短歌ではないものを短歌として
嶋稟太郎さんが今日発表された「日々のクオリア」が注目されている。
読んで、伝わってくるのは憤りだ。
個人的に思うことがいくつかあったので、記したい。賛否のどちらであっても議論されることが、嶋さんの望みであるように思うので。
①短歌ではないものを短歌として扱うこと
わたしたちは歌人だから、社会詠として政治を非難する内容の歌を詠むことができる。
(少なくとも現時点では、政治的圧力をかけられることはないと認識している)
嶋さんはそうではなく、政治家の発言を歌として読み、評することを試みた。
もちろんこの発言は短歌ではないけれど、首脳会談を象徴するようなフレーズであって、偶然にもそれが短歌として読めうるならばいっそ短歌として読んでしまおうと思った。
「日々のクオリア」、砂子屋書房の公式サイトからこの一年、一日交代で嶋さんは一首評を執筆されている。
短歌の専門誌的なオフィシャルさとwebならではの即時性を併せ持つ、稀有なメディアだと思う。
自分が政治に怒りを感じ、沈黙してはいられないと考えたときに、歌人である自分の世界のことばで語ろうという発想は理解できる。
本来短歌ではない文章が偶然に短歌のかたちをとっていた時、短歌として読んでみると独特の味わい、面白みがあるとして「偶然短歌」というジャンルがあるのも理解できる。
嶋さんはなぜ、「短歌として読んでしまおう」と考えられたのだろう。
嶋さんの評文そのものについては、違和感なく読むことができた。
けれど、それでもわたしは政治家の発言を短歌として読むことは、仮定としても、できなかった。
あのような発言を、短歌として、文学として、芸術として、取り扱いたくない。
ただそれだけの感情的理由だ。
②なぜ発言を短歌として捉えなくてはいけなかったのか
嶋さんの文章自体は素晴らしいと思う。
吉川宏志さんの一首
ネットにて反対を書く 一円玉のような軽さと思えども書く
/吉川宏志
を引用したところから終わりまでは特に、名文だと思った。
では、高市早苗首相の発言は発言として語り、吉川さんの歌を引いて締め括るのではいけなかったのだろうか?
シンプルに、疑問に感じている。
③評文の発表について
先ほど述べたように、「日々のクオリア」は多くの人の、とりわけ歌人の目に触れる「短歌の専門誌的な性質」を持っている。当然、様々な反応があることは嶋さんも予想されていたはずだ。
その上で、今日の評を発表された覚悟には拍手を送りたい。もしも自分が嶋さんの立場であったとしても、人の反応が恐ろしくて、無難なことしか書けないと思う。
異論ではあるけれど発言することで、嶋さんの勇気に応えたい。
