🌺ウメさんと喜三郎の縁側シリーズ『石鹸箱の底に、残された知恵』
五月も終わりに近づき、大阪の空気は初夏の湿り気を帯びてきた。縁側には新茶と、小皿に盛られた梅干し。
洗面所から、ウメの声が聞こえた。
「喜三郎さん、ちょっと来てくれんね」
喜三郎が立ち上がると、ウメは古い石鹸箱を手に持っていた。
「これ、見てみい」
石鹸箱の底には、白く濁った水が溜まっている。ぬるぬるとした、石鹸が溶けた水だった。
「……汚れとるな。捨てるか?」
「捨てる? もったいなか!」
ウメは、石鹸箱を大切そうに持ち直した。
「この水な、まだ使えるとよ」
「使える?」
「ああ。台所の油汚れ落とすんに、ちょうどええとよ」
ウメは、その水を小さな容器に移し始めた。
喜三郎は、その様子を黙って見ていた。
「昔はな、こげな小さなもんでも、捨てんかったとよ」
ウメが、作業をしながら言った。
「石鹸の最後の欠片も、この溶けた水も、全部使い切りよったとよ」
「……今は、すぐ捨てるばい」
「そうやね。石鹸が小さくなったら、『使いにくか』言うて捨てるとよ。けど、小さくなってからが本番たい」
ウメは、石鹸箱をきれいに拭いた。
「あたしの母ちゃんはな、小さくなった石鹸ば集めて、また固めて使いよったとよ」
「固める?」
「ああ。小さな欠片ば集めて、水で練って、また石鹸にするとよ。手間がかかるけど、最後まで使い切るとよ」
喜三郎は、石鹸箱の底を見た。
確かに、まだ石鹸の成分が残っている。それを捨てるのは、もったいない。
「けどな、ウメさん。今は石鹸なんて、安う買えるやろ?」
「買えるばい。百円も出せば、ええのが買える」
ウメは、容器に移した水を見つめた。
「けどな、喜三郎さん。これは値段の問題やなかとよ」
「……ほう?」
「物ば最後まで使い切るっちゅうんは、その物への敬意たい」
ウメの言葉に、喜三郎は少し驚いた表情を見せた。
「石鹸はな、誰かが作ってくれたもんやろ? その人の手間があって、ここにあるとよ」
ウメは、石鹸箱を優しく撫でた。
「それば、『使いにくくなった』っちゅう理由で捨てるんは、作った人に申し訳なかとよ」
「……そういう考え方か」
「そうたい。昔の人はな、物にも命があるって思うとったとよ。やけん、最後まで大事に使うたとよ」
喜三郎は、縁側に戻って座った。
ウメも、作業を終えて隣に座った。
「今の世の中はな、『使い捨て』が当たり前やね」
ウメが、遠くを見つめながら言った。
「ペットボトルも、ビニール袋も、割り箸も。一回使うたら、ポイやろ?」
「……便利になったばい」
「便利やね。けど、その便利さの裏で、何かが失われとるとよ」
「何が失われとるとね?」
「物への敬意たい」
ウメは、番茶を啜った。
「物ば大事にするっちゅうんは、ケチっとるとやなかとよ。その物が生まれるまでの過程、作った人の手間、それを思う心たい」
喜三郎は、深く頷いた。
「石鹸箱の底に溜まった水も、誰かが作った石鹸の最後の一滴やけんね」
「そうたい。その一滴まで使い切ることが、作った人への感謝やと思うとよ」
ウメは、梅干しをひとつ口に入れた。
「これからの子らは、そげなこと知らんやろうね」
「……知らんやろうな」
「けど、いつか気づいてほしかとよ。物ば大事にするっちゅうんは、人ば大事にすることと同じやって」
五月の風が、縁側を通り抜ける。
石鹸箱は、きれいに拭かれて、また洗面所に戻された。
小さな無駄も見逃さない知恵。それは、物への敬意であり、作り手への感謝だった。
最後まで読んでくれてありがとうね。 もし心が軽くなったなら、『スキ』や『フォロー』をしてくれると嬉しいばい。 いつでもここ(縁側)で待っとるけんね。
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