見出し画像

ミスして怒るのはやめて考えよう。「そのミスは技術的なミスなのか、認知的なミスなのか?」

そのミスは、技術的なミスなのか、認知的なミスなのか

 サッカーを指導していれば、必ずミスは起こる。

 パスがずれる。コントロールが大きくなる。相手にボールを奪われる。ターンした瞬間に相手とぶつかる。シュートを外す。マークを外す。判断が遅れる。

 そもそも、ミスのないサッカーなど存在しない。

 だからこそ指導者にとって重要なのは、「ミスを見つけること」ではない。

 そのミスをどう見るかである。

 目の前でボールを失った選手に対して、

「何やってるんだ」
「そこは取られるな」
「簡単にやれ」
「ミスするな」

 と言うことは簡単だ。

 しかし、それだけではミスという「結果」を見ているにすぎない。

 指導者が本当に見なければならないのは、その結果が生まれるまでの「過程」ではないだろうか。

 その選手は何を見ていたのか。

 何を見えていなかったのか。

 どのような状況だと認識していたのか。

 どんなプレーを選択しようとしていたのか。

 なぜ、そのプレーを選んだのか。

 そして、その判断を実行するための技術は十分だったのか。

 私は、この部分を想像する力こそ、指導者の「見る目」なのではないかと思っている。

 たとえば、ある選手がボールを受けてターンした瞬間、背後から来た相手にボールを奪われたとする。

 結果だけを見れば、「ターンに失敗した」というミスである。

 しかし、本当にターンの技術が低かったのだろうか。

 もしかすると、その選手はボールを受ける前に背後を確認できていなかったのかもしれない。

 あるいは、一度は確認していたが、ボールが移動している数秒の間に相手の位置が変化したのかもしれない。

 相手が見えていたにもかかわらず、「まだ距離がある」と誤って認識していた可能性もある。

 さらに言えば、相手の存在も距離も正しく認識していたが、それでも前進するためにターンを選択し、単純にボールコントロールだけを失敗したのかもしれない。

 外側から見れば、すべて同じ「ボールロスト」である。

 しかし、その原因はまったく違う。

 一つは技術的なミスかもしれない。

 一つは認知のミスかもしれない。

 一つは判断のミスかもしれない。

 あるいは、認知も判断も正しく、実行だけがうまくいかなかったのかもしれない。

 ここを区別しなければ、指導者のアドバイスは選手に届かない。

 見えていなかった選手に「もっと正確にコントロールしろ」と言っても、本質的な解決にはならない。

 反対に、十分に周囲を確認し、適切な判断をしていた選手に対して「もっと周りを見ろ」と言っても、その選手の問題とは噛み合っていない。

 だから私は、サッカーにおけるミスを見るとき、「何を失敗したのか」よりも先に、「どの段階で問題が起きたのか」を考えることが重要だと思っている。

「見る・判断する・実行する」

 サッカーのプレーを単純化すれば、

「認知する」
「判断する」
「実行する」

 という流れで考えることができる。

 もちろん、実際のサッカーはこれほど単純ではない。

 選手は認知しながら判断し、判断しながら身体を動かし、その途中で新しい情報を再び認知している。試合中はこの循環がほとんど切れ目なく続いている。

 それでも、指導者がミスの原因を整理するための視点として、この考え方は非常に有効である。

 まず、その選手は必要な情報を認知できていたのか。

 次に、その情報をもとに適切な判断をしていたのか。

 そして、その判断したプレーを身体で実行できたのか。

 この三つを分けて考えるだけでも、ミスの見え方は大きく変わる。

 たとえばパスミス一つを取ってもそうだ。

 味方がフリーであることに気づかなかったのであれば、認知の問題かもしれない。

 味方が見えていたにもかかわらず別の選択肢を選んだのであれば、判断の問題かもしれない。

 正しい選択をしていたにもかかわらず、キックがずれたのであれば、実行の問題かもしれない。

 そして重要なのは、この違いによってトレーニングもコーチングも変わるということである。

「技術がない」で片づけない

 ここで難しいのが、「技術」という言葉である。

 技術を単純にキック、コントロール、ドリブルといった身体的な実行能力だけで捉えるのであれば、認知や判断とは分けて考えることができる。

 一方で、サッカーという競技の中で発揮される「スキル」として考えるなら、話は変わってくる。

 試合では、誰にも邪魔されずにボールを止めたり蹴ったりすることはほとんどない。

 相手がいる。

 味方がいる。

 スペースが変化する。

 時間的な制約がある。

 プレッシャーがある。

 その中で必要な情報を見つけ、状況を認識し、プレーを選択し、身体を動かす。

 そう考えれば、「見ること」「判断すること」「実行すること」は完全に切り離せるものではない。

 だから私は、試合中のミスを簡単に「技術がない」という一言で片づけることには慎重でありたいと思っている。

 技術練習を増やせば解決するミスなのか。

 見るべき場所を理解させる必要があるのか。

 身体の向きを変える必要があるのか。

 ポジショニングを改善する必要があるのか。

 判断基準を共有する必要があるのか。

 経験そのものを増やす必要があるのか。

 原因によって、解決方法はまったく違う。

選手はミスをしたくてプレーしているわけではない

 当たり前のことだが、ミスをしたくてサッカーをしている選手はいない。

 ボールを奪われたい選手もいない。

 シュートを外したい選手もいない。

 試合に負けたい選手もいない。

 それでもミスは起こる。

 だから、ミスが起きた瞬間に感情的になり、怒鳴ったり、叱りつけたりするだけでは、指導としてはあまりにも浅い。

 もちろん、すべての叱責を否定したいわけではない。チームとして守らなければならない規律や、取り組む姿勢に対して厳しく伝えなければならない場面はある。

 しかし、「プレーのミス」と「姿勢の問題」は分けて考える必要がある。

 挑戦した結果として起きたミスなのか。

 準備不足から起きたミスなのか。

 情報を得られなかったミスなのか。

 判断を誤ったミスなのか。

 単純な実行エラーなのか。

 それを見極めずに、すべて同じ温度で怒ってしまえば、選手は「何を改善すればいいのか」が分からない。

 やがて選手が学ぶのはサッカーではなく、「怒られないためのプレー」になってしまう可能性すらある。

指導者は、選手の頭の中を想像する

 私は、指導者にとって大切なのは、ピッチの外から正解を言うことではないと思っている。

 外から見ている指導者には、ピッチ全体が見える。

 しかし、選手にはその景色は見えていない。

 選手が見ているのは、その瞬間、その場所、その身体の向きから見える景色だけである。

 だからこそ、

「なぜそこにパスを出さなかったんだ」

 と問う前に、

「そもそも、その選手にはそこが見えていたのか」

 を考えなければならない。

 指導者には見えている。

 しかし選手には見えていない。

 この違いを忘れてしまうと、コーチングは簡単に結果論になる。

 大切なのは、選手の目からその場面を見ることである。

 その選手の視野からピッチを想像する。

 その選手が持っていた情報を想像する。

 その選手が考えていたことを想像する。

 そのうえで、

「何が見えていた?」

「相手はどこにいると思っていた?」

「何をしようとした?」

「他にどんな選択肢があった?」

 と選手に問いかけてみる。

 すると、外から見ているだけでは分からなかったことが見えてくる。

 指導者が想像し、選手と対話し、原因を探る。

 そこから初めて、適切なアドバイスが生まれるのではないだろうか。

ミスを見ることは、選手を理解すること

 良い指導者とは、ミスをたくさん指摘できる指導者ではない。

 私は、ミスの背景を読み取れる指導者なのだと思う。

 結果ではなく過程を見る。

 何を見たのか。

 何を感じたのか。

 何を考えたのか。

 何を選んだのか。

 そして、なぜそれを実行できなかったのか。

 そこまで見ようとする。

 ミスという現象の奥には、その選手の認知、判断、技術、経験、心理状態、身体の向き、ポジショニング、そしてそれまで受けてきた指導まで、さまざまな要因が隠れている。

 だからサッカーの指導は難しい。

 同時に、だからこそ面白い。

 目の前のミスに対して反射的に声を出すのではなく、一度そのプレーの背景を考えてみる。

「この選手は、なぜこのプレーをしたのだろう」

 この問いを持てるかどうか。

 それだけで、指導者の見る景色は大きく変わると思う。

 そのミスは、本当に技術的なミスだったのか。

 それとも認知的なミスだったのか。

 判断の問題だったのか。

 あるいは、正しい認知と判断の上で起きた、単なる実行上のミスだったのか。

 指導者が考えるべきなのは、ミスを責めることではない。

 ミスが生まれた構造を理解することである。

 そして、その選手に今、本当に必要な一言は何なのかを考えることである。

 私は、その積み重ねこそが「選手を見る」ということなのだと思う。

いいなと思ったら応援しよう!