「『を』は昔“wo”と発音していた」は本当か?──仮名・発音・ローマ字の知られざる歴史
「助詞の『を』って、昔は“ウォ”と発音していたのですか?」
日本語に少し興味を持ち始めた方なら、一度は耳にしたことがある話かもしれません。現在、私たちは「りんごを」を「お」と発音し、「を」は事実上「お」と同じ音として扱っています。しかし、ひらがな・カタカナ・ローマ字という三重構造の中で、この「を」だけが、不思議な“ズレ”を抱えたまま現代まで残っています。
結論から申し上げると、「を」は確かに長い歴史の中で“wo”と発音されていた時代が実在します。
しかもそれは単なる俗説ではなく、文献資料、仮名遣い、さらには外国人の記録など、複数の証拠によって裏付けられています。
本稿では、「を=wo」説の根拠、発音が変化した理由、そしてなぜ“表記だけが取り残されたのか”という、日本語史の中でも特に興味深いテーマを整理していきます。
1. 「お」と「を」は、もともと別の音だった
まず、現代日本語の感覚を一度リセットしてみてください。
私たちは「お」と「を」を同じ音の仲間のように感じていますが、古代日本語ではこの二つは明確に別の音でした。
歴史音韻学の研究によりますと、奈良時代以前の日本語には、現在よりも母音の種類が多く存在し、
お(/o/)
を(/wo/ あるいは /ɔ/ に近い音)
のように、子音 w を伴う独立した音としての「を」が存在していたと考えられています。現代の感覚でいえば、「わ・を・う・え・お」が一つの系列として、連続的に発音されていたイメージに近いといえるでしょう。
万葉仮名では、「を」を表すために
「遠」「乎」「袁」など、/wo/ 系の音価を持つ漢字が使われていました。これは、「を」が単なる助詞ではなく、発音としても実体を持つ音だったことを示す重要な証拠です。
2. 平安~室町期に進行した「音の融合」
では、なぜ私たちは「を」を現在“o”と発音するようになったのでしょうか。
そこには、日本語が長期的にたどってきた「音の簡略化」の流れが関係しています。
平安時代から室町時代にかけて、日本語では次のような変化が段階的に進行しました。
「ゐ(wi)」→「い」
「ゑ(we)」→「え」
「を(wo)」→「お」
つまり、「w」を伴う音が次々と脱落していったのです。
これは発音器官の省力化、会話速度の上昇、方言間の均質化など、複数の要因が重なった結果だと考えられています。
この流れの中で、「を」も次第に「お」と区別されなくなり、発音上は完全に同一化していきました。
しかし重要なのは、
発音は消えましたが、文字としての「を」は消えなかった
という点です。
3. なぜ「を」だけが助詞として生き残ったのか?
もし音だけを基準にすれば、「を」はいずれ「お」に吸収され、仮名としても消滅しておかしくありませんでした。しかし実際には、「を」は助詞専用の仮名として現在まで生き残りました。これは日本語史の中でも極めて珍しい現象です。
その理由の一つは、文法上の役割が非常に明確に固定されたことにあります。
「お」=語の音として、語中・語頭・語尾のどこにでも出現する
「を」=目的語を示す助詞として、ほぼ専用化される
この役割分担が完全に定着したことで、音は同じでも意味が決定的に異なる文字として、「を」は独自の生存戦略を確立したのです。
これは、同じ発音でも異なる役割を与えることで文字を保存する、日本語特有の“文法優先型の書記体系”の特徴をよく表しています。
4. ローマ字教育が決定打となった「wo」という表記
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