🌺ウメさんと喜三郎の縁側シリーズ『炭火のアイロンと、手の記憶』
五月の午後、縁側には古道具が並べられていた。掃除をしていて、押し入れの奥から出てきたものたち。
その中に、ひときわ重たいアイロンがあった。
「ほれ、こげなもんが出てきたばい」
ウメが、アイロンを持ち上げようとして、その重さに驚いた。
「重たか!」
喜三郎が、立ち上がってアイロンを持った。ずっしりとした重み。鋳鉄製の、黒いアイロン。
「……これ、ワシが使うとったやつばい」
「喜三郎さんが?」
「ああ。若い頃、仕立ての仕事しとった時に使うとったとよ」
喜三郎は、アイロンを手のひらで撫でた。
「このアイロンな、炭火で温めて使うとよ」
「炭火で?」
「ああ。中に炭ば入れる穴があってな。そこに熱い炭ば入れて、蓋ば閉めて使うとよ」
ウメは、アイロンをじっと見た。
確かに、上部に小さな蓋がある。
「大変やったやろうね」
「大変やったばい。電気のアイロンみたいに、温度が一定やなかけんな。炭の熱さで、どんどん変わるとよ」
喜三郎は、アイロンの底を見た。
滑らかに磨かれた鉄の面。長年使い込まれた証。
「けどな、ウメさん。この不便さがあったけん、職人の腕が磨かれたとよ」
「腕?」
「ああ。電気のアイロンはな、温度ば設定したら、あとは機械が勝手に調整してくれるとよ。けど、炭火のアイロンは違う」
喜三郎は、アイロンを持ち上げて、重さを確かめるように動かした。
「熱すぎたら、布が焦げる。冷めすぎたら、皺が伸びん。やけん、常に手で感じながら、調整せんといかんかったとよ」
「……繊細な感覚が必要やったとね」
「そうたい。手のひらに伝わる重さ、アイロンから立ち上る熱気、布の反応。全部、体で感じて、判断しよったとよ」
ウメは、喜三郎の手を見た。
大きくて、ごつごつした手。けれど、その指先には、確かな繊細さがあった。
「今の職人さんは、どうなんやろうね」
ウメが、静かに聞いた。
「……わからんばい。けど、電気の道具ばっかり使うとったら、手の感覚は育たんやろうな」
喜三郎は、アイロンを縁側に置いた。
「職人っちゅうんはな、道具ば使いこなすんやなくて、道具と対話するとよ」
「対話?」
「ああ。このアイロンがどれくらい熱いか、今どれくらい冷めてきたか、あと何回アイロンかけられるか。全部、手で感じて、アイロンと会話しよったとよ」
ウメは、深く頷いた。
「便利な道具は、その対話ば奪うとやね」
「そうたい。電気のアイロンは、温度ば教えてくれるけん、自分で感じる必要がなかとよ。けど、それで本当の技術が身につくやろうか」
喜三郎は、アイロンの取っ手を握った。
「この重たさな、ただの重さやなかとよ。この重さがあるけん、適度な圧力がかかって、布の皺がきれいに伸びるとよ」
「……軽いアイロンやったら、だめなんやね」
「だめばい。軽かったら、力ば入れんといかん。けど、力ば入れすぎたら、布が傷む。この重さが、ちょうどよかったとよ」
ウメは、アイロンに手を置いた。
冷たい鉄の感触。けれど、その冷たさの中に、かつての熱さの記憶が残っているような気がした。
「何年、使うとったと?」
「……二十年くらいやろうか。毎日、何時間も使うとったばい」
「そげな長く」
「ああ。このアイロンでな、何百枚、何千枚の布にアイロンかけたか、わからんとよ」
喜三郎の目が、遠くを見つめた。
「着物も、シャツも、ズボンも。いろんなもんにアイロンかけたばい。炭ば入れ替えながら、黙々と」
「……その時間で、喜三郎さんの手が育ったとやね」
喜三郎は、自分の手を見た。
「……かもしれんな」
「今の子らは、こげな経験、できんとよね」
ウメが、少し寂しそうに言った。
「全部、機械がやってくれるけん。便利やけど、手の記憶は残らん」
「そうたい。手の記憶っちゅうんは、不便な道具ば使うことでしか、育たんとよ」
喜三郎は、アイロンをもう一度持ち上げた。
「……久しぶりに、使うてみようかな」
「炭、あると?」
「ないばい。けど、形だけでも」
喜三郎は、アイロンを布の上に置いた。そして、ゆっくりと動かす。
その動きは、かつての記憶が手に残っているかのように、滑らかだった。
五月の陽射しが、アイロンを照らす。黒い鉄が、鈍く光った。
炭火で温められた重たいアイロン。それは、電気のない時代の職人が、繊細な感覚を研ぎ澄ませて使いこなした、手の記憶の結晶だった。
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