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海がこぼれる【シロクマ文芸部】

 波の音が夜の静けさの中では聞こえるほど、姉の家は、海の近くだった。家を出るとすぐ、サーフボードを持った若者たちに出くわし、5分も歩けばコンビ二の前で腹ごしらえをしている姿を見かけた。
 姉にはもうすぐ二番目の子供が生まれる予定で、今日が健診日、ちょうど夏休みでごろごろしていたわたしに、長男剛を頼む、と電話がかかってきた。剛は6歳、幼稚園の年長「そらぐみ」で、最近の彼の自慢は、「もう、そらさんになったんだよ、それでお兄ちゃんになるんだ」ということだった。
 その日は朝から雨だったが、運よく午後から上がり、人出の少ない海岸を散歩することができた。午前中に掃除がすんでいたらしく、波うち際には小石と貝殻がところどころに残っている程度で、流木もカップラーメンの容器も野菜くずもなかった。浜鳥や鳩が、あさるものがないからか、テトラポットの上で羽づくろいをしている。
 手をつないで歩きながら、剛はご機嫌でなにか歌っている。
「ら~らら~らぁらら~ら、らぁらら~~~」
聞いたことがあるメロディだ。
「ぶどうのたに~~~~~」最後のサビで、やっと思い当った。
合唱部だった姉のお気に入りの歌、「流浪の民」だ。
「それなんの歌?」わざと聞いてみる。
「ああ、おかあまがいつも歌ってるぶどうの歌」
剛は、母親のことを、「おかあま」と呼ぶ。姉は「おかあさま」と呼ばせたかったのだが、うまくいかなかったらしい。わたしのことは、姉が呼んでいるのと同じ、ちーちゃん、だ。
 剛は潮の引いた浜で穴を掘っていたが、急に背を伸ばして言った。
「人魚姫ってかわいそうだね、王子様と結婚できなかったもん、そいでね、
人魚姫が海の底に沈んだとき、虹色のあぶくが、ぷわーん、ぷわーんって空に上がって行ったんだよ」
アンデルセンの人魚姫にそんな場面あったかな、と次の言葉を待っていた。砂のついたちいさなシャベルを振り回しながら、ぷわーん、ぷわーん、とパフォーマンスをしている。最近見に行ったという、人形劇の舞台を思い出して演じているのだろう。砂が目に入るなんて気にもしていない。
「人魚姫のなかでどこが楽しかった?」
「わかんない」
もう少しまともな答えを期待していたのに、かわされてしまった。

 大小さまざまな穴は、剛の奮闘の結果、30個近くにもなった。その穴に足を入れては次に移りと、ケン、ケン、パ、をやっている。江の島の灯台が少し霞み、水平線がはっきりしなくなったので、帰り支度をし、砂浜を歩き始めた。30個近くの穴を名残惜し気に、ふり返りふり返りしていた剛が
「ちーちゃん、海がこぼれるよぉっ・・・」と叫んだ。
今まで遊んでいたところまで、大きな波が寄せてきていた。

詩人だった剛はいま、建築会社に勤め、わたしを「叔母さま」と呼ぶようになった。
               
            おわり


小牧さんの企画に参加させてください。
小牧さんお手間をおかけしますがよろしくお願いいたします。


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