「私なんて」をやめたいあなたへ。歪んだ思考から抜け出す、たったひとつの視点
気づけば、また“自分責め”していた
「楽しかったよ、またね」と言われただけなのに、「あれ、私また何かやらかしたかな…?」って不安になる。
誰かの何気ない言葉や表情を、つい深読みしてしまう。
「嫌われたかも」「普通じゃないのかも」「どうせ私なんて」――
そんな風に自分を責めるクセがついてると、毎日が小さな自己否定の連続で、じわじわと心がすり減っていく。
でも、これって決して特別なことじゃないんですよね。
むしろ、人とつながっていたいと思う心が強い人ほど、陥りやすいものなのかもしれません。
あのとき、世界がひとりぼっちに見えた
思い返すと、学生の頃の私はまさにその連続だった気がします。
誰かに軽くあしらわれただけで、「もう終わりだ」みたいな感覚になっていた。
帰り道、コンビニの明かりすら無性にまぶしく感じて、「私って、ほんとに生きてる意味あるのかな」なんて考えてしまうこともあって。
それでも次の日は、何事もなかったように笑っていた。
「平気なふり」をするのが上手になればなるほど、誰にも気づかれないまま、心の中は迷路みたいになっていった。
振り返ると、あれは自分を守るためだったんですよね。
誰かに嫌われないように、ちゃんとしなきゃってずっと頑張ってた。
それなのに、何をしても「やっぱりダメだった」って、自分で自分を突き放していた。
“事実”と“思い込み”を分けてみる
ある日、「その“思考”って、ほんとに起きたこと?」と聞かれて、はっとしたことがあります。
たとえば、友達が「またね」と言って帰っていった。
それはただの事実。でも私はそこに勝手に「嫌われたかも」という意味をつけていた。
それって、本当に起きたことじゃなくて、ただの“思い込み”なんですよね。
だから私は、自分の頭の中で起きていることを少しだけ分けてみるようにしました。
それは「実際にあったこと」なのか?
それとも「そう感じただけ」なのか?
最初は難しいけれど、慣れてくるとちょっと冷静になれるんです。
全部を鵜呑みにしなくていいんだ、って。
そして気づくんです。「私、今までずいぶん疲れる考え方をしてきたなぁ」って。
小さなチャレンジで、心の景色が変わっていく
全部の思考を修正する必要なんて、まったくないんです。
むしろ、ゼロにしようとすると、苦しくなっちゃう。
だから私は、まず“ひとつだけ”を変えるようにしています。
たとえば、「また嫌われたかも」と思ったときに、「でも“またね”って言ってくれたしな」と小声で付け足してみる。
あるいは、仲良くなりたい人と話すとき、「どうせ無理」じゃなくて「ちょっとだけ近づいてみようかな」と思ってみる。
ほんの小さな、スキマみたいな心の動き。でもそれだけで、世界の見え方が少し変わるんです。
まとめ
思い込みって、自分を守るための“くせ”だったんですよね。
そう思うと、なんだか少しだけ、愛おしくも感じる。
だからこそ、それに気づけた今、私はちょっとずつ手放していこうと思います。
完璧じゃなくていい。ただ、自分の心を置いてけぼりにしないように。
今日の自分が、ちょっとだけ心地よくなる選択をしていけたら――
それだけで、十分なのかもしれません。
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