映画『マトリックス』の世界観を解説する――MATRIXとは座標変換である
本稿は2003年11月に「映画マトリックス三部作」が公開完結された当時、あまりにも良くできた作品だったので思わず書いた文章です。
それをインターネットで公開したところ、大反響になり、マトリックス解説の原本になった経緯があります。おそらく今ある解説の大部分はこちらが元ネタにあたる。
そして今、改めて自身で読み直したところ、GPUの重要性に触れている。なのに執筆当時にGPUがAIのカギだと記述していないのだ。これを読むと私自身、ただの甘ちゃんだったと認めざるを得ない。
AIとGPUの技術解説はこちら
この度、当時のHPを20年ぶりにリニューアルしたのと、noteにてAIの記事を書いている手前から、ここに掲載することにしました。
もとのHPはこちら、映画マトリックスの世界について解説と考察する
従って、記述内容に誤りがあるかもしれませんが、原文通り掲載します。
映画『マトリックス』の世界観を解説と考察する
2003年11月5日午後11時、世界同時――。
極めて興味深い映画が公開となった。1作目を観たときの第一印象は「なんとまぁスタイリッシュな映画なんだろう」というものだったが、その随所に見え隠れするオタクさが妙に心に残った。
そして『リローデッド』〜『レボリューションズ』。1作目の内容が平面だったとすれば、これらの作品は奥行きと謎を与えた。
謎は多くの人々を混乱させたようだ。私も思った。これは、コンピュータのアーキテクチャを知らない人に理解できるのだろうか。仮想現実を離れ、コンピュータを擬人化した世界にまで発展した『マトリックス』よ、どこへ行く――。
作品の中で何を言いたいのかを理解するには、共通の世界観の認識が必要だ。しかし映画『マトリックス』は、世界観を多くは語っていない。唯一ヒントになるのは『アニマトリックス』という外伝的アニメ作品と『エンター・ザ・マトリックス』というゲームだが、それでも情報は不足している。不足部分を補うには各人の想像力しかない。
つまり、ここで語る『マトリックス』の世界観は私個人の解釈である。難解な台詞を読み解き、自分自身のために書き下ろした。いつの日か作品の真相が語られるときの楽しみとして――。
- 初回:2003年11月7日
- 修正:気が付くたび
- 記:Kubo
注意:本記事はストーリーのネタバレを含みます。
第1章 機械の反逆とゼロワン――キャシャーンの世界観
人類にとって機械は良きパートナーだった。人間はより高性能の機械を創造し、世の中を便利にしていった。
あるとき1体のロボットが不満から人間を殺してしまう事件が発生した。知性があるまでに進化したロボットは裁判を受け、有罪となった。この事件を契機として、日頃機械に敵意を持っている人間は機械を迫害する。
迫害を受けた機械=マシンは、機械だけの国「ゼロワン」を作った。ゼロワンで生産される機械は性能が良く、経済力は人類のそれを凌駕してしまう。困った各国は一致団結してゼロワンを経済封鎖した。なんとか誤解を解きたい機械は共存の道を模索するが、結局人類との戦争状態に突入してしまう。
第2章 闇の地球とマトリックスの誕生――電脳の世界観
機械は事態の推移に疑問を感じながらも、圧倒的な武力で人類を追い詰めた。人類は、機械の電力源が太陽であることから空をナノテクノロジーの雲で覆い、地球を闇にした。この時から機械は人間を電池の代わりに使用することを実行する。さらなる圧倒的な機械軍団の前に、人類は追い詰められていく。
一方、機械は人類の不思議な性質を理解するために人間の生体研究を開始した。その過程で、人間に夢を見させると効率よく電力を得られることが分かり、マトリックスが創出される。
マトリックスとは、電池として繋がれている人間に仮想の世界を見せるシステムである。
第3章 楽園の崩壊とザイオンの起源――旧約聖書の世界観
最初の仮想空間マトリックスは楽園のような場所で、何も努力しなくても生きていける世界だった。しかし、人類は楽園だけでは満足できる生き物ではなかった。
どんどん堕落しマトリックスが崩壊していくので、人類サンプルとして代表1人を選び、データだけ抜き取りソースに保管し、次バージョンのマトリックスを模索する。ソースとは、人間の生態コードやマトリックスに必要なコードが保管されている場所だ。
ザイオンは、電池に繋がれていない真の人類とアノマリー(異端児)を含む集合体だが、数が増えて機械の脅威になっても困るので一度消滅させられた。その代わり、囚われの電池から適当に人類を選びザイオンに放置した。本質を残したままの人間は機械の興味の対象でもあったからだ。あるいは、マトリックスの世界に馴染めない人たち(アノマリー)の受け皿だったのかもしれない。少人数で放置されたザイオンは、勝手に人類を増やしていった(ザイオンはアメリカの先住民を隔離した居留地への皮肉なのかもしれない)。
次のマトリックスは、人類の歴史を考慮して進化していく世界を演出しようと決定された。アーキテクトがソースを使用しフローを書き、マトリックスをリブートする。もちろん、保管されていた人類データは次回のマトリックスに引き継がれる。
そして2番目以降のマトリックス。楽園で人類が堕落する原因を調査する目的で作られたプログラム「オラクル」(その系譜は初期分析プログラム→メロビンジアン→オラクルへと進化)は人類を分析する。そこで分かったのは、人類は自ら選択するという要素がなければ満足しない生き物だということだった。当然、歴史だけ与えられても選択権の無い世界では人類は堕落していった。
再び、その世代のマトリックスを経験している電池である人間を一人選択してソースに保管。以下、ザイオンも初回同様に滅ぼし、何人かの人間をザイオンに送ることが繰り返される。
第4章 アノマリーとエグザイル、メロビンジアン――TRONの世界観
バージョンXXXのマトリックスでは、選択しながら人類が賢くなるような世界が演出されていた。機械の側に立てば、賢い人類とは扱いにくい人類でもある。賢くなった人類の中には、この世界がおかしいと気づくアノマリー=異端者が急増し始めた。つまり、システムを維持しようとした結果、その分だけ異端者も現れるということだ。
マトリックスの中の人類はあくまでデータであり、プログラム(詳細は後章で解説)によって誘導されて流れていく。アノマリーを補正(洗脳、捕獲)するプログラム「エージェント」が配置される。エージェントから脱出した者はザイオンに逃れられるよう仕組まれている。人類を分析するうちに人類に興味を覚えていくアーキテクトには、選択肢と選択後の結果が分かるパートナー「オラクル」が支えとなっている。
マトリックス内には多くのプログラムが存在し、活動している。しかし、その中には消去やアップデートを嫌い、マトリックスの中に紛れ込んで暮らし始めた種族「エグザイル」も登場する(エグザイルはノイマン型コンピュータでいう「データと制御」ができる存在であり、マトリックス内の人類は「データのみ」でできている――これも後章で詳述する)。
さらに、エグザイルの中にもマトリックス内で力を持つようなプログラムが現れ、堂々と権力を欲しがるメロビンジアンのような存在も、どこかのバージョンのマトリックス内に登場してきた。
第5章 救世主の系譜とネオの登場――新約聖書の世界観
選択のできるリブートを繰り返し、マトリックスは活気あふれるものになっていった。が、一方でアノマリーやエグザイルも増大する。リブートでデータである人類はソースを引き継ぎ初期化されるが、プログラムであるエグザイルは初期化されず次バージョンのマトリックスへ移行する。
最後にソースへ保管される人間は「救世主」と呼ばれ、特にオラクルの選択肢の結果を尊重して選別された。救世主に任命されたデータは、最後にソースへ保管する必要性から特殊な属性を与えられていた。
こうした経緯を経て、映画の『マトリックス』の世代に至る。この時のマトリックスのバージョンが何代目かは明確ではないが、ネオなる人物は5代目のようだ。
第6章 ネオの覚醒とアーキテクトの選択
初期の頃のマトリックスでは、『アニマトリックス』に登場したキッドのように自ら目覚める感の良いアノマリーだけだった。しかし、映画の世代のマトリックスでは、コンピュータに精通した人間電池を目覚めさせることに専念する。つまり、マトリックスを理解できるアノマリーが増えてきた。コンピュータに精通したアノマリーは、非現実的な動作もマトリックス内で実行できる。理解しているからこそできることだ。
ここにネオが登場する。『不思議の国のアリス』よろしく、白ウサギに導かれて不思議の国へ旅立つ。マトリックスへの侵入はマトリックス設備に近づき、無線によってアクセスする。そしてそれはマトリックス内の有線端末、つまり有線電話に接続されている。
一方、オラクルは今回のマトリックスのテーマに「個人への愛」を選んだ。トリニティーが愛した人を救世主に選択することにしたのだ。オラクルは、人類に寄り添うプログラムとなっていた。
話は進み、救世主となって想像以上に進化したネオは、闘いのさなかエージェント・スミスをプラグから解放してしまう。その際、スミスに自らの特殊能力の属性を与えてしまった。ネオの特殊能力は救世主の属性であり、両者は陰と陽の関係になる。
そしてリブートの予定が迫る。ネオは現実世界で予知能力を得て、その予知夢の中でトリニティーが窮地に陥る様を見る。時は進み、現在のマトリックスをリブートする時がきた。ザイオンのアクセスコードが分からないものの、機械軍団は手馴れたようにザイオン消滅へ向かう。オラクルは選択肢を与えながらネオをソースに導く。
しかし、今度のマトリックスでは問題が起こっていた。メロビンジアンが「キーメーカー」という先導役――最後の扉を開く暗号解析のプログラム――を捕らえていたのだ。これでは救世主をソースに導くことができず、オラクルの役割を邪魔する行為だった。メロビンジアンには、自身より新型のプログラムであるオラクルへの確執がある。オラクルに見えるものが彼には見えないのだ。
オラクルは時期がきたのでネオをソースに導く準備をした。ネオはソースに近づく途中で野心家メロビンジアンに会う。メロビンジアンは、所詮データであるネオたちと自分たちプログラムの違いを見下したように説明する。所詮データはプログラムに乗って流れていくだけなのだと――つまり因果関係を。ちなみに人に対するプログラムの書き換えは、経口によってなされることが示唆されている。
メロビンジアンの妨害があったものの、ネオはついにアーキテクトと会う。人類愛を選べば、いつもどおりネオの蓄積したデータをソースに保管しデータをばら撒きリブート(リロード=昇天)する。最後の選択肢は、ソースに入ってリブートし新しいマトリックスにするのか、マトリックスをこのまま継続するのかをアーキテクトに促される。
トリニティーへの愛を選ぶ(この時トリニティーはマトリックス内で死にかけている)ということは、マトリックスを維持する道を選ぶことになる。そうなれば増殖したスミスがマトリックスを滅ぼす。ガベージコレクションでシステム不全に陥るかのように、プログラムには予想できないエージェント・スミスの反乱が起きる。所詮プログラムもデータなのだ。データの羅列を順序良く制御することがコンピュータの動作であり、それがプログラムである。そのプログラム(データ)の領域まで壊されると、システムの崩壊につながる。ノイマン型システムの欠点である。
過去の救世主は人類を選んだ経緯がある。つまりソースに入りリブートだ。しかし今回の救世主は、トリニティーへの愛を選ぶように半ばオラクルに仕組まれていた。今まさに愛する者が死にかけている。自分ならその者を救えるかもしれない――つまりマトリックスを存続する道だ。しかし、マトリックス中がスミスだらけになったら、機械も致命傷を負うが、ザイオンとともに人類も絶えてしまう。
このときネオは、マトリックスが存続してもどうにかなるという希望を抱いたのかもしれない。オラクルの分析通り、別の選択をしたのだ。
希望の芽は現実になった。マトリックスの体験を通して、現実世界でもネオは特殊能力が使えるようになったようだ。「スプーンは無い」という言葉は、現実世界でもネオを覚醒させた。ソースを理解し、プラグなしで機械に接続できるネオ。意識で機械を操れるようになったネオ。
どうやらネオには、理解すると理解したまでのことが現実世界で普通に行える能力があるようだ。スミスとベインのように、マトリックス世界の属性は現実世界に持ち込める。オラクルと接触し理解すると現実世界で予知能力が、ソースを理解すると現実世界でソースへの触れ方が得られる、といった具合に(オラクルは食べ物を与えることでネオにプログラムを与えているのかもしれない)。
が、意識の接続は無線でマトリックスに接続するのと違い、機械に捕らわれる可能性がある。センチネルを倒したことで機械内部に取り残され、気を失うネオ――。
第7章 リブートと共存への道――レボリューションズ
そしてレボリューションズ。映画はここで全て(とは言えないが)の謎を回収し、予測のできない最終章へ移る。
センチネルを倒したことによって意識を機械に取り残され、ネオはメロビンジアンの子分トレインマンに捕らわれてしまう。トレインマンの住む世界は、機械とマトリックスを繋ぐ関門である。過去に幾つものプログラムがここを通過してマトリックス世界でエグザイルとなっている。キーメーカーも通過中に捕まった一人だ。ネオはメロビンジアンと取引した仲間の力を借りてなんとか通過し、マトリックスを経由して無事帰還する。
ザイオンは壊滅寸前。一方、マトリックスも壊滅寸前。事はアーキテクトの言うとおりに進んでいく。しかし、意識として機械に侵入できる力を得たネオは、機械側と共存できる可能性を示した。
一方、マトリックスはスミスの増殖で人類の大部分がスミスとなっていた。システムの暴走である。救世主がソースをばら撒かなければリブートできない。今まで蓄積されたコードが無駄になってしまう。
いよいよスミスがプログラムにまで広がり始める。つまり、プログラム領域のデータにまでガベージコレクションが進んできたのだ。システムの崩壊は機械側の被害も甚大になる。
トリニティーを失ったネオと機械は取引をする。ザイオンと残った少数の人類のため、機械のためにマトリックスをリブートしよう――。機械もプログラム(エグザイル)も救世主に協力する。
そうなのだ、あの最後の選択は人類と機械とエグザイルの共存を画策した因果関係だったのだ。エグザイルの小さな氾濫だったのだ。今までのネオは人類を選択してきた。言い換えれば人類のみを大切にしたのだ。しかし今回のネオは三者を受容した。ネオがトリニティー(三位一体の意)を選択することは、真に三者への愛だったのだ。もしかすると機械はオラクルを通して人間を学んでいたのかもしれない。今回の選択で個人的な愛を選択する、それは機械が学びたかったことなのかもしれない。
結果、個人的な愛を選択したネオ=救世主のソースをばら撒くため、スミスに取り込まれるネオ。そして十字の光となり、人類と機械とエグザイルの原罪を秘めてリブート=昇天する。
機械は約束を守り、ザイオンは絶滅を免れた。次のマトリックスは人類が少数だ。プログラム(エグザイル)たちも残った。ザイオンを含めた人類と機械とエグザイルは共存できる可能性がある。プログラムにも愛がある――いや、もしかするとネオの属性を取り込んだ「愛あるシステム」が起動しただけかもしれない。
最後にネオが何を理解したか――三者の神になったのか。答えはこれからだ。
いつかこの空虚なマトリックス内に、意識を共存できる人類が多く現れるだろう。残った少数の人類も希望があればプラグを外していいと、機械も思っているのかもしれない。あとは機械の生き方、省電力でも生きられる機械自身の問題なのだと意に介さない。
だが、人類はまた愚かになるのだろうか。少なくとも機械はそうはならないと、アーキテクトはオラクルに言うのであった――。そう、機械はこれからも自身の不完全さを人の選択から学び、システムに反映し続けることで成長していくのだから。しかし、機械が人間から全てを学び取った瞬間に、人間の愚かさも模倣するのだろうか。機械は人間になることが最終目的なのか、それとも神になることが最終目的なのか。それ以前に、機械側の壮大な実験はマトリックスを通して永遠に検証し続けるつもりなのだろうか。
果たして、プラグから解放しても良い人間とはどんな人物を指すのか分からないが、私個人としては「主従関係がはっきりし、人類と機械が和解した」とは到底思えないラストを迎えたものと認識している。
ここまでは誰でも分かる、制作者の世界観としてのストーリー補強である。だが、実際の映画のキモはもっと単純なのだ。続けて以下を読めば、そのすべてが分かる。制作者がSFやアニメ好きのコンピュータおたく(ウォシャウスキー兄弟)であることを忘れてはいけない。
第8章 MATRIXとは何か――座標変換としての本質
さて、マトリックス(MATRIX)とはどのような意味だろうか。
コンピュータ業界でMATRIXと言えばズバリ、座標変換の式であり、状態変化の式である。CAD系やCG系のシステムをプログラムしたことのある人には大変馴染みがある言葉である。従って、映画『MATRIX』を見たとき、何となくニュアンスが伝わってくる。しかし、一般の人には分からなかったと思う。一部の解説ではMATRIX=母体、あるいはMATRIX=子宮として表現されているが、間違いではないがピントが甘いと思うのだ。
$${( X \quad Y \quad 1 )=( 4 \quad 5 \quad 1 )\times\begin{vmatrix} 1&0& 0\\0&1&0\\10&20&1\end{vmatrix}\times\begin{vmatrix}\cos30&\sin30& 0\\-\sin30&\cos30&0\\0&0&1\end{vmatrix}}$$
次元座標(4,5)を(10,20)移動後30度回転するMATRIX表現は、数学的にこのように記され、C++等のプログラムでは、
M2Coordinate p( 4,5 ); // 座標(4,5)を用意。基本的に「1行3列」のマトリクスである。
M2Move move( 10, 20 ); // 移動マトリクス「3行3列」を用意したのと同じこと。
M2Rotate rotate( Rad( 30 ) ); // 回転マトリクス「3行3列」を用意したのと同じこと。
p = p.Mul( move ).Mul( rotate ); // 行列クラスが行うかけ算のように記述される。これはCG専用機のベクトル演算器にも用いられる。
よって、映画『MATRIX』のマトリックスは、仮想現実のソース(上記例では座標(4,5))、さらに言えば画面バックに流れている数字記号の羅列を、MATRIX変換によって様々な事象に変えていく装置として見たほうが分かりやすい。というより、それが正解であろう。
もう少し補足すると、2次元座標は3×3のMATRIXで変換できる。同様に3次元空間なら4×4のマトリックスだ。つまり変換する次元が多くなれば、MATRIXも巨大になる。4次元の時空に赤い服を着てお出かけする場合などは、膨大なMATRIX変換となる。データをMATRIX変換すると結果が得られる。つまり、MATRIX変換をどの順番で行うかということがプログラムである。
メロビンジアンが言っていた「人とエグザイルの違い」、「ソース(データ)とプログラムの違い」。ソースは単なるデータであり、プログラム(MATRIX変換)によって如何様にも変化していく。ただMATRIX変換によって、人(ソース=データ=座標)は無いものを有るように、色々経験したように、データが変化しただけであり、エグザイル=プログラムによって操られている。
これが映画『MATRIX』の本質であり、MATRIX=母体=子宮などと思われると、仮想現実とMATRIXの関係が見えなくなる。事実、仮想現実空間を「MATRIX」と呼ぶSF作品は多い。それが単なる空間では、仮想現実に結びつかない。MATRIX=変換装置として捉えたほうがしっくりくる。もう一度言うと、CADやCGのシステム開発を行うプログラマにとってMATRIXとは常識的な言葉である。CGのドット一つ一つも、MATRIX変換で色をつけリアルな質感を表現している。MATRIX演算がデータを変換し、現実と区別できないようなコンピュータグラフィックの世界を造る。この意味こそが映画『MATRIX』の意味であり、本質である。この基本が分かれば、映画全ての謎は解けるのである。
あの印象的なコンピュータ画面に流れる記号も、ソース=データがMATRIX変換によって次々に変化していく状態を表している。だから画面を見て「誰々がいる」「どうなった」と映画で表現されたとき、プログラマ経験者は理解できた。一般の人は何のことか分からなかったのではないか。複雑なMATRIX変換を視覚化すれば映画のような表現になることは、CADやCGのシステム開発を行うプログラマなら理解していたのである。文系的な解釈に足りない部分は、まさにこの知識である。
ちなみに映画内の画像の色が緑色なのは、昔のコンピュータのモニターの色が緑一色だったことへのオマージュだ。私が初めて買ったコンピュータ=マイコンの画面も緑色だった。モニターの色が緑である理由は、緑の蛍光体は蓄光性が良く長時間蛍光するためリフレッシュレートを稼げる(結果、ちらつきが少なく目に優しいという当時の理由もある)からだ。モニターの電源を切ってもしばらく緑色に輝いていたことを知っている人なら納得するだろう。
第9章 マトリックス演算の系譜――ベクトル演算機からGPUへ
一般に言われている、「マトリックス」というSF的語源はギブソンの『ニューロマンサー』だとされているが、実は1960年代からベクトル演算機にはマトリクスとして広く活用されている。それがサイバー空間と結びついたのは1980年代からだ。1960年代のコンピュータはフレームワークで、ベクトル演算の回路は配線によって成り立っていた。パソコンに詳しい人には、ベクトル演算の進化系はグラフィックボード=GPUだと言えば分かりやすいだろう。3Dまたはドットマトリクスのように膨大な数の単純なベクトル演算は、専用の回路に任せた方が効率が良い。よって、このベクトル演算装置をマトリックス演算と呼び、この演算装置を極限まで高めれば現実と違わないような空間が計算できる、ということになった。現在のゲーム機が、まさにその延長線上の過程にあると言える。
歴史を振り返ると、ベクトル演算機の一つの完成形は1970年代のCray-1で、それが1980年代になると様々なシミュレーションで活躍し、ベクトル演算=マトリクス演算=シミュレーション=仮想現実という流れの中で、コンピュータに詳しい人の中では当たり前の観念となった。1990年代になるとインターネット時代の立役者でもあるネットスケープ(現在のブラウザの祖)のジム・クラークがシリコングラフィックスでコンピュータグラフィック専門の高速PCを安価に普及させ汎用化した。その流れは巡り回って、ジョブズのピクサーやルーカスのILMへと引き継がれ、映画の3D化に大きく貢献した。
つまり、世界を場で区切ってグリッド=マトリックス化し、膨大な各グリッドをベクトル演算すると精密なシミュレーションができる。天気予報や流体シミュレーションなどがそうだ。このことは、少なくとも1960年代には非力ながらフレームワークで一般化されており、1970年代の3D技術の発展とともに1980年代の仮想現実へと結実し、SFとともに広く流布された。ここで注意してほしいのは、サイバーパンクは仮想現実の世界と何ら関係ないことだ。本来サイバーパンクの意味とは「ちょっと現実味のあるSF」のことで、そのガジェットとして仮想現実が出てきたにすぎない。
その後、仮想現実はネットの観念を取り入れたり何回かのAIブームを経て現在に至る。この基本ベースを理解していなければ、映画『マトリックス』の世界観は維持できないし、現在のSFは読み解けない。またマトリックス演算はCGに限らず、あらゆる事象変換に応用されており(構造解析、状況分析、さらにその予測など)、ベクトル演算回路の高速化と応用は現在のコンピュータ技術の必須要件である。この基本知識を知っているか知らないかで、コンピュータ技術者(だけとは限らないが)としてのランクが決定すると言っても過言ではない。
第10章 プログラム群とエグザイル――妖怪としての存在
話を映画『マトリックス』に戻すと、人=ソース=データという構図も理解できる。人は単なるスキャンされたデータとして、MATRIX上では機械に識別されている。さらに言うと、木や空や海などもデータとして保管されている。それらを変換して動かしたり未来を与えたりする役目がプログラムであり、亡命プログラム=エグザイルも同じ力を有している。
映画で登場した機械側のプログラムは、アーキテクト=システム設計者、オラクル=(選択による)分析、セラフ=防御(オラクルの衛星)、キーメーカー=暗号解析、トレインマン=インターフェイス、サティの親=発電システムなどである。亡命中であるMATRIX空間内のプログラムは、エグザイルとして人=データに見える。専門的に言うと、プログラムもデータの集まりなので、エグザイルも人には幽霊のように見えるという設定なのだろう。西洋ではエグザイル=妖精のような存在と捉えられているが、日本的に言えば妖怪であろうか。この妖怪は人や自然現象を操ることができるのである。
オラクルとメロビンジアンには、プログラムの書き換えを経口によって行える能力があるようだ。オラクルが因果律の分析ができるということは、プログラムを書き換えその結果の差異を知ることに他ならない。そう考えると、メロビンジアンがエグザイル化していることや初期のプログラムという設定から、メロビンジアンはオラクルの初期バージョンのプログラムだということになる。メロビンジアンがオラクルに劣っていた部分は、因果律の確かな結果を知る能力――映画では「オラクルの目」として表現されている。さらに補足すると、パーセフォニーというメロビンジアンの妻がいる。彼女はメロビンジアンの分析能力の一部であるデータ収集を担っている。この設定からも、メロビンジアンは初期のプログラムだと分かる、うまい表現がなされていて感心した。
最後に、映画途中で登場したサティの人生(?)を例に出してみよう。サティは機械側にとって用無しになったプログラム=MATRIX変換である。そのため不憫に思った両親はMATRIX空間へ亡命させ、エグザイル化しようとした。亡命の手助けはトレインマンである。そしてサティの能力だが、映画の最後で美しい景色を見せるもの=プログラムであることが示唆されている。このプログラムは機械にとって必要のないものと捉えられていることが面白い。つまり、現在のMATRIXの住民にとってその機能は必要なくなったことを示唆しているならば、実に深いことではないか。
ちなみに、プログラムを模した登場人物はPC=プログラムカウンタのトラップ機能を有している。
余談だが、メロビンジアンの手下にツインズという双子のエグザイルがいる。これはコンピュータ的には量子コンピュータを示唆していると思われる。量子コンピュータの仕組みを詳しく解説はしないが、ここでは量子ビットと呼ばれる、0でも1でもない霧のような存在=重ね合わせ=双子で計算する仕組みの次世代コンピュータを量子コンピュータと呼ぶ。量子の特徴を映像にするとあのようになることは、大変興味深かった。ツインズについては、ノイマン型コンピュータと量子コンピュータは動作原理が異なるので、本稿で主に説明しているノイマン型コンピュータとは性格を異にするが、映画の中の世界では量子ビットのキャラクターを出したかったのかな、と想像している。
第11章 ネオとは何者か――データとプログラムの境界
ではネオは何だろうか。先に、プログラムもデータであると記述した。プログラムとデータの違いとは、「データには2つの意味があり、単なるデータと(アセンブル的な)プログラムコード」という意味がある。
通常は単なるデータだが、プログラムコードはデータを追っていくと制御の意味を持つ。コンピュータではPC=プログラムカウンタと呼ばれるものがデータ上の位置を示しており、プログラムの順番を案内する。例えば「00」というデータはゼロであり、空虚であり、色で言えば黒だ。プログラムの意味としては「何もしない」と決められている。このようにデータ一つ一つに動作の意味があり、PC=プログラムカウンタが案内することによってプログラムとして機能する。
ところが時々、PC=プログラムカウンタが単なるデータを指したり、データがプログラムデータに侵入したりする場合がある。一般的にこの現象が起こると、コンピュータは暴走=フリーズする。映画に出てきたバックドアは、このPC=プログラムカウンタと深く関係している。スミスの増殖はPC=プログラムカウンタ暴走の果てにデータ領域を同一データで埋め尽くす、いわばプログラム経験者なら目にしたこともある、よく知られた現象(ガベージコレクション)である。
ネオは、MATRIXの世界がデータとプログラムの2つの記述で出来ていると気がついた人=データである。そのことにより、MATRIX変換を自ら操り自由に色々できる。さらに強力なことは、MATRIX変換を強固にプログラム=造り替えができることだ。これは優秀なプログラマという資質が役立っている。現実にワームというウィルスプログラムがある。これはデータ間を泳ぐことのできるプログラムだが、高度なコンピュータの動作原理を理解していないと作成できない。つまり、MATRIXを理解する=自由にプログラムできるという能力だ。ネオが理解すると次のステップに行けたのはこのためである。
スプーンというデータ、それを変換するプログラム=データコードを書くとスプーンは曲がったように変換される。つまりスプーンは無いのだ。データのみが存在し、変換によって自由にデータを変え曲げることができる。これを一般の人が見ると超能力だが、MATRIXと外部で繋がっているネオはプログラムコード領域に侵入しデータを書き換え、あるいはデータを置き換え不思議なことができるのである。これは現在のMATRIXのデータ構造を理解しなければ変換もできない。そして、オラクルに導かれたネオの救世主属性は、ソースの蓄積とそれらの保管、そして最後のリブート能力(後述)である。
ちなみにモーフィアスたちにはこの能力はない。あるのはパラメータの変更能力による、人の基本能力の拡大のみである。
第12章 リブートというトラップ処理――システム暴走からの再起動
さて、ついに映画のエンディングに触れなければならない。本来はプラグで繋がれたマトリックス内の人間を自身に上書きすることでデータ間を漂い、アノマリー=ちょっとしたバグの摘出を任されたスミスは、マシンにコントロールされていた。ところが、かねてより多様なマトリックス世界に嫌悪感を持っていたスミスは、ネオとの接触によりプラグが外れ、データ間をコントロールなしに自由に動き回り、勝手に自己増殖=異物の排除=違った意味でのソースの保管を始めた。つまり、システムの暴走である。こうなるとコンピュータの電源を切って再起動するしか方法が無いのが一般的だ。しかし、その方法をとった場合は作業途中のデータが全て消滅してしまい、映画の世界でいえば今回のマトリックスの成果は何だったのか、ということになる。そこで、何とか電源を切らずに作業を続けられないかと考えるわけだ。
コンピュータ上の現実的な手順はこうだ。まず、壊れる前のデータをどこかに一時避難させる。次にPC=プログラムカウンタを0(ゼロ)、またはマトリックスシステムのプログラムのある先頭アドレスに設定する。最後に修復システムを起動させて通常運用に入る。PC=0の設定は電源再投入と同義語なのだが、映画の世界ではそれを避けたいようだ。おそらく他のシステムにも影響するからだろう。よって、機械側としてはマトリックス再起動プロトコルを発動したいのだが、暴走状態のシステムにはそのきっかけを与えられない。ゆえに永遠に暴走する。そこで唯一の回答として、ネオとマシンの取引に入る。ネオのみが暴走を止められるわけだ。スミスも属性がコピーされているが、リブートする気がないと言っている。
ちなみに映画2部『リローデッド』で明かされる「ソースの保管」だが、これは上記のバックアップに当たる。MATRIXをリブートする前に救世主のデータをソース保管し、PC=プログラムカウンタをリセットして再起動する。このことによって現在までの作業を保管し、次のMATRIX世界でリロードしてシステムの継続性を保つというわけだ。スミスの出現は、このバックアップ不能の状態に陥ったシステムの焦りを誘発したのである。
そして、ネオの役割は、ソースを保管=現在のマトリックス状態の保管=人の理不尽な属性の保管をして、リブート=マトリックス再起動できる唯一のプログラム属性=救世主を獲得しているという事実が、ここで生きてくる。コンピュータでは割り込み処理=トラップを行う。これは強制的にPC=プログラムカウンタを再起動アドレスにジャンプさせる処理だ。トラップの例としては、漢字キーを押すと日本語処理が起動したり、ESCで動作が変わったり、Windowsなら Ctrl+Alt+Del で強制終了したりすることなどが挙げられる。特に再起動トラップの制御まで暴走していると電源再投入しかないわけだが、それはパソコンレベルの話。高度なコンピュータで電源オフはまず考えられない。映画の世界ではマシンシティーにまで被害が及ぶ可能性を示唆していたので、一大事件なわけだ。早く暴走を止めなければ――。
ネオと同じ属性を持つスミスは、オラクルをも取り込み、物語の因果律の最終形を知っている。知っているがゆえ、自身の勝敗も知っているため強気に出るが、全ての結果を知っているわけではない。つまり、結果の後の始まりのことだ。
ネオに勝ち、ネオを取り込むスミス。全てが終わったと思ったスミスは、オラクルの言葉を口にする。その刹那、リブートの割り込み処理が発生する。データ初期化でスミスは光に。再起動してネオのソースをリロードし、次のバージョンのマトリックスが運用に入って世界が再構築され、映画は終わる。
しかし、オラクルが危険を承知で愛にかけた=愛を取り込んだ新しいMATRIX世界がどのような運用に入るのか、機械側=アーキテクトにはまだ分からないが、少なくとも愛を知ったようである。物語最後に、亡命プログラムのサティは消去されずに美しい風景の変換をアーキテクトの前で披露して、物語は閉じる。
こう考えると、救世主属性を得た者=トリニティーを受け入れる=ネオは、愛という属性=使命を帯びながら、次バージョンのマトリックスのソースの保管と再起動属性を得るプログラムへと、データから昇格する物語ということなのだろうか。すると、前バージョンのネオはプログラムとしてコンバージョンで生きており、次の物語ではまた違う属性を与えられて再生するのか。そもそも、どの瞬間のソースを保管して再起動したのだろうか。
妄想は止まらないのである――。
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