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金継ぎ処 さわい 〜割れたものにも物語がある〜 第三話 【創作大賞2026お仕事小説部門応募作】

第三話 割れ目の中の海

 桜が散って、金沢は梅雨に入った。

 空はもう何日も灰色の蓋をしたままだ。
瓦から落ちる雨だれが軒先の用水に細い波紋を絶え間なく刻み、町じゅうの水の音が雨の音にまぎれてひとつになっている。

 律はこの季節が嫌いではなかった。漆にとって、梅雨は機嫌のいい時期だからだ。
湿った空気を吸って、漆はすんなりと身を固める。室のなかも外もしっとりと湿っていて冬のあいだ強情だった漆が、この時期はよく動きよく乾くのだ。

 工房のなかには、漆の匂いと雨の匂いが混じっていた。

 律が面相筆の先を預かりものの小鉢のひびに当てているあいだ、土間の隅では史緒がいつものように練習用の皿を研いでいる。
しゃり、しゃりという研ぎの音だけが雨の音に乗っていた。高校三年になった史緒は受験の年だというのに、相変わらず学校帰りにここへ寄っては参考書より先に砥石を握る。

 律はそのことを案じながらも、何も言わずにいた。割れたものから目を逸らさないこの子のことを、律はもう信じはじめていたからだ。

 その午後、格子戸が乱暴に開いた。

 雨を吸った風が土間に吹き込んだ。立っていたのは若い男だった。二十代の半ばか、後半か。
傘も差さずに来たのか、髪も肩もぐっしょりと濡れて、色のあせたジャンパーの裾から雨のしずくが落ちている。
その手にはコンビニのレジ袋がひとつ提げられていた。

 律はその袋を見て、内心小さく息を呑んだ。これまでこの工房を訪れた人は、みな割れたものを大事そうに抱えてきた。
新聞紙にくるみ、タオルに巻き、風呂敷に包んで。喜代さんもそうだった。割れたものを運ぶ手つきには、その器を惜しむ気持ちがそのまま出る。
それなのにこの男は、割れたものをコンビニの袋に無造作に提げていた。袋の底でかちゃ、と硬い音がした。

 「あの、ここ、割れたもん直すとこやろ」
 男はぶっきらぼうに言った。目を合わせない。
 「ええ。金継ぎの工房です」
 律が答えると男は土間に踏み込んできて、レジ袋を帳場のふちにどんと置いた。
 「これ、直りますか」
 律は袋を受け取り、なかを覗いて今度こそはっきりと息を止めた。

 割れた陶片がいくつも入っていた。

 律は座敷に布を広げ、その陶片をひとつずつ、指先でいたわるように並べていった。
袋のなかでぶつかり合って、欠けがさらに増えている。それでももとの形は見当がついた。

 徳利だ。それも九谷の徳利だった。

 肩の張った堂々とした形の胴に、鮮やかな絵付けがしてある。
九谷五彩——赤、黄、緑、紫、紺青。その五色が惜しげもなく使われ、とりわけ目を引くのは胴をぐるりと巡る青と緑の濃淡だった。

 海だ。

 徳利の腹に海が描かれていた。呉須の青で描かれた波が寄せては返す、大きなうねりをみせている。
その波頭には緑青がほんのわずか差してあって、海面が陽を弾く一瞬を写し取っていた。
波のあいだには白い余白があり、そこだけ絵付けをせず素地の白を残してある。砕けた波の白い泡だ。

 律は職人の目でそれを見た。

 まず、轆轤(ろくろ)の腕がただ事ではなかった。胴の張り、首のしまり。
肩から腰へ落ちる線——どこにも淀みがなく、土を知り尽くした手が迷いなく挽いた形だった。そして、絵付け。
この海は生半可な絵付師の仕事ではない。波の一筆一筆に五十年、筆を握ってきた者の呼吸がある。
轆轤の手と絵付けの手。律にはそれが別々の手のように思えた。ひとつの徳利にふたりの職人が宿っているのだ。

 その徳利が無残に割れていた。胴の海をまっぷたつに断つように、大きな割れ目が走っている。寄せようとした波が、途中で断ち切られていた。

 律はその断ち切られた波を長いあいだ見ていた。惜しい、と思った。職人として、ただ、惜しい。
これだけの海を挽き、これだけの海を描いた手がこの世にある。いや、あった。それを知りたい、と律は思った。誰がこの器にふたつの手を宿したのか。

 「直りますか」
 男がもう一度、今度は少し苛立ったように同じことを言った。
 律は陶片から目を上げた。
 「直ります。継げます。これだけ揃っていれば」

 律が割れ口を合わせてみせると、ぴたりと断面が吸いつき海の波がいったんつながった。
男の喉がかすかに動く。それを見ていることに気づくと、男はすぐに目を逸らした。
 「金で継ぐと線が残るんやろ。継いだとこに、金の線が」
 「ええ。それが金継ぎですから」
 「……消せんがか。割れたとこ、わからんように」

 律は男の顔を見た。その問いを律は前にも聞いたことがあった。喜代さんも、同じことを言ったのだ。
ひびを消してほしい、と。なかったことにしてほしい、と。
 「割れた跡は、消えません」
 律は静かに言った。

 「金継ぎは、傷を隠す技じゃないんです。割れた跡を金で照らして、景色に変える。傷ごとまた使えるように——」
 「景色とか、いらん」
 男が遮った。声が低くなる。
 「ただ、割れる前に戻してほしいだけや。それだけでええ」

 律は口をつぐんだ。戻せない、とは言わなかった。漆を急がせてはいけないように、人の心も急がせてはいけない。それは喜代さんが教えてくれたことだった。

 「お時間をいただけますか」
 律は言った。
 「割れ口が多いので、ふた月か、それ以上かかります。ていねいに継ぎます。
仕上げのことはできあがる前にまた相談しましょう。金にするか、別の仕上げにするか」

 男はしばらく黙っていたが、やがて内ポケットから無造作に財布を出した。
 「いくらや。先に払う」
 「……手付けだけいただきます。残りは、できてから」
 男は札を置くと、名前も告げずに背を向けようとする。

 「お名前を」
 律が呼び止めると、男は振り向かずに言った。
 「遼。中野遼」
 「中野さん。器のこと、少し聞かせてもらえますか。どんなふうに使っておられたものか。それがわかると繕い方も——」
 「使うとらん」

 遼は短く言った。
 「もう、誰も使うとらん。それだけや」
 格子戸がまた乱暴に閉まり、あとには雨の音だけが残った。

 史緒が研ぎの手を止めていた。
 「……変な人」
 ぽつりと言う。
 「割れたもの、あんなふうにコンビニの袋に入れて。大事じゃないみたいに」
 律は陶片を見つめたまま首を振った。

 「逆だと思う。大事じゃないものを、人はわざわざ直しに来ない。捨てればいいんだから。あの人は雨のなか、傘も差さずに直しに来た」
 律は割れた波の断面を、そっと指でなぞった。

 「大事すぎて、どう持っていいかわからないんだと思う。だから、いちばん雑な袋に入れた。雑に扱うふりをしないと、運べなかったんでしょう」
 史緒は陶片を覗き込んで、割れた海を見た。

 「……これすごい器ですね。素人のわたしでもわかる」
 「うん。素人じゃ作れない。轆轤も、絵付けも」
 律はもう一度、徳利の海を見た。ふたりの手が宿った、ひとつの器。
それが割れて、雑な袋で運ばれてきた。律の胸の奥が、なぜかざわついた。

 その晩、律はひとり工房に残って陶片を検めた。
 割れ口を一片ずつ薄い米のりで仮どめし、パズルのようにもとの形に組んでいく。
欠けて足りない小片もいくつかあったが、海の流れは追えた。組み上げていくうちに、徳利の底が見えてくる。高台の内側に、小さな銘が彫ってあった。

 《海凪》。

 窯印だろうか。あるいは作り手の号か。律はその二文字をしばらく見ていた。海が凪ぐ、と書いてかいなぎ。
荒れた波を描きながら、銘は凪。律にはそれがひとりの人間の願いのように思えた。

 翌朝、律は知り合いの古美術商に電話をかけた。九谷のことならその人がいちばん詳しい。

 「中野海凪? ああ、知っとるよ。絵付けの名人や。九谷の海いうたらあの人やった」
 受話器の向こうの声がそう言った。

 「やった、って」
 「去年、亡くなったわ。八十過ぎとったかな。最後まで筆持っとったらしいわ。息子さんが轆轤を挽いて、海凪さんが絵を付ける。
親子で組んで、ええ徳利を遺しとった。あれはちょっとないもんやよ」
 「息子さんは、いま何を」
 律が尋ねると、古美術商はため息まじりに言った。
 「それがなあ。海凪さんが亡くなってから、ぱったり轆轤をやめてもうたらしいわ。もったいない話や。
あの親父さんがいっとう買うとったのが、息子の轆轤やったのに」
 「お父さんが息子さんの轆轤を」
 「ああ。海凪さん、晩年によう言うとった。『わしの絵はもう古い。これからは倅の形の時代や』てな。口の悪い人やったけど、息子のことは、ほんまは——」
 古美術商はそこで言葉を濁した。

 「まあ、職人の親子いうのは面と向かっては言えんもんやからな。たがいに」
 律は受話器を握ったまま動けなかった。
 息子が轆轤を挽き、父が絵を付ける。ふたりの手が宿った、ひとつの器。
あの男——中野遼は、海凪の息子だった。そしてこの徳利の、この海を抱く形を挽いた本人だったのだ。

 そして律はもうひとつのことを知ってしまった。海凪は息子の形を誰よりも認めていた。けれど、それを本人にはきっと言えなかった。
遼は知らないのだ。父が自分の轆轤をどれほど信じていたかを。

 言えなかったひとこと。それは、律と祖母のあいだにも横たわっているものだった。

 それから遼は、ぽつり、ぽつりと工房に顔を出すようになった。
 催促ではない。様子を見に来るのとも少し違う。
来ても座敷には上がらず、土間に立ったまま律の手元を遠くから眺めて、何も言わずに帰っていく。
それを律は、史緒のときと同じように黙って許していた。はじめのうち、遼は戸口に五分といなかった。
手元をちらと見て、すぐに帰る。けれど雨の日が続くにつれてその五分が十分になり、半刻になった。

 律は気づかないふりをして、手を動かし続けた。見られていることはわかっていた。
職人の視線はただの客の視線とは違う。遼の目は律の指の運びを、刷毛の角度を、漆の置きかたを追っていた。土を知る者の目で。

 あるとき史緒が湯呑みに茶を淹れて、土間の遼にそっと差し出した。
 「あの……よかったら」
 遼は一瞬戸惑った顔をしたが、ぼそりと「……どうも」と受け取り、立ったままひと口飲んだ。

 「あんた、ここの弟子?」
 「いえ。まだ弟子じゃないんです。勝手に通ってるだけで」
 史緒が少し恥ずかしそうに言うと、遼は「ふうん」とだけ言ってまた黙った。けれど茶は最後まで飲んだ。
空の湯呑みを史緒に返すとき、その目元がほんの少しだけやわらいだ。律はその一瞬を、手元の作業のあいだから見ていた。

 律は徳利を継いでいた。
 割れ口の断面に麦漆を薄く塗る。漆と小麦粉を練り合わせた天然の接着剤だ。
一片を合わせ、また一片と海の波を少しずつつなぎ直していく。継いでは室で乾かし、はみ出た漆を研ぎ落とす。陶片の数だけ継ぎ目がある、気の遠くなるような作業だった。

 九谷の徳利は磁器だ。陶器よりも硬く、断面が鋭い。割れ口はガラスのように切り立っていて、合わせるときに少しでもずれれば海の波がつながらない。
律は一片を合わせるたび明かりに透かして、波の線が継がっているかを確かめた。
寄せる波と返す波。その境の一本がほんのわずかでも食い違えば、海は嘘になってしまう。律は息を詰めて陶片を置いた。
割れる前に海凪と遼が見ていたであろう、その波の流れを思い描きながら。直すというのは、ただ接ぐことではない。
その器を作った人の目をもう一度借りることなのだ。

 ある雨の午後。遼は土間に立って、いつもより長くその手元を見ていた。
 「なあ」
 はじめて遼のほうから口をきいた。
 「あんた、自分の器は作らんがか」
 律の手が止まった。
 「……どうして」
 「腕、ええやろ。見とったらわかる。それだけの手があって、なんで人の割れたもんばっか直しとるんや。自分で作りゃええのに」

 律はすぐには答えなかった。答えられなかった、と言うほうが近い。
 「わたしは……もう、作らないと決めたんです。人の壊れたものを直すだけ」
 「なんで」
 「……いろいろあって」
 言葉が、続かなかった。

 遼はふん、と鼻で笑った。けれどそれは律を嗤う笑いではなかった。もっと別の、自分自身に向けた苦い笑いだった。
 「おれといっしょやな」
 遼はぽつりと言い、律は顔を上げた。

 「おれも、もう作らん」
 遼は土間の濡れた地面を見ながら堰を切ったようにではなく、一語ずつ重い石を置くように話しはじめた。

 「親父が九谷の絵付けやった。中野海凪。知らんやろうけど、その世界じゃ名の知れた人や。
おれはその息子で、物心ついたときから土ばっか触っとった。轆轤だけは人より早う挽けるようになってな」
 「拝見しました。徳利の轆轤。みごとな仕事です」
 「……あれはおれが二十二のとき挽いたんや」
 遼の声がわずかに掠れた。

 「親父が、はじめておれの轆轤に絵を付けてくれた。それまでおれの形なんか、ひとつも認めんかった人が。
『この胴なら海が描ける』いうて。あの海を付けてくれた」

 律は徳利の海を見た。寄せて返す、青い波を。

 「親父の海はようけ見てきた。何百と。けど、おれの徳利に描いたあの海がいちばんやった。おれはそう思うとる。親父もたぶん」

 遼はふと口元をゆるめた。泣き笑いのような顔だった。
 「親父はほめん人やった。おれの轆轤に一度も『ええ』て言わんかった。ただ……この徳利の海を描いたとき、ひとことだけ『この胴、軽いな』て。
それだけや。軽いいうのは、貶しとるんやない。土が薄う均一に挽けとる、いうことや。
職人の、いちばんのほめ言葉やった。おれ、それ聞いて便所で泣いたわ。二十二で、いい大人が」
 遼が言葉を切ると、雨の音がその間を埋めた。

 「去年、親父が逝った。筆持ったまま、ぽっくりや。……葬式の晩、おれ、この徳利を出してひとりで飲んだんや。親父の海で、酒飲んで。ほしたら——酔うて、棚にぶつけて」
 律は息を止めた。

 「割ってもうた。おれが。よりによって、おれが」
 遼の手が、ぎゅっと握られた。
 「親父の海を。この世にひとつしかない、おれと親父の徳利を。おれが、割った」

 工房のなかがしんとした。史緒も研ぎの手を止めている。
 律は、その痛みを痛いほど知っていた。大事な人と組んだ、ひとつのもの。
それを自分の手で損なってしまった痛み。律にとってのそれは祖母との時間だった。
育ててくれた人に、漆を教えてくれた人に、最後にひどい言葉を投げつけて背を向けた——あの徳利を割った遼の手と、あの夜の自分の口は同じ場所から血を流している。
 「だから直したいんですね。割れる前に戻したい。なかったことに——」

 律が静かに言いかけると、遼が遮った。
 「ちがう。……戻したいんやない。戻せんことくらい、おれかてわかっとる」
 遼は継ぎかけの徳利の海を見た。

 「直したって、もうあの海は二度と描けんがや。親父はおらん。おれの徳利に、もう誰も絵を付けてくれん。
直したって、それは親父のおらん徳利や。割れる前とはちがう」

 遼の声が震えた。
 「それに、金の線が残るんやろ。おれがあれを割ったいう跡が、金でぴかぴか光って残るんやろ。
そんなもん、毎日見られるか。おれが親父の海を割ったて、毎日突きつけられて」
 遼は握った拳を——土を挽いていた、その手を見た。

 「親父が死んでからおれ、轆轤を回しとらん。一度も。いまは川北の倉庫で荷物の仕分けや。土なんか触らん。
轆轤なんか、見とうもない。親父がおるあいだは、いつか中野の窯を継ぐもんやと思うとった。
親父の海を、おれが受け継ぐんやと。……ほやけど、いざ親父がおらんようになったら怖うてたまらん。おれの形に、もう誰も絵を付けてくれん。
おれひとりで、何を作れいうんや」
 遼は顔を上げた。その目が赤かった。

 「やっぱりええわ。直さんでええ。手付けはくれてやる」
 「中野さん」
 「捨ててくれ。そんなもん」
 遼は背を向けた。
 「待って——」
 律が腰を浮かせたときには、もう格子戸が開いていた。雨の中へ遼は出ていった。傘も差さずに、来たときと同じように。
 あとには、継ぎかけの徳利だけが座敷に残された。

 律は追わなかった。追っても、いまの遼には届かないと知っていたからだ。
漆を急がせれば、必ず裏切る。人の心も同じだ。遼のなかの漆は、まだ固まる時期に来ていない。
 けれど、捨てることもできなかった。

 「先生」
 史緒が、不安そうに言った。
 「あの人、もう来ないんでしょうか」
 「……わからない」
 「捨てちゃうんですか。この徳利」
 律は半分つながり、半分はまだ割れたままの海を見た。
 「捨てない。あの人が捨ててくれと言っても、わたしは捨てない」
 「でも、もう来ないかも」
 「来るかもしれない」
 律は陶片をそっと布で包んだ。
 「それに——来ても来なくても、これは捨てちゃいけないものなの」

 史緒は継ぎかけの徳利をじっと見つめて、ぽつりと言った。
 「あの人、わたしと似てます。わたしもお母さんのお茶碗を割ったとき、怖くてしばらく欠片も見られなかった。
なかったことにしたかった。……でも先生が繕ってくれた。だからいまは毎日、使えてる」
 史緒は顔を上げた。
 「だからあの人も。きっと、いつか」

 半年前、母の茶碗の欠片を抱えて泣いていた少女が、いま人の痛みをまっすぐに見ている。
 「うん。きっといつか」
 律はうなずきながら文机の隅に目をやった。半分だけ黒く塗られた、底に「りつ」と彫られた祖母の塗りかけの碗。
律が帰るのを待ちながら、手の利かなくなった指で祖母が最期まで塗り続けた碗だ。あの碗を律は十年、捨てられずにいる。
塗りあげることもできず、けれど捨てることもできず、ただそばに置いてきた。いつか向き合える日のために。

 祖母は待っていたのだ。律が帰ってくるのを。碗を渡せる日を待ちながら、逝った。

 ——わたしも、待てばいい。
 遼があの徳利と向き合える日まで。割れた海を見られるようになる日まで。それまで、わたしが預かっておけばいい。
直して、いちばん美しい形にして、いつでも渡せるように。祖母がこの碗で、そうしてくれたように。

 ふいに律は思い出した。あの夜、工房を飛び出した律を祖母は追ってこなかった。
ただ、玄関の灯りを朝までつけていたという。あとから伯母に聞いた話だ。
律がいつ戻ってもいいように。けれど律は戻らなかった。十年、その灯りに背を向け続けた。

 雨のなかへ消えた遼の背中に、律は若い日の自分を見ていた。追っても届かない。
けれど、灯りだけはつけておける。棚の徳利がその灯りなのだと、律は思った。

 律はその夜から徳利を継ぎ直した。
 遼に頼まれたからではない。むしろ遼は捨ててくれと言った。それでも律は継いだ。

 割れ口に麦漆を入れ、一片ずつ合わせて、断たれた波をつなぐ。継いではまた継ぎ、室で乾かし、研ぐ。
欠けて足りない小片のところは、漆と砥の粉を練った錆漆を盛り、乾かし、研いで、器の表面と一続きになるまで何度も繰り返した。
継ぎ目の段差が、指でなぞってまったく感じられなくなるまで研ぐ。見えなくなる部分こそ、いちばんていねいに。

下地がすべてを決める——それは祖母の口癖だった。

 多片を継いだ徳利は、継ぎ目が網の目のように走っていた。一本の割れではなく、砕けたものをつなぎ合わせたのだ。
律はその一本一本を弁柄漆でなぞり、固め、研いだ。割れた数だけ手間がある。割れた数だけ、その器が生きてきた証がある。

 史緒はその作業を土間の隅から毎日見ていた。
 「先生。なんで頼まれてもないのに、そんなにていねいに」
 あるとき、研ぎの手を止めて史緒が訊いた。
 「頼まれたから直すんじゃないの」
 律は手を止めずに答えた。
 「この器が、直してくれと言ってるから直すの」
 「器が?」
 「割れたものはね、みんなもう一度使われたがってる。棚で割れたまま眠るより、誰かの手にまた握られたがってる。……この海もそう。もう一度、誰かの酒を注がれたがってるの」
 史緒はしばらく黙ってその徳利を見ていた。

 梅雨の雨は降り続いた。そして遼は来なかった。一週間が過ぎ、二週間が過ぎる。
土間の隅で史緒が研ぎの手を止めて格子戸のほうを見ることが増えたけれど、戸は開かなかった。雨の音だけが毎日、工房を満たしていた。

 梅雨のさなか、喜代さんが約束どおり訪ねてきた。あの夫婦湯呑みの、ご主人のほうを風呂敷に包んで。
 「お茶を、いれてもらおうと思って」
 喜代さんは前よりもずっと穏やかな顔をしていた。律はその金継ぎの湯呑みに——ご主人が『この茶、うまいな』と言った、あの湯呑みに茶を淹れた。

 喜代さんは棚の継ぎかけの徳利に目を留めた。
 「あら……きれいな器。海が描いてある」
 「ええ。預かりもので。……持ち主は、もう要らないと言って置いていったきりなんです」
 律が言うと喜代さんは茶をひと口飲んで、静かに言った。
 「待ってあげるんですね、先生も」
 律は、顔を上げた。
 「わたしもひと冬、待ってもらいましたものね。先生に」
 喜代さんは微笑んだ。
 「待ついうのはつらいことやけど。誰かが待っとってくれるいうのは——きっと、思うてるよりありがたいことなんですよ。本人が気づかんだけで」
 律はその言葉を胸にしまった。祖母も待っていた。十年、律を。律はそれに気づきもしなかった。

 律は焦らなかった。漆を急がせてはいけない。心も同じだ。律は黙々と徳利を繕い、割れた海をつなぎ続けた。

 仕上げの日が来た。
 律は徳利の継ぎ目に薄く漆を引き、半乾きを待った。漆が「呼ぶ」、その一瞬を指の背で確かめる。絹を撫でるような、かすかな抵抗。そして金粉を蒔いた。
継ぎ目の赤い線が金色に変わっていく。割れた海をまっぷたつに断っていた、あの線が。数日おいて粉を固め、余分を払い、真綿と鯛の牙でそっと磨いた。

 徳利がよみがえった。

 律はそれを明かりにかざした。九谷の海がそこにあった。青い波、緑の波頭、白い泡。
そして、その海を横切るように一本の金の線が走っている。割れた跡が金色の筋になって、波のあいだを縫っていた。

 不思議だった。金の線は海を断ってはいなかった。むしろその線は、新しい潮目のように見えた。
沖の遠くで海の色が変わる、あの境目。あるいは波間に差す、一条の光。割れた跡が、海のなかにもうひとつの流れを生んでいたのだ。

 海凪が描いた波と律が継いだ金の線。そこにもまた、ふたりの手が宿っていた。いや——遼の轆轤、海凪の絵付け、そして律の金。
割れる前はふたりの手の器だったものが、いまは三人の手の宿る器になっていた。

 律はふと気づいた。この徳利を継ぐあいだ、自分はただ直していたのではなかった、と。
欠けて足りない小片を錆漆で補ったとき、失われた波のひとかけらを漆で形づくったとき、律は海凪の海をほんの少しだけ自分の手で「描いて」いた。
なくなった波を想像で補い、つくっていたのだ。それは十年ぶりに律が何かを「作った」瞬間だった。

 直すことと、作ること。律はずっと、そのふたつを別のものだと思ってきた。作ることは捨てた、直すことだけする、と。
けれど、欠けたものを補うとき、人はつくっている。失われたものを想像で。ならば自分はもう、とっくに作りはじめていたのかもしれない。人の器の、欠けたところで。気づかないうちに。

 律はその徳利を、文机の上のいちばん目につく棚に置いた。遼がいつ来ても、最初に目に入る場所に。

 「……きれい」
 史緒が、徳利を見てつぶやいた。
 「割れたのに。割れる前よりもきれいになってる」
 「うん」
 「でも、これでよかったんでしょうか」
 史緒が不安そうに律を見た。
 「あの人、直さなくていいって言ったのに。来ても怒るかもしれない。なんで勝手に直したんやって」
 「怒るかもしれないね」
 律は徳利を見たまま言った。
 「それでもいいの。怒るために来てくれれば。来てくれさえすれば、この海をもう一度見られる。割れたまま捨てるより、ずっといい」
 律は史緒の横顔を見た。

 「史緒さん。人はね、割れたものをすぐには見られないの。怖いから。自分が割ったものなら、なおさら。
あの人はいまは見られない。でも、いつか見られる日が来る。そのときに見るものがなかったら——その人は、二度と向き合えなくなる」
 律はそっと徳利の金の線をなぞった。

 「だから、わたしが預かっておく。あの人が見られる日まで、いちばん美しい形にして待っておく」
 言いながら律は気づいていた。これは遼のことだけを言っているのではない、と。
塗りかけの碗を最期まで塗りながら、律が帰る日を待っていてくれた祖母の気持ち。あのときの祖母の思いが、いまようやくわかりかけていた。

 その夜、律はひとり工房に残った。継ぎ終えた徳利が棚で淡く光っている。雨はまだ降っていた。

 律は文机の隅の、祖母の碗に目をやった。半分だけ黒い、塗りかけの碗。いつもなら目を伏せて通り過ぎるところを、その晩は両手で取り上げてじっと見た。

 遼に言った言葉が、自分の胸に返ってくる。——わたしが預かっておく。見られる日まで、いちばん美しい形にして待っておく。祖母はそれをしてくれた。十年も。なら、わたしもいつか。

 律はためしに漆刷毛を手に取り、塗り残された半分に近づけてみた。

 手が止まった。心臓が、ひとつ鳴った。

 ——まだ、だ。まだ、塗れない。
 けれど律は、筆をすぐには置かなかった。前は触れただけで逃げるように手を離した。
今度は少しだけ長く、塗り残された半分の白い木地を見つめながら握っていた。遼がいつか、あの徳利の海を見られるように。
わたしもいつか、この碗を塗りあげられる。その日はまだ来ない。けれど——遠ざかってはいなかった。
決意の薄い陶器に走った、あの細いひびが、また少し底のほうへ伸びた気がした。喜代さんのひびのように。内側から、静かに。
 律は筆を置いた。今度は震えていなかった。

 梅雨はまだ明けなかった。遼も来なかった。
 けれど律は毎朝、棚の徳利を磨いた。埃ひとつつかないように。九谷の海をいつでも渡せるように。

 待つことは漆が教えてくれた。急がせれば裏切る。けれど、待てば必ず固まる。表面だけでなく、いちばん奥まで。
だから律は待つことにした。遼が割れた海を見られる日を。自分が塗りかけの碗を仕上げられる日を。そのふたつは、なぜか律のなかでひとつの日のように思えた。

 雨の向こうで用水がいつもより勢いよく流れていた。割れたものをつなぐ水の音。

 律はもう一度、棚の徳利を見た。金の線が、海のなかで静かに光っている。割れ目の中に海があった。その海はもう、断たれてはいなかった。

   (第三話 了)


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