『八百万の神々の正体――神道は自己錬磨の世界だった』
日本の宗教は何かと問われれば、「神道」と答えるほかないでしょう。
しかし、一般論としての「神道」は、「日本で古くから続いてきた、多神教的な自然・祖先崇拝の信仰であり、特定の教祖や経典を持たないもの」と説明されることが多いようです。
けれども、私はこの説明だけでは、神道の本質を十分に捉えているとは言えないと思っています。
ここから先は、一般的な神道論には当てはまらない、神霊との交流を通じて得た私独自の考えです。
私が伝えられた世界観では、神霊の世界(天上界)には一種の序列があります。
まず最下層に位置するのが、「幽界」と呼ばれる世界です。ここは天上界における監獄のような場所とされています。「幽閉」の語源と考えられます。その上には、普通の霊体たちが住む広大な一般霊界が広がっています。そして、一般霊界の上にある世界が、神道という名称の由来にもなった「神界(しんかい)」です。
神界とは、いわゆる「八百万(やおろず)の神々」が集う世界です。
では、その神々とは何者なのでしょうか。
私が伝えられたところでは、その正体は「達人たち」です。
現世でも、その道を極めた人物に対して「神のような人だ」と表現することがあります。それと同じ意味で考えると分かりやすいでしょう。
つまり、
神界とは「自己錬磨の世界」なのです。
神道が自己錬磨から始まる世界だとすれば、そこには必ずしも教祖や経典を必要としません。
そして、神社にある「鳥居」も、一般的な意味での単なる「門」ではありません。神域と人間の生活空間を区切る、いわば結界として存在していると考えられます。

一般人と達人を隔てる物理的な敷居が存在しなくても、両者の間には「近寄りがたい」と感じさせるような、目に見えない壁が存在することがあります。
これを私は「結界」と捉えています。
神界は神道の中核を担う世界です。
そして、私が伝えられた世界観では、神道そのものは神界で完結しています。
神道にあるのは、まず「自己を磨く」ということです。
そう考えると、「それが宗教なのか」と疑問を持つ人がいるのも当然でしょう。
しかし、神道の奥深さは、そこで終わらないところにあります。
神道の上には、さらに仏教の世界が広がっているからです。
「神仏習合」という言葉がありますが、そもそもは、始めからそのような構成になっているのです。
神界の上には菩薩界があり、そのさらに上には如来界が広がっています。
ここで興味深いのは、現世では「菩薩界」についてはある程度の定義が伝えられているものの、「如来界」については、その詳細がほとんど伝えられていないことです。
なぜ伝えられていないのか、その理由は私には分かりません。
もしかすると、あまりにも高尚な世界であるため、凡人には理解することが難しいと考えられているのかもしれません。
私が伝えられたところでは、菩薩界の定義は「般若波羅蜜多(パニャパラ三タ)」、すなわち「完全なる智慧」です。
一方、如来界については、「アラハン(阿羅漢)――煩悩を断ち、悟りを完成させた境地」という説明があります。
ただし、その詳しい内容や、そこに至るための具体的な要件については、私にはまだ分かっていません。
このように考えていくと、神道は単なる「古代から続く日本の民間信仰」という一言では説明できない、非常に奥深い世界として見えてきます。
少なくとも私にとって神道とは、まず自己を磨き、その先に達人たちの神界があり、さらにその上に菩薩界、如来界へと続いていく、壮大な精神世界なのです。
ちなみに、神霊世界では宗教は仏教とキリスト教しか認められていません。
神霊が認めている最古の宗教はイエス・キリストも奉じていたユダヤ教ですが、この宗教は秘儀書『ヨハネの黙示録』において、「切り倒されるべき古い巨木」と定められています。
新約聖書のギリシャ語には、洗礼者ヨハネの言葉として、「斧はすでに木の根元に置かれている」という表現があります(マタイ3:10、ルカ3:9)。そして、切り倒された巨木から生まれた新芽がキリスト教なのです。

キリスト教と言えば十字架ですが、それは単なる苦しみの記号ではなく、「人の罪を背負ったこと、神との和解の道を開いたこと、復活へつながる出来事」として受け止められています。

相変わらずの良く分からないキリスト教会による独自解釈ですが、「新芽=キリスト教」である限りは、「復活=輪廻転生」を示唆していると考えるのが自然ではないでしょうか。

