『霊柩車の中で、人は本音を話す』第一話
『霊柩車の中で、人は本音を話す』
あらすじ
葬儀社を営む深見たかしは、霊柩車を自ら運転する葬祭ディレクターである。
葬儀の現場では、家族の涙や沈黙の奥にある「本音」と向き合う日々が続く。
霊柩車の中という限られた空間で、人は不思議と心の奥を語り始める。
親子の後悔、夫婦の記憶、兄弟の確執、孤独な人生の終わり。
たかしは数えきれない別れを見送ってきた。
しかし彼自身もまた、若くして亡くなった師匠・間田祐介への思いを抱え続けている。
人の最後を見送る仕事の中で、たかしが気づいていくのは、
「生きている人が前に進むための言葉」だった。
これは、死を送る物語ではない。
残された人が、もう一度生き直すための物語である。
第一話 父を嫌っていた息子
朝は、いつも少し冷えている。
まだ誰も一日を始めきれていないような時間に、深見たかしは事務所の鍵を開けた。
小さな葬儀社だった。派手な看板もない。通り過ぎる人が見れば、古い事務所か、小さな保険屋にでも見えるかもしれない。
玄関を開けると、ほのかに線香の残り香がした。
昨日の相談者が帰ったあと、ヒトミが小さな香皿を片づけてくれたはずなのに、匂いだけは少し残っている。
深見は電気をつけ、湯を沸かし、机の上を整えた。
朝のそれらの動きは、習慣というより祈りに近かった。今日一日、誰かの大切な別れを雑に扱わないための、ささやかな準備だった。
携帯が鳴ったのは、湯が沸く直前だった。
「はい、深見です」
相手は警察署経由の搬送依頼だった。
独居男性。昨夜、自宅で亡くなっているのが見つかった。年齢は七十二歳。家族は息子が一人。連絡は取れていて、ほどなく現場に来るという。
深見はメモを取った。
住所、氏名、搬送先、立ち会いの有無。声は淡々としていたが、胸の内ではすでにその家の空気を想像していた。
独りで亡くなる人は珍しくない。
珍しくないということが、少しも慣れを意味しないことも、深見は知っていた。
車のキーを取り、事務所を出ると、東の空がうっすら明るくなっていた。
助手席には、白い手袋と書類鞄。後部には、搬送用の寝台車。霊柩車に比べれば事務的で、感情の入り込む余地などなさそうな車だ。だが深見にはわかっていた。この車の中でも、人はよく本音をこぼす。
病院でも、警察署でも、火葬場へ向かう途中でも。
なぜだろうと思うことがある。
きっと、前を向くしかない車の中では、涙のやり場が少ないのだ。
窓の外へ流れていく景色と一緒に、心の奥にしまっていた言葉まで、つい口をついて出てしまう。
現場は、古い団地の一室だった。
エレベーターのない四階。階段の踊り場に、昨夜の雨が少しだけ乾ききらずに残っていた。
室内には、生活の匂いがあった。
酒、湿気、古い新聞、洗っていない食器。人がついさっきまで生きていたことを示すものばかりだった。
警察の確認を終えたあと、深見は小さく頭を下げて室内に入った。
布団の上に横たわる男性の顔は、驚くほど静かだった。昨夜まで何かを思い、何かを悔やみ、何かを待っていたかもしれないのに、もう何も語らない顔になっている。
「ご家族は、まだですか」
「もうすぐ来られるそうです」
警察官がそう答えた直後、玄関の外で足音がした。
息を切らして入ってきたのは、三十代半ばくらいの男だった。細身で、黒いパーカーの上に適当に羽織ったジャケット。寝不足なのか、目の下に濃い影があった。
だが、その目は泣きはらした目ではなかった。むしろ、感情の置き場所を失って固くなっているように見えた。
「……父ですか」
男はそう言って、布団の上の顔を見た。
声に揺れはなかった。
「ご子息でいらっしゃいますか」
「はい。長谷川です」
深見は名刺を差し出し、簡単に自己紹介をした。
男ーー長谷川誠は名刺を受け取ったが、そこに書かれた社名も名前も、ほとんど見ていないようだった。
「搬送のご希望先は、どうされますか。ご自宅にお連れするか、弊社の安置室にお預かりすることもできます」
「どっちでもいいです」
深見は一瞬だけ、誠の顔を見た。
“どっちでもいい”と言う人はいる。珍しくはない。言葉どおり投げやりな場合もあるし、考える力が残っていない場合もある。
「ご自宅は、お近くですか」
「いや、車で四十分くらいです」
「でしたら、いったん弊社でお預かりしたほうが落ち着かれるかと思います」
「……それでお願いします」
誠は父親の遺体を見下ろしたまま、しばらく黙っていた。
やがて、小さく鼻で笑うように言った。
「この人、最後まで迷惑かけますね」
警察官が少し視線を落とした。
深見だけが、何も反応を変えなかった。
「そう思われるんですね」
「思いますよ。ずっとそうでしたから」
誠は口元をゆがめた。
「酒ばっかり飲んで、仕事も長続きしなくて。母が生きてるときも散々迷惑かけて。俺、正直……」
言葉を切る。
「正直、悲しくないです」
部屋の空気が少しだけ固まった。
だが、深見はその言葉を受け止めるように、ただ一度うなずいた。
「そうですか」
慰めも、否定も、しなかった。
その代わり、静かに白い布を整えた。
遺体を搬送用シーツに移す作業を始めるとき、誠は少し離れた場所に立ったまま動かなかった。手伝うでもなく、見ないようにするでもなく、ただそこに立っていた。
その姿は、父親と向き合うことを拒んでいるようにも、最後だけは見届けようとしているようにも見えた。
作業の途中、卓上の古びた写真立てが目に入った。
そこには、小学生くらいの男の子が、赤白帽をかぶって笑っている写真が飾られていた。運動会だろうか。背景の万国旗が少し色褪せている。
この部屋には似つかわしくないほど、その写真だけが丁寧に拭かれていた。
深見は何も言わず、作業を続けた。
遺体を車にお乗せし、団地の階段をゆっくり下りるころには、朝の光がすっかり広がっていた。
誠は後ろからついてきた。足音がやけに重かった。
車に乗り込む前、深見が言った。
「前にお乗りになりますか。後ろに添われることもできます」
「前でいいです」
誠は助手席に乗り込み、シートベルトを乱暴に引いた。
深見は一礼して運転席に座り、エンジンをかけた。
車が静かに走り出す。
団地を抜け、県道に出るまでのあいだ、二人とも黙っていた。
ラジオはつけない。深見は仕事のとき、ほとんど音を入れなかった。何もない空間のほうが、遺族の呼吸や沈黙が見えるからだ。
しばらくして誠が窓の外を見たまま言った。
「こういうの、慣れてるんですか」
「何に、ですか」
「人が死ぬの」
深見は少し考えてから答えた。
「慣れません」
「でも仕事でしょう」
「仕事です。ただ、慣れてしまったら駄目だと思っています」
誠は苦笑した。
「立派ですね」
その“立派”には、少しだけ棘があった。
だが深見は構わなかった。
「立派じゃないですよ。毎回、考えます。これでよかったか、もっとできることはなかったかって」
「……へえ」
誠はまた黙った。
信号待ちで車が止まる。フロントガラスの向こうを、通学中らしい小学生の列が横切っていく。黄色い帽子、揺れるランドセル、親に手を引かれる子ども。
誠の視線が、その列を追った。
「父親って、なんなんですかね」
独り言のような声だった。
深見は急いで返さなかった。
言葉は、ときどき急がないほうが続く。
「うちの親父、ろくでもなかったですよ」
誠が自分から続けた。
「酒臭いし、約束守らないし、家に金も入れないし。母さん、ずっと我慢してました。俺も子どものころから、早くこの家出たいって思ってた」
車はゆるやかな坂道を上る。
朝の光がフロントガラスに差し込んで、誠の横顔を白く照らした。
「死んだって連絡きいたときも、ああ、ついにかって。そんな感じでした」
「……」
「最低ですよね、俺」
深見は首を横に振らなかった。縦にも振らなかった。
その代わり、静かに言った。
「そう思うお気持ちになるだけの時間が、あったんでしょうね」
誠が少しだけ眉を動かした。
責められると思っていたのかもしれない。
「時間?」
「長く、苦しかったんだと思います」
誠は窓の外に目を戻した。
ほんの少しだけ、表情が緩んだ気がした。
「……まあ、そうですね」
また沈黙が流れた。
深見は運転しながら、間田祐介のことを思い出していた。
昔、自分を厳しく叱り続けた上司。何をしても怒鳴られ、自分だけ目をつけられていると思っていた人。
その人が四十代で突然亡くなったとき、深見は葬儀場の隅で立ち尽くした。遺族から聞かされたのは、自分の知らない上司の言葉だった。
――深見は、いい葬儀屋になる。
――あいつは、最後まで人を雑に扱わない。
あのとき初めて知った。
人は、生きているうちに本音を全部は言わない。
だからこそ、死のそばでは、残された者が代わりに本音をこぼすのかもしれない。
「でも」
誠が、不意に言った。
「運動会だけは来てたんですよ」
深見は視線を前に向けたまま、「そうなんですか」と返した。
「仕事もまともにしてないくせに、運動会だけは毎回来てた。保護者席の後ろのほうで、ずっと立って見てるんです。弁当も一緒に食べない。写真もろくに撮らない。ただ来て、見てるだけ」
誠は小さく笑った。
その笑いは、先ほどまでの硬い笑いとは少し違っていた。
「子どものころは、なんで来るんだよって思ってました。酒臭いし、みっともないし」
「……」
「でも、中学の最後の運動会のときかな。珍しく、徒競走で一位取ったんですよ。そしたら、遠くからなのに、親父がすげえ拍手してるの見えて」
誠の声が、そこで少し詰まった。
「恥ずかしかったんです。だから、わざと見ないふりしたんですけど」
信号が青に変わる。
深見はゆっくりアクセルを踏んだ。
「さっき、部屋に写真がありました」
誠が顔を向けた。
「写真?」
「机の上に。運動会の写真です。赤白帽をかぶった男の子が写っていました」
「……」
「一枚だけでした」
「それ、俺です」
誠の声が、急に子どものように小さくなった。
「たぶん、お父様にとって大事な写真だったんでしょうね」
誠は何も言わなかった。
ただ、膝の上で握った手に力が入ったのがわかった。
「そんなわけないでしょう」
ようやく出た声は、強がりの形をしていた。
「だって、親父ですよ。俺のことなんか」
「そう思われる理由は、たくさんあったんだと思います」
「……」
「でも、写真はそこにあった。それも、よく見える場所に」
誠は唇を噛んだ。
窓の外へ向けていた顔が、少しずつ前を向く。
「俺、一回も礼なんて言ってないです」
深見は返事を急がない。
「運動会に来てくれても、卒業式に来てても、母さんが入院したとき夜中まで病院にいたことも、知ってたのに」
「……」
「全部、見てないふりしてた」
誠の肩がわずかに震えた。
「嫌いでいたほうが、楽だったんです」
その言葉に、深見は小さく息をのんだ。
なんて正確な言葉だろうと思った。
人はときどき、憎んでいる相手の中に少しでも愛情を見つけてしまうと、自分の怒りの置き場がなくなる。
だから見ない。認めない。気づかなかったことにする。
それは弱さというより、生き延びるための方法なのかもしれない。
「そういうこと、ありますよね」
深見がそう言うと、誠の目から不意に涙が落ちた。
一滴だけではなかった。こらえていたものが崩れるように、静かに続いた。
「俺、最後まで優しくできなかった」
車内にはエンジンの低い音だけがあった。
深見はただハンドルを握り、車をまっすぐ走らせた。
「昨日の夜も、電話きてたんです」
誠がしゃくり上げるのをこらえながら言った。
「また金の無心かなと思って、出なかった。そしたら、今日、警察から……」
そこで言葉が切れた。
深見には、その“もしも”の重さがよくわかる。
電話に出ていれば。あと一時間早ければ。もう少し優しくしていれば。
遺族はたいてい、そのどれかを自分に突きつける。
だが、死はたいてい、そんなにきれいな因果でできていない。
それでも人は、自分を責めることでしか悲しみに形を与えられないことがある。
「出なかったことを、後悔されていますか」
「……はい」
「そうですよね」
深見はそれ以上、軽くはしなかった。
“大丈夫です”とも、“仕方ないです”とも言わない。
簡単に赦してしまうと、相手の痛みを薄くしてしまう気がした。
「でも」
しばらくして、深見は続けた。
「今、こうして一緒に向かっておられることも、ひとつの答えだと思います」
「答え?」
「逃げずに、送ろうとされている」
誠は涙をぬぐった。
「そんな立派なもんじゃ……」
「立派じゃなくていいんです。送るって、たぶん、綺麗ごとだけじゃできませんから」
車は葬儀社の安置室に着いた。
小さな白い建物の前で停まり、深見はエンジンを切った。
搬送を終え、安置を整え、枕飾りを簡単に設える。
誠は最初、距離を取って見ていたが、線香をあげる段になると、自分から一歩前に出た。
父親の枕元に立つ。
その背中は、団地で見たときより少しだけ小さく見えた。
「お顔、ご覧になりますか」
深見がそう言うと、誠は迷った末にうなずいた。
そっと白布を整えると、父親の顔が静かに現れる。
誠はしばらく見つめていた。
それから、かすれた声で言った。
「老けたな……」
それは責める言葉ではなかった。
長い時間、自分の知らないところで歳を重ねていた相手に、ようやく触れた人の声だった。
「親父」
誠が呼ぶ。
「運動会、来てたの、知ってたよ」
涙で声が震える。
「恥ずかしくてさ。見ないふりしただけだ」
深見は少し離れたところで黙っていた。
この場に必要なのは説明でも進行でもない。届くかどうかわからない言葉が、ちゃんと出てくるまで待つことだ。
「ありがとうくらい、言えばよかったな」
誠はそう言って、父親の手元に触れた。
もう温度はなかったが、それでも触れた。
しばらくして、誠が深見のほうを向いた。目は赤くなっていたが、朝より少しだけ表情がほどけていた。
「さっき、どっちでもいいって言ってすみませんでした」
「いえ」
「たぶん、どうでもよくなかったです。考えたくなかっただけで」
深見はうなずいた。
「そういうとき、あります」
「……ありますね」
誠は小さく笑った。
今度の笑いは、ちゃんと人の体温がある笑いだった。
手続きを終え、誠を見送ったあと、安置室に静けさが戻った。
深見は線香の煙がまっすぐ上がるのを見ていた。
そこへ、事務所の扉が開く音がした。
「もう帰ってきてたんだ」
深見ヒトミだった。
買い物袋を提げて、いつものように少し急ぎ足で入ってくる。
「朝ごはん、食べてないでしょ」
「ああ」
「やっぱり」
ヒトミはそれ以上何も聞かない。
だが深見の顔を一目見て、今日が軽い朝ではなかったことだけは察したようだった。
「コーヒー入れるね」
「ありがとう」
ヒトミは台所のほうへ向かった。
その背中を見ながら、深見はふと思った。
人は、霊柩車の中で本音を話す。
涙も、後悔も、ときどき笑いさえも、あの狭い車の中でこぼれていく。
けれど、本当は。
一番近くにいる人の思いほど、案外見えていないのかもしれない。
安置室の白い光の中で、深見は間田祐介のことを思い出していた。
厳しくて、不器用で、何も褒めてくれなかった上司。
けれど死んだあとで、自分を信じていたことを知った人。
生きているうちに聞けなかった言葉は、どうしてこうも胸に残るのだろう。
もしかしたら、自分もまだ知らない。
ちゃんと受け取れていない言葉が、すぐそばにあるのかもしれない。
深見は白い布の向こうで眠る男に向かって、静かに手を合わせた。
送るというのは、棺を運ぶことじゃない。
最後に残った言葉の置き場を、一緒に探すことだ。
そしてたぶん――
霊柩車の中で、人は本音を話す。
📝作者 深野剛
一般社団法人くおん 代表理事
