父が教えてくれたこと
1982年2月19日
父が他界。45歳だった。
今日で丸44年が経ったということになる。
来月で54歳になる私がまだ9歳の頃だった。
44年前の、父の最期の瞬間は今でも鮮明に思い出せる。
父の想い出
父は私が小学1年の頃には既に単身赴任で長野に行っていたと思われる。
当時は「単身赴任」なんて知識もなく「しゅっちょー」という言葉をかろうじて知っていたくらい。意味は分からない。
1年生か2年生の夏休みに長野に行って父のアパートに泊まったことは覚えている。
檜の風呂だった。子供の時は木のニオイが嫌で。
風呂から上がって「霊感ヤマカン第六感」というフランキー堺が司会の番組を見た。
毎週欠かさず見ていた番組。父も好きだったようだ。
記憶が前後して、いつの事だかハッキリしないが、父が家にいた時の事。
私が5歳くらいの頃か?
よく近所の本屋に連れていかれた。家には西村京太郎とかの小説がいっぱい。父が読んでいたものだ。
町内では「怖いおっちゃん」で有名な「立ち読み禁止!」と怒る本屋のオヤジも父には親切だった。
父は、私にはとにかく優しかった。
姉と兄には勉強に厳しかったようだが、私には「漫画本はドラえもんだけ許す」くらいなモノだった。
国家公務員の父だが、地元のソロバン屋で先生もやっていた。
家が貧乏だったため、子供の頃に丁稚奉公に行き、小学校卒業と共に働く予定だったらしいが、優秀だからと担任が家に来て親を説得したそうだ。
自分がお金を出すから進学させてやってくれとまで。
というのは母から聞いた話なので、事実と異なる部分はあるとは思うが、町では有名な秀才だったらしい。
一緒にお風呂に入ることがよくあった。いつもタオルを湯船に入れて、空気でぷくっと膨らませてそれを私が潰して「おなら〜笑」ってキャッキャ笑う。
父はそれが嬉しかったんだろうな。毎回同じことをしてくれてた。
そして九九。いつどこで教えられたのかはよく覚えていないけど、人より早めに九九を教えられた。小学生になる前だったと思う。
教え
年末年始は家にいたのだろう。
おとそを家族7人で呑んだ。
まだ幼い私は不味くて不味くて、その様子をみんなが喜んで見ている。
まだ元気だった頃。12月31日夜8時頃だったと思う。5歳くらいの私に
「あと何日で元旦になる?」と聞かれた。
「ご(5)日くらい?」と言うと大笑いして
「残念!あと1日もないよ」と言った。意味がわからなくて「なんでなんで?」と聞いた記憶はある。
続けて
「この新聞紙を4つ折り、八つ折り、、、とおっていくと富士山の高さまで行くと思う?」
と聞いてきた。
新聞紙を折ってみた。行くわけない。
「行くんだよ。ずっとずっと折り続ければ」
これがずっーーーーと理解できなかったけれど、ずっーーーーっと忘れられない。
小学5年生くらいの時に、ようやく「そういうことか!」と分かった。
よく、お昼ご飯にケチャップチャーハンを作ってくれた。わざわざお花の型のカップで形を作ってパカッと皿に乗せて。
父は、ほうれん草が好きだった。
ネギが好きだった。
辛いものが嫌いだった。
「ネギは頭が良くなるから食べなさい」
「辛いものは馬鹿になるから食べるな」
と言われたこと。
小学3年の時に「そろばんだけは習え」と言われたこと。
じいちゃんが脳卒中で入院したため、急遽戻ってきた時には既に父は末期のガンだったこと。
私の学校の書類を書く手がすごく震えていたこと。
帰ってきたと思ったら直ぐに入院して、最後の最後の帰宅の日に、あれほど嫌いだった猫を触ろうとしたこと。
飼い猫じゃなく、野良猫が私に懐いていただけで、父が嫌だろうと思って反射的に触ろうとした父から猫を遠ざけてしまったことを、ずっとずっと後悔していた。
危篤だと学校に連絡が入り、担任からそっと「すぐ家に帰りなさい」と言われ、ばあちゃんと兄ちゃんと一緒にタクシーで病院に向かった。
お見舞いに行ったのは1回だけで、その時は何を話せばいいのか分からなかった記憶しかない。
そして危篤。
もう意識はない。
何が起こっているのか、9歳の私にはよく分からなかった。
医者が電気ショックを父の胸に当てるのを見て「なんでそんなことすんの?死んじゃうじゃん!」と思った。
いつも泣かないばあちゃんが泣いている。
父が亡くなることの実感などなく、ばあちゃんが言った一言
「親より先に逝くのがいちばんの親不孝だ」
という言葉が刺さった。そこで涙が流れた。
死にたくないのに死んでいく人がいる。
だから絶対に、自ら命を絶ってはならない。
何があっても。
それを父はこの目に、心に焼き付けてくれた。
8歳で「死にたい」と思った私に、我が身を持って教えてくてたのだと思った。
いじめらていた自分はもう捨てる。変わってやる。
生きながら生まれ変わることになる一歩が始まった瞬間だったかもしれない。
そして「本物のスピリチュアル」を体感しながら生きていく事になる。
父への供養
きっと父は、その時代が合わなかったのだと思う。
年功序列、男尊女卑が当たり前。
いわゆる「団塊の世代」
太鼓持ちすれば出世できる時代。
絶対に上司にゴマをすらない、真っ直ぐな人。後輩からはとても慕われ、病床で部下の結婚式のスピーチをカセットテープに録音して流したそうだ。そのテープを聞いたことがある。
この世での現実的な思い出は数える程しかないが、その一つ一つが鮮明に残っている。
わざと謎となる質問を投げかけていたのは
「自分で考えること」
それを教えてくれたのだと今となれば分かる。
心配をかけないように、堂々と、今もこれからも自分に正直に、人への思いやりを忘れずに、感謝して生きていくこと。
それが私ができる最大の供養。
実家の仏壇にもお墓にも行かないけれど、毎日自分のプチ仏壇でお線香を上げて語りかけている。
忘れずとも依存せず。
どんな有名な人よりも尊敬する父。
地元の草野球チームのピッチャーだった。今は天国で野球やってるかな?それともまだまだやり残した勉強をしてるかな?
もしくは近所で喧嘩してた暴走族にお説教してるかな(笑)
書きながら
号泣してしまいました。
父の死で
「生きとし生けるものは必ず死がある」
だから精一杯生きよう、と44年前に決意したのでした。
