汗から想像してみる
夫は、無汗症という病気を持っている。
「汗が出ない病気なんです。」
他人にそう説明すると、「大変だね」と同情の言葉をくれる。その時、彼らの目の奥を見て、私は目を伏せる。
彼らの目の奥には、「汗ぐらいで」という言葉がしっかり見える。
無理もない。
制汗剤がドラッグストアの一部を占めているように、汗は一般的には臭くて、不快。つまりは「要らないもの」。出なくていいじゃん、としか思わないのも分かる。
かくいう私も、最初はそうだった。
ことの重大さに気づいたのは、熱が籠って立ち上がれなくなった夫を見た時だった。
日差しが少しキツい5月のある日、二人で散歩していたときのこと。隣を歩く夫の返事が徐々に遅くなり、やがて返事をしなくなった。大丈夫?と夫の肌を触れると、真夏の砂浜のようだった。
近くのベンチに座って、顔を覗き込むと、彼の目の焦点は合っていない。彼は、息も切れ切れに言った。
「ごめん。あかんわ。」
爽やかな5月の風を受けながら、このとき汗かきの私は、違う汗が出ていた。
汗が出ないということは、身体を冷やす機能の大きな要をひとつ失うこと。
つまり、ちょっとした気温の変化や運動で、割と簡単に熱中症に陥るということだ。
彼が患っている無汗症は、原因がはっきりしない後天性のものだ。その病名は、難病指定されている。
患者数が少なくても、治療法が見つかっていなくても、取りこぼされないようにと、社会と医療がつけた印だ。だが、残念ながら印だけでは万能にはならない。
猛暑を超えた酷暑と呼ばれる、今年の夏空の下で、私は汗を流しながら、ある日の夫の言葉を思い出す。
クーラーの効いたリビングのテレビには、災害のニュースが流れている。
避難所でインタビューを受けている被災者の様子を見ながら、彼はぽつりと呟いた。
「俺は、この時期に被災したら無理やろな。」
猛暑の避難所を見て、自分の死を覚悟する人が、今、私の隣にいる。そして、きっとそういう人は、少なくない気もする。
だから私は、哀れみや同情の先にある、自分が経験していないものを知ろうとする力と想像する力が欲しい。
私は、汗をきっかけに想像し続ける。
「私の知らない苦しみ」を抱えた、まだ見えない誰か、それから、ほんのちょっと先の世の中について。

