』
誠司からの返信は、いつも通り少し遅れて届いた。
『私でよければ、聞きます。急がなくて大丈夫です。』
綾乃はその一文を見て、静かに息を吐いた。
聞きます。
急がなくて大丈夫です。
それは派手な愛の言葉ではなかった。
でも、この世界で女が安心して話し始めるためには、時々それだけで十分だった。
綾乃の母は、誠司のことを聞いた時、少しだけ沈黙した。
実家に帰った日曜日の午後だった。
母は台所で麦茶を注ぎながら、何気ない調子で聞いた。
「最近、いい人はいないの?」
いつもの質問だった。
綾乃はいつもなら曖昧に笑って流す。
けれどその日は、少し違った。
「いる」
母は振り返った。
「いるの?」
「うん」
「どんな人?」
綾乃は少し考えた。
「四十歳。会社員。すごく真面目で、不器用な人」
母は麦茶のグラスをテーブルに置いた。
「四十歳」
「うん」
「結婚歴は?」
「ないと思う」
「思う?」
「ちゃんと聞いてはいないけど、たぶん」
母は椅子に座った。
窓の外では、夏の午後の光が庭に落ちている。
蝉の声が遠くから聞こえていた。
「綾乃が選んだ人なら、悪い人ではないんでしょうけど」
「うん」
「でも、十一歳上ね」
その言葉に、綾乃は少し身構えた。
母は厳しい人ではない。
けれど、現実を見ない人でもなかった。
「年齢が気になる?」
「気にならないと言えば嘘になるわね」
「そう」
「綾乃はまだ二十九でしょう。相手は四十。結婚を考えるなら、生活の時間の進み方が少し違うかもしれない」
綾乃は黙って聞いていた。
「それから、四十まで一人でいた人には、その人なりの生活の形があると思うの。悪い意味ではなくてね。簡単には変えられない癖や考え方もあるでしょう」
「うん」
「綾乃は、相手に合わせすぎるところがあるから」
綾乃は顔を上げた。
「私が?」
「ええ。仕事では強く見えるけど、本当に大事なところでは我慢するでしょう」
母は静かに言った。
「綺麗にして、きちんとして、相手が望む形を先に読んでしまう。昔からそうだった」
綾乃は何も言えなかった。
母は見ていたのだ。
家族の中では、綾乃はしっかり者だった。
父が忙しく、母が疲れている時、綾乃は何も言われなくても手伝った。
弟が受験で荒れていた時も、母が祖母の介護で余裕をなくしていた時も、綾乃は自分のことを後回しにした。
それは自然なことだと思っていた。
でも母は、それを我慢と呼んだ。
「その人といる時、綾乃は我慢していない?」
綾乃はしばらく考えた。
誠司といる時の自分。
遅れても責められない。
知らないことを笑われない。
疲れたと言える。
怒ることもできる。
手をつなぎたいと言える。
「していないと思う」
母は少しだけ表情を和らげた。
「なら、いいのかもしれないわね」
「反対しないの?」
「まだ会ってもいないのに、反対も賛成もないわ」
母は麦茶を一口飲んだ。
「ただ、綾乃」
「うん」
「大切にしてくれる人と、大切にさせてくれる人は違うのよ」
「どういう意味?」
「大切にしてくれるだけの人は、最初は楽なの。でも、相手が我慢ばかりしていたら、いつか苦しくなる。人は、大切にされるだけではなく、大切にさせてもらわないと、対等にはなれない」
綾乃はその言葉を、胸の中で何度も繰り返した。
大切にさせてくれる人。
誠司は、まだそれが少し苦手かもしれない。
自分が与えることには一生懸命なのに、受け取ることが下手だ。
でも、この前、彼は約束した。
無理な時は無理と言う、と。
それは小さな一歩だった。
母は続けた。
「その人が不器用なら、綾乃も完璧でいようとしなくていいのよ」
綾乃は窓の外を見た。
蝉の声が強くなる。
完璧でいなくていい。
その言葉は、誠司の「隣にいたい」と似ていた。
秋になった。
綾乃と誠司の関係は、ゆっくりと変わっていった。
会う頻度が増えた。
電話の時間が長くなった。
名前を呼ぶことが自然になった。
手をつなぐことも、肩を寄せることも、もう特別な事件ではなくなった。
それでも、二人は急がなかった。
綾乃はその遅さを、最初は誠司の不器用さだと思っていた。
しかし、次第に分かってきた。
誠司は、怖いのだ。
綾乃を大切にしたいあまり、近づくことに臆病になっている。
自分の欲望が、彼女の安心を壊すのではないかと恐れている。
綾乃もまた、怖かった。
誰かを好きになるということは、自分の中の整った場所だけではなく、乱れた場所も見せることだった。
寂しさも、欲しさも、不安も、期待も。
完璧な女ではいられない。
誠司の前では、それでもいいと思える日が増えていた。
ある金曜日の夜、二人は綾乃の部屋で夕食を食べた。
綾乃が作ったのは、簡単なパスタとサラダだった。
誠司は洗い物を手伝った。
手際はあまりよくなかったが、丁寧だった。
「お皿、そこです」
「あ、はい」
「洗剤、つけすぎです」
「すみません」
「謝らなくていいです」
「はい」
二人は笑った。
食器を片づけたあと、綾乃は紅茶を淹れた。
外では雨が降り始めていた。
この人と会う大事な日は、なぜか雨が多い。
綾乃はそう思った。
誠司は窓際に立ち、外を見ていた。
「雨ですね」
「はい」
「初めて会った日も、雨でした」
「覚えています」
「佐伯さんの傘、小さかったですね」
「すみません」
「謝らなくていいです」
綾乃は笑った。
「半分ずつでした」
誠司も少し笑った。
「はい。半分ずつでした」
その言葉を合図のように、部屋の空気が少し変わった。
外の雨音が強くなる。
綾乃はカップをテーブルに置いた。
「佐伯さん」
「はい」
「今日は、帰らなくてもいいです」
声は静かだった。
けれど言った瞬間、胸が大きく鳴った。
誠司は動かなかった。
その背中が、わずかに緊張しているのが分かった。
ゆっくり振り返り、彼は綾乃を見た。
「それは……」
「泊まっていってもいい、という意味です」
綾乃は視線を逸らさなかった。
誠司の顔に、驚きと喜びと、恐れが浮かんだ。
「綾乃さん」
「はい」
「本当に、いいのですか」
その問いは、確認というより祈りのようだった。
綾乃は頷いた。
「はい」
少し間を置いて、続けた。
「でも、私も少し怖いです」
誠司の表情が変わった。
彼は近づいてきたが、すぐ隣までは来なかった。
「怖いなら、今日は何もしなくていいです」
「怖いから嫌、という意味ではありません」
綾乃は自分の指を見た。
「大切なことだから、怖いんです」
誠司は何も言わなかった。
彼の沈黙は、言葉を探している沈黙だった。
やがて、彼は静かに言った。
「私は、綾乃さんを傷つけたくありません」
「知っています」
「自分が何を望んでいるのかも、分かっています」
その言葉は、彼にしては珍しく、隠さない言葉だった。
綾乃の胸が熱くなる。
「それも、分かっています」
誠司は少し苦しそうに笑った。
「分かりますか」
「分かります」
綾乃は立ち上がり、彼の前に立った。
「私も、佐伯さんに近づきたいと思っています」
誠司の目が揺れた。
綾乃は続けた。
「でも、急がないでください」
「はい」
「私も逃げません」
その言葉を言った瞬間、綾乃は自分が何から逃げていたのか分かった。
欲しいと思うこと。
誰かに触れたいと思うこと。
完璧でない自分を見せること。
愛されたいと認めること。
それらから、ずっと逃げていた。
誠司はゆっくり手を伸ばした。
途中で止まる。
「触れてもいいですか」
綾乃は頷いた。
彼の手が、綾乃の肩に触れた。
とても慎重な触れ方だった。
まるで壊れやすいものに触れるような。
けれど、触れたい気持ちを隠しきれないような。
綾乃は目を閉じた。
その手の重みが、静かに体に染みていく。
誠司は近づき、彼女を抱きしめた。
強くはなかった。
けれど、確かだった。
綾乃は彼の胸に額を寄せた。
誠司の心臓の音が聞こえる。
早い。
自分と同じくらい早い。
大人の男も、こんなふうに緊張するのだ。
綾乃はそう思い、少し泣きそうになった。
「綾乃さん」
「はい」
「好きです」
その言葉は、初めて聞くものではなかった。
けれど今夜のそれは、これまでと違って聞こえた。
遠くから差し出される言葉ではなく、すぐ近くで、彼の体温と一緒に届く言葉だった。
綾乃は彼の背中に手を回した。
「私も、好きです」
言ってしまった。
言った瞬間、胸の奥で何かがほどけた。
誠司の腕に、少しだけ力がこもる。
彼はそれ以上、何も急がなかった。
ただ、綾乃を抱きしめていた。
雨音が白いカーテンの向こうで続いている。
二人はその夜、長い時間をかけて話した。
子どもの頃のこと。
仕事のこと。
家族のこと。
怖いこと。
傷ついたこと。
今まで誰にも言えなかったこと。
言葉が尽きると、手をつないだ。
触れることより、話すことの方が近い夜だった。
けれど綾乃は分かっていた。
二人はもう、戻れないところまで来ている。
それは恐ろしいことではなかった。
誠司の不器用な誠実さと、自分の中の臆病さが、ゆっくり同じ場所に着いたのだと思った。
夜更け、誠司はソファで眠ると言った。
「そんなことしなくていいです」
「ですが」
「今日は、隣にいてください」
誠司は言葉を失った。
綾乃は静かに言った。
「ただ、隣に」
誠司は頷いた。
寝室の明かりを落とし、二人は同じベッドに入った。
何も急がなかった。
綾乃は彼の腕の中で、目を閉じた。
誠司の呼吸が耳元にある。
誰かと眠ることが、こんなに静かなことだとは知らなかった。
欲望より先に、安心があった。
熱より先に、信頼があった。
言葉より先に、沈黙があった。
綾乃は小さく言った。
「不器用な人」
誠司が微かに笑った。
「はい」
「でも、好きです」
誠司の腕が、ほんの少し強くなった。
「私もです」
雨は、明け方まで降り続いた。
朝、綾乃は先に目を覚ました。
カーテンの向こうが白く明るい。
雨は止んでいた。
隣で誠司が眠っている。
その事実に、綾乃はしばらく動けなかった。
彼の寝顔は、いつもより幼く見えた。
眉間の力が抜け、口元が少し緩んでいる。
普段あれほど丁寧に言葉を選ぶ人が、眠っている時だけは無防備だった。
綾乃はそっと彼の顔を見つめた。
この人は、自分の部屋で眠っている。
自分の隣で、安心して眠っている。
それが嬉しかった。
大切にされるだけではなく、大切にさせてくれる人。
母の言葉を思い出した。
誠司はまだ受け取るのが上手ではない。
けれど昨夜、彼は綾乃の言葉を信じて隣にいた。
帰らず、逃げず、急がず、ただ隣で眠った。
それは、綾乃に大切にさせてくれたということだった。
彼女はそっとベッドを抜け出し、キッチンへ向かった。
湯を沸かし、紅茶を淹れる。
カップを二つ並べる。
その光景が、少し照れくさかった。
しばらくして、寝室から物音がした。
誠司が起きてきた。
髪が少し乱れている。
「おはようございます」
彼はそう言ってから、すぐに言い直した。
「おはよう」
綾乃は笑った。
「おはようございます」
「すみません、寝すぎました」
「謝らなくていいです」
「はい」
誠司は部屋の中で少し所在なさそうに立っていた。
綾乃はカップを差し出した。
「紅茶、飲みますか」
「いただきます」
二人はテーブルを挟んで座った。
朝の光の中で向かい合うと、昨夜のことが少し夢のように感じられた。
何も派手なことは起きていない。
それでも、二人の間にあるものは明らかに変わっていた。
沈黙が、もう遠慮ではなかった。
誠司はカップを見つめながら言った。
「昨夜、私は幸せでした」
綾乃は少し顔を赤くした。
「はい」
「そして、怖くもありました」
綾乃は顔を上げた。
「怖かったですか」
「はい。大切なものを手にした時、人は怖くなるのだと思いました」
その言葉に、綾乃はゆっくり頷いた。
「私も、怖いです」
「はい」
「でも、嫌な怖さではありません」
「私もです」
誠司は少し迷ったあと、言った。
「綾乃さん」
「はい」
「私は、これからも不器用だと思います」
「知っています」
「失敗もすると思います」
「たぶん、しますね」
「はい」
二人は笑った。
誠司は真面目な顔に戻った。
「でも、逃げません」
綾乃の胸が静かに鳴った。
「私もです」
その日、二人は遅い朝食を食べた。
冷蔵庫にあった卵とパンとサラダ。
特別なものは何もなかった。
誠司はトーストを少し焦がし、綾乃は笑った。
彼はまた謝り、彼女はまた謝らなくていいと言った。
同じ会話。
同じやり取り。
でも、その繰り返しの中に、生活の気配があった。
午後、誠司が帰る時、玄関で少し沈黙が流れた。
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ」
「また、来てもいいですか」
綾乃は頷いた。
「もちろん」
誠司は靴を履き、ドアの前で振り返った。
「綾乃さん」
「はい」
「好きです」
綾乃は微笑んだ。
「私も、好きです」
それはもう、初めて言う言葉ではなかった。
けれど何度言っても、少し新しかった。
ドアが閉まったあと、綾乃は部屋に戻った。
テーブルの上には、二つのカップが残っている。
片方は自分のもの。
もう片方は、誠司のもの。
それだけで、部屋の景色が少し違って見えた。
その日の夕方、綾乃のスマホに会社からのメールが入った。
件名は短かった。
秘書室体制変更に関する個別面談のご案内。
本文を読んだ瞬間、綾乃はカップを洗う手を止めた。
役員秘書の統括補佐。
今より責任が増え、社長だけではなく複数の役員のスケジュールと対外調整を見る立場になる。
抜擢と言えば、確かに抜擢だった。
けれどその役目は、綾乃がさらに「崩れない人」になることを求めていた。
普通なら、喜ぶべき話だ。
母にも、同僚にも、きっとそう言われる。
でも綾乃は、すぐに誠司へ連絡できなかった。
彼が帰ったばかりの部屋で、二つのカップを眺めながら、彼女は思った。
言えば、喜んでくれるだろう。
同時に、少し寂しそうな顔をするかもしれない。
忙しくなりますね、と言って、また自分の不安を飲み込むかもしれない。
綾乃はスマホを伏せた。
言わないことが優しさになる時もある。
その時の彼女は、そう思ってしまった。
それが、誠司と同じ間違いだとはまだ気づいていなかった。
幸せな朝のあとで、二人の関係は少しだけ現実の重さを持ち始めた。
会えば嬉しい。
電話を切れば寂しい。
それだけなら、恋はまだ夢の中にいられる。
けれど、大人の恋には仕事があり、これまで一人で積み上げてきた生活がある。
ある金曜日の夜。
二人は綾乃の部屋で夕食を食べた。
いつもなら、食後に紅茶を淹れ、古い映画を少し観る。
けれどその日は、誠司のスマホが何度も震えた。
彼は最初、画面を伏せた。
二度目も伏せた。
三度目に、綾乃は静かに言った。
「出てください」
「すみません。すぐ終わります」
誠司は玄関の方へ移動し、小さな声で話し始めた。
聞くつもりはなかった。
でも、部屋は静かだった。
「はい。名古屋の件は……まだ、正式にお返事はしていません」
綾乃は、紅茶の缶を開ける手を止めた。
「一年ですか。……はい。再建案件ということは承知しています」
一年。
名古屋。
再建。
言葉の断片が、白い部屋に硬く落ちた。
誠司が電話を切って戻ってきた時、綾乃はテーブルの前に立ったままだった。
「名古屋って、何ですか」
誠司の顔から血の気が引いた。
彼はしばらく黙っていた。
その沈黙が、答えだった。
「名古屋の事業所で、総務体制を立て直すプロジェクトがあります。半年から一年、現地に入る可能性があります」
「いつから知っていたんですか」
「二週間前です」
二週間。
その間、自分は何も知らずに、次に会う日の食事を考え、彼にいつ自分の昇進話をしようかと迷っていた。
その自分が、急に部屋の外に立たされていた人のように思えた。
「どうして言わなかったんですか」
誠司は、苦しそうに目を伏せた。
「綾乃さんの面談の話を、耳にしました」
綾乃は息を呑んだ。
「役員秘書の統括補佐。素晴らしい抜擢だと、人づてに聞きました。綾乃さんはこれから、今以上に忙しく、大切な時期を迎えるはずです」
「だから、何ですか」
「私の都合で、綾乃さんの人生の邪魔をしたくありません」
また、それだ。
綾乃の胸の奥で、何かが冷たく固まっていく。
「邪魔って何ですか。私は、結果だけを聞きたいわけじゃありません。隣にいたいと言ってくれたのは、佐伯さんですよね」
「はい。ですが……」
誠司は、自分に言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を絞り出した。
「私は不器用です。名古屋に行けば、きっと余裕をなくします。綾乃さんを寂しくさせ、負担をかける。……過去に、それで大切な人を傷つけました」
「私と沙織さんは違います」
「同じにしてはいけないからこそ、です」
誠司は深く、深々と頭を下げた。
「綾乃さんには、笑っていてほしい。だから、名古屋には私一人で行きます。待っていてほしいとも、言えません」
それは、誠司なりの最大の愛情だった。
自分が悪者になってでも、彼女の輝かしいキャリアを守ろうとする、あまりにも不器用で、身勝手な優しさ。
綾乃は、泣きそうになった。
行かないで、と言いたかった。
迷惑をかけてもいいから、ひとりにしないで、と叫びたかった。
けれど、彼女の中で長年培われた「完璧な女」の防衛本能が、それを許さなかった。
相手の負担になってはいけない。
すがるような真似をしてはいけない。
綺麗に、正しく、相手の決断を尊重しなければ。
気がつけば、綾乃は笑っていた。
エレベーターの鏡の中で作っていた、あの、誰にも踏み込ませない完璧な「高嶺の花」の笑顔で。
「分かりました」
綾乃の声は、自分でも驚くほど冷たく、透き通っていた。
「佐伯さんがそう決めたなら、それが一番いいと思います。お仕事、頑張ってください」
誠司が顔を上げた。
その目には、絶望と後悔が入り混じっていた。
綾乃が最も遠い場所に引きこもってしまったことに、彼も気づいていた。
けれど、もう引き返せなかった。
「……今まで、本当にありがとうございました」
玄関のドアが閉まる音がした。
部屋には、淹れかけの紅茶と、綾乃だけが残された。
窓の外で、雨が降り始めた。
あの日、二人で入った時と同じ、細くて冷たい雨だった。
綾乃はテーブルに手をつき、音を立てずに泣いた。
大丈夫。
これでいい。
私は一人でも生きていける。
そう自分に嘘をつきながら。
完璧な女でいることは、息を止めて水中にいるのと同じだ。
いつかは限界が来る。
誠司が名古屋への赴任準備のために、一週間の事前出張へ旅立つ日の夕方。
綾乃は社長室のデスクで、統括補佐としての新しい資料に目を通していた。
文字は追えている。
相槌も打てる。
唇の角度も完璧だ。
けれど、ちっとも息ができなかった。
「綾乃さん」
不意に、美咲がコーヒーを置いて言った。
「今日、定時で上がってください」
綾乃は顔を上げた。
「まだ仕事が」
「私がやります。というか、やらせてください」
美咲は、綾乃の顔をまっすぐに見据えていた。
「今の綾乃さん、全然綺麗じゃないです。ガラスみたいにバキバキにひび割れて、無理して笑ってて、見ていて苦しいです」
綾乃は息を呑んだ。
「……大事にさせてくれない恋なんて、やめるって言ったじゃないですか」
美咲の言葉が、胸の奥の冷たい塊を激しく叩いた。
『私は、あなたに迷惑をかけるのが怖いです』
誠司の声が蘇る。
違う。
迷惑をかけられたかった。
面倒だと思いたかった。
完璧じゃない自分を、彼にだけは見せたかった。
綾乃は立ち上がった。
「ごめんなさい。……お願いします」
仕事を残して帰る。
入社して以来、初めてのことだった。
オフィスビルを飛び出すと、冷たい雨が降っていた。
タクシーはつかまらない。
地下鉄の駅まで走るしかなかった。
傘を買う時間も惜しかった。
低めのヒールが水たまりを跳ねる。
後ろでまとめた髪が解け、濡れたブラウスが肌に張り付いた。
すれ違う人々が、奇異な目で彼女を見る。
いつもなら、人の視線に耐えられなかった。
きちんとしていない自分が許せなかった。
けれど今は、どうでもよかった。
ただ、彼に会いたかった。
新幹線の改札まで続く、駅前の時計台。
あの日、三十分遅れた綾乃を、怒りもせずに待っていた場所。
祈るような気持ちで角を曲がった綾乃の目に、一つの人影が映った。
スマホも見ず、壁にもたれもせず、両手でキャリーバッグの持ち手を握って立っている男。
「……佐伯さん!」
声を聞いて、誠司が振り返った。
綾乃の姿を見た瞬間、彼は目を見開いた。
「綾乃さん……? どうして、それに、すごく濡れて……」
誠司は慌てて鞄から、あの小さな紺色の折り畳み傘を取り出し、綾乃に差し掛けようとした。
けれど綾乃は、その傘を持つ彼の手を、両手で強く握りしめた。
傘が落ち、二人とも雨に濡れた。
「佐伯さん」
息が切れていた。
声が震えていた。
「私、全然大丈夫じゃありません」
誠司が息を止める。
綾乃は、彼の手を握ったまま、大粒の涙をこぼした。
雨か涙か、もう自分でも分からなかった。
「一人で勝手に決めないでください。私の人生から、私を外さないでください。忙しくなっても、遠くに行っても、私は佐伯さんと一緒に迷いたいです」
「ですが、私は不器用で……綾乃さんの負担に」
「負担になりたいんです!」
駅の喧騒の中で、綾乃の声が響いた。
「迷惑をかけてください。我慢しないでください。私を、ひとりにしないでください……っ」
完璧な秘書の面影はどこにもなかった。
ただの、恋をして、傷ついて、大声で泣いているみっともない女がそこにいた。
誠司は、そんな綾乃を言葉を失ったように見つめていた。
そして、彼の目からも、とめどなく涙が溢れ出した。
「……すみません」
誠司の声が震えていた。
「綾乃さんが綺麗すぎて、私は、恐ろしかったんです」
彼は、握られていた綾乃の手を、今度は自分から強く握り返した。
その手は、痛いほど熱かった。
「……行きたくない。本当は、離れたくありません」
その言葉を聞いた瞬間、綾乃の胸の中で、長く張り詰めていた糸がふつりと切れた。
綾乃は彼に飛び込むように、額をその胸に押し当てた。
誠司の腕が、雨に濡れた綾乃の背中を強く、壊れそうなほど強く抱きしめた。
「佐伯さん、濡れています」
綾乃が泣き笑いのように言うと、誠司も泣きながら答えた。
「平気じゃ、ありません」
足元に落ちた小さな傘に、雨が当たり続けている。
もう、どちらかが身を引いて嘘をつく必要はなかった。
二人は、雨の中でいつまでも抱きしめ合っていた。
あの激しい雨の夜から、数日が経っていた。
結局、誠司の名古屋行きが白紙になるような奇跡は起きなかった。
彼は予定通り、半年間の出張へ赴くことになった。
綾乃もまた、統括補佐としての重い責務を引き受けた。
現実は、ドラマのようにはいかない。
すべてが綺麗に片付くわけではないし、離れ離れになる寂しさが消えたわけでもない。
けれど、二人はもう「大丈夫なふり」をして相手を遠ざけることはしなかった。
日曜日。
誠司が名古屋へ発つ前、最後の日。
待ち合わせた公園の入口で、誠司はやはり十五分前から待っていた。
空はよく晴れていた。
風は冷たかったが、陽射しは柔らかく、紅葉した木々が道の先で揺れている。
綾乃が近づくと、誠司はすぐに気づいた。
そして、あの日と同じように、心底ほっとした顔で笑った。
「おはようございます」
「おはようございます」
「寒くありませんか」
「大丈夫です」
綾乃はそう言ってから、少し悪戯っぽく笑った。
「大丈夫じゃなかったら、言いますから」
誠司も、照れたように笑った。
「はい。私も言います」
二人は並んで歩き始めた。
公園の道には落ち葉が積もっていた。
子どもが走り、犬を連れた人が通り過ぎ、ベンチでは老夫婦が温かい飲み物を飲んでいる。
特別な場所ではなかった。
けれど綾乃には、そこがとても大切な場所になる予感がした。
しばらく歩いたあと、誠司が立ち止まった。
「綾乃さん」
「はい」
彼の声は少し緊張していた。
綾乃はそれだけで、何かを感じた。
誠司はコートのポケットから、小さな封筒を取り出した。
「手紙です」
「手紙?」
「はい。言葉でうまく言える自信がなかったので」
綾乃は封筒を受け取った。
白い封筒に、丁寧な字で「綾乃さんへ」と書かれている。
「今、読んでもいいですか」
「はい。ですが、恥ずかしいので、少し離れていてもいいでしょうか」
「だめです」
綾乃が即答すると、誠司は困ったように笑った。
「では、ここにいます」
綾乃は封筒を開けた。
便箋には、誠司らしい丁寧な文字が並んでいた。
綾乃さんへ。
初めてメッセージを送った日のことを、今でも覚えています。
私は何度も文章を書き直しました。失礼ではないか、重すぎないか、そもそも送ってよいのか。送信したあとも、後悔していました。
けれど、綾乃さんが返信をくださいました。
それから私の毎日は、少しずつ変わりました。
私は器用な男ではありません。
女性を楽しませる会話も、気の利いた店選びも、自然な距離の詰め方も、今でも得意ではありません。きっとこれからも、失敗します。謝りすぎて、綾乃さんに叱られると思います。
それでも、私はもう逃げません。
綾乃さんの隣にいたいです。綾乃さんが完璧でいなくていい場所でありたいです。
先日の雨の日、泣いている綾乃さんを見て、私は自分の愚かさを知りました。
私は、綾乃さんを愛しています。
この言葉を軽くしたくなかったので、言うまでに時間がかかりました。でも今は、はっきり言えます。
綾乃さんを愛しています。
名古屋と東京。
これからは少し離れます。
寂しい思いもさせるかもしれません。うまく守れるとは約束できません。
でも、ひとりで正しいふりをしないことだけは約束します。
迷う時は、迷っていると伝えます。怖い時は、怖いと言います。
綾乃さんが怖い時には、答えを急がず、何度でも会いに行きます。
もしよろしければ、これからも私と、半分ずつ歩いてください。
佐伯誠司
読み終えた時、綾乃はしばらく顔を上げられなかった。
風が吹き、落ち葉が足元を滑っていく。
誠司は何も言わずに待っていた。
あの日の時計台の下のように。
雨の夜の駅のように。
彼は、待つことができる人だった。
綾乃は便箋を丁寧に戻し、顔を上げた。
「佐伯さん」
「はい」
「また、面接みたいです」
誠司は一瞬固まり、それから困ったように笑った。
「やはり、そうですか」
「はい」
綾乃は一歩近づいた。
「でも、好きです」
誠司の表情が変わった。
綾乃は続けた。
「愛しています」
その言葉は、思っていたよりずっと自然に出た。
大きすぎると思っていた言葉が、今は二人の間にちょうどよく収まった。
誠司の目が少し赤くなった。
「ありがとうございます」
「お礼を言うところですか」
「すみません」
「謝らないでください」
二人は笑った。
同じ会話。
何度も繰り返した会話。
けれどそのたびに、二人は少しずつ近づいていた。
綾乃は誠司の手を取った。
大きくて、少し硬くて、温かい手。
「半分ずつ、ですね」
誠司は頷いた。
「はい。半分ずつで」
二人は公園の奥へ歩き出した。
紅葉の道は長く続いている。
どこかで子どもが笑い、遠くで犬が吠えた。
木々の間から、冬に向かう空が見える。
綾乃は思った。
この先にも、きっと雨の日がある。
迷う道もある。
沈黙も、喧嘩も、離れ離れの不安もある。
でも、もう怖くない。
迷ったら、二人で迷えばいい。
濡れたら、傘を半分ずつ持てばいい。
疲れたら、大丈夫ではないと言えばいい。
恋愛を信用していなかった綾乃は、今、ひとりの不器用な人の手を握って歩いている。
それは完璧な愛ではなかった。
けれど、完璧ではないからこそ、信じられる愛だった。
誠司が少しだけ歩幅を緩める。
綾乃に合わせようとしているのだ。
綾乃は手に力を込めた。
「佐伯さん」
「はい」
「歩幅、合わせすぎです」
「あ、すみません」
「謝らないでください」
彼は笑った。
綾乃も笑った。
その笑い声が、冬の公園に静かにほどけていく。
不器用な人。
そして、半分ずつの傘を忘れない人。
綾乃は心の中で、もう一度そう呼んだ。
そして思った。
この人となら、きっと大丈夫だ。
二人は手をつないだまま、光の方へ歩いていった。
了
