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クリームシチューにはなれない

クリームシチュー、作ったことある?
じゃがいも。
にんじん。
玉ねぎ。
豚肉。
鍋に入れて、ぐつぐつ煮込む。
最後に、クリームシチューのルーを入れる。

たった、それだけのことなのに。

最後に、クリームシチューのルーを入れる、ほんとにそれだけのことなのに。

カレーのルーに変更するわけでもない。

誰の食卓にも似合わない、「謎の鍋」にしてしまうのが、私という人間なんだよ、な。

たとえ、クリームシチューを作れたとしても、
私は、ごはんにかけて食べる。
食べ方まで、少数派。
そんな人、クラスに一人は居たでしょ?

私は、クリームシチューになれなかった、というより。
クリームシチューでいることに耐えられなかったのかもしれない。

だって、コマーシャルみたいな、家族の食卓ってなんだよ。
そう思って生きてきたから。
私の食卓は、子どものころから一人だったから。

それでも。
クリームシチューって、とても「正解」なんだって知ってる。
甘くて。
あたたかくて。
やさしくて。

家族の食卓に似合う。
子どもにも好かれる。
「嫌い」と言われにくい。
昨日とだいたい同じ味になる。

その「だいたい同じ味」が、何年かあとには、
「うちの味」
とか、
「懐かしい味」
と呼ばれるようになる。

変わらないからこそ、与えられる安心がある。
テンプレって、悪いことばかりじゃない。
私は、そのことをちゃんとわかっているんだ。

だからこそ、羨ましいなって。
「この人といると、なんだかあったかいな」
そう思われる人。
クリームシチューみたいな人になりたかったな、って馬鹿みたいに思うんだ。

クリームシチューも、具材がほぼ同じカレーも。
どちらも、ちゃんと食卓に居場所がある。
でも私は、どちらにもなれなかった、な。

だったら。
どこの国にもなくて、どこの家にもない。
誰にも真似できない、オリジナルのレシピを作ればよかった、のかな。

「私は私です」
と、堂々と言える何かになればよかった、のかも。

でも、私は、クリームシチューにはなれない。
カレーにもなれない。
そして、胸を張って誰かに差し出せるような、オリジナルレシピにもなれない。

じゃあ、私は何なのだろう。
やさしい人になろうとしても、やさしいふりで終わった。
尖った人になろうとしても、迎合する自分を捨てられなかった。

自分らしくいようと思うほど、
「自分らしさって、なんだっけ」
と、わからなくなった。

そして、残ったのは、名前のつかない鍋ひとつ。

誰かの記憶に残るわけでもない。
もう一度、同じものを作ろうとしても作れない。
そんな再現不能なことばを、私は何度も鍋の中へ放り込む。
それが、私の精いっぱい。

もし。
何かの間違いで。
私が、クリームシチューになれるなら。
誰かをあたためたい。
誰かのお腹を満たしたい。

でも、その誰かの顔が、まだ見えないんだよ、な。

「あなたは、何ですか?」
なんて、聞かれたら、
「……なんだろうね」と答えるしかない。

そんな、クリームシチューになれなかった私。

「ちょっと、もう、無理」

そんな本音の弱音を、ひとつまみ、「謎の鍋」に隠し入れる。

だから、せめて。
ことばだけは、誰かのために作ったことにしておきたいんだ。



瀬戸細胞さんのエッセイが、好きだ。

くだらなくて笑ってしまうのに、どこか切なくて。
人を今日の向こう側まで連れて行ってくれるようなことばたち。
瀬戸細胞さんの文章を、私は勝手に三回も読んでいる。

だから、瀬戸細胞さんが、
「クリームシチュー」から始まるという言葉だけを残して、バトンを静かに床へ置いたとき。
少しだけ、拾いたくなった。
誰にも渡さず、そこで終えるという……カッコいい終わり方をされたというのに。

そう!
瀬戸細胞さんが置いたバトンを、勝手に拾って、勝手にエッセイを書くという暴挙に出る……それが瀬戸細胞さんファンの私!

瀬戸細胞さんも、主催されたマイキーさんも、
「……」
絶句する……

エッセイしりとり最終日に、滑り込みます!

瀬戸細胞さん、マイキーさん!
『ごめんなさい』!


エッセイを書くきっかけを頂戴し、ありがとうございました。

#エッセイしりとり