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文化の飢えは文化でしか満たされない

・4月に長野市へ引っ越してきてから、もう1ヶ月半が経った。新天地のシュミレーションを何回も繰り返していた昨年の今頃が懐かしい。

・あの店に行こう。あの人と会おう。そういった予定という予定は、コロナ禍のせいで綺麗さっぱり吹き飛ばされた。無惨というか、一周回って清々しいというか。しかし、しょうがないものはしょうがない。

・元々あった色々な「飢え」は、生き残るために加工せざるを得なくなった。抑えたり、形を変えたり、逸らしたり。具体的に言えば、温泉に行くのを我慢したり、食事はテイクアウトにしたり、インターネットに意識を逃がしたり。とにかく、ありとあらゆる工夫で現実に対応しようとしてきたのがココ1ヶ月半だ。

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・ようやく最近、緊急事態宣言が解除されて行きたかった店の一つ「シンカイ」に行くことが出来た。そこで店主の方と世間話をし、グッズを買って、三密を避けながら善光寺門前を散策した。その結果として分かったことがある。

・やっぱり、文化の飢えは文化でしか満たされない。「お腹が減った」なら、ラーメンでもハンバーグでも満たされるけど、文化は違う。文化は、その文化でしか満たされないからこそ文化なのだ、と思った。

・例えば、「祭」。その地域で育まれてきた「祭」の文化は、その地域で行われてきた「祭」でしか参加者を満たすことができない文化だと思う。阿波踊りを北海道で始めても、ねぶた祭りを関西人が仕切っても、本来は満たされていたはずのどこかに満たされない部分が生まれるはずだ。そういうことが各地で起きている。

・この違和感は、すごく繊細な違和感でしかない。だから、文化が失われていく時に「意外と無くても成立するじゃん」という合理性の思考回路に引っ張られてしまうこともある。コロナ禍の現状からポジティブな面を捉えて活かすのはアリだけど、失われていく文化に対して鈍感になるのはアリなのか?と問いかけてみたい。

・2020年を境に、世界各地で失われつつある文化に思いを馳せている。日本だけじゃない。ハグとかシェイクハンドみたいな大きな文化だって、もしかしたらソーシャルディスタンスや衛生上の名目で衰退してしまう可能性が無いわけじゃない。

・代わりに新たな文化が生まれても、従来の文化に包まれて育ってきた私たちの中には確実に「満たされない何か」が蓄積していくはずだ。新しく赤ん坊として生まれてこない限り、新しい文化に対して身体の芯から馴染むことは控えめに言っても難しい。いつかどこかで心の皺寄せが訪れる。

・文化でしか満たされない心がある。文化でしか満たされない身体性もある。文化の地殻変動が起きている今、考えるべきこと。私たちが今どんな文化に飢えているのか。私たちはどんな文化で生きてきたのか。それを各人が何となく感じているだけで留めずに、語り継げるよう言語化しておく必要がある。それが出来るのは、今を生きる私たちだけなのだ。

付録

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長野県内最大のアーケード「権堂商店街」。

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中にはコロナの影響で長年続いた営業の幕を下ろした店舗もあります。

こういった商店街の一角だけの問題ではないけれど、この一事は万事を表していると思います。長年に渡って続いてきた店舗やサービスといった「文化」も、恐ろしいくらいに一瞬で失くなってしまうという事実。

そんな状況を目の当たりにして、何かしら形として現状を留めておきたいと思い、筆を執りました。

現場からは以上です。


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山吹📒言葉と企画と信州と 記事を最後まで読んで頂き、ありがとうございます! いただいたサポートは全て創作のために使わせて頂きます。

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