統一教会初代会長:久保木修己氏は血分けを受け入れなかった
「青春を返せ裁判」ウェブサイトより引用
1998年12月15日/投稿者:wolfger
日本の初代教会長だった久保木修己氏がなくなりました。(1998年12月13日)
⇒ 久保木修己氏プロフィール
教会の信者の皆さん、公式発表とは別にぜひ、下の文章を読んでいただきたいと思います。久保木修己氏が本当にいいたかったこと、彼の悔しい気持ちをぜひ知っていただきたいと思います
彼は統一教会には珍しく、宗教臭くなく、非常におおらかな人で、視野も広い人物でした。イーストガーデンに文鮮明教祖に会いに来る時も、他の日本のおべっかいつかいの統一教会幹部と違い一本筋がっていました。
ハドソン川に、ミミズを捕まえては、それを餌に鰻を釣りによく行ったものでした。あそこでは、直径10インチぐらいの鰻が釣れるので、キッチン担当のオンニに、日本から持ってきた虎屋の羊羹を賄賂に鰻のかば焼きを作ってもらったことがとてもとても懐かしいです。
しかもそれが、韓国風で美味くなかった覚えがあります。無邪気な子供のようなとても憎むことができない人でしたよ。何かひとごととは思えず悲しい気持ちになります。ご冥福をお祈ります。
でもそういった人柄とか内容は、もちろん統一教会で培ったものではなくて、立正校生会の庭野日敬会長の秘書をやっていた時に培われたものです。
彼は次の立正校生会の会長候補といわれていたくらいですので、彼が統一教会に来た時は大騒ぎで、モーゼの立場とよく言われました。そして政治路線のみにまい進した時は、坂本竜馬の再来ともいわれたものです。
ですから彼が統一教会の奥義、つまり血分けに気がついて、教会と一定の距離を置くまでは統一教会の未来にも希望があったものですよ。そういった意味では、彼も被害者の一人なのです。本当に晩年は悔しかったと思いますよ。
日本に最初に伝道した西川さんの色を、受け継いでいたのが久保木さんです。曲がりなりにも統一教会の中に、まじめさ、勤勉さ、兄弟姉妹の深い所での結びつき、ひたむきさ、そういったものの伝統は西川、久保木ラインなのです。たぶんこういった路線は統一教会にいた者しかわからない独特の深い結びつきだと思います。
またこういった結びつきがあるがゆえに縛られて教会を去れないという人が多いです。年配の人などが統一教会の人に感動して統一教会になるのはこういった路線だからであって決して教義そのものではないからです。
しかしそれがだんだんと、変質されさせられていくのはこの教団がカルトたる所以なのです。そういった伝統ができあがってしまうことを文鮮明教祖はもちろんおそれました。それで韓国の幹部たちを急きょ日本に送り込んで統一教会の伝統をただそうとしたのです。
今でも日本統一教会の指導を韓国の幹部がしているのは、こういった西川、久保木ラインの路線に行かないように監視する意味があります。文鮮明教祖も日本がこういった方向に傾きやすいということをよく知っているのでしょうね。特に日本が、統一教会にとっての人材・金の草刈り場なので、本人が入国できないこともあって非常に心配してハラハラしていると思いますよ。それに対して胡散臭い金もうけ、カルト的なものは、文鮮明教祖直接に日本に入り、茶坊主幹部たちを通し今はトカゲのしっぽ切りにあっているF氏で完成したものです。だから何度も幹部たちを韓国に呼びつけたり、最近は末端の信者も韓国に呼び、もちろんそれが金もうけのためもありますが、教育しなければいけないのです。
ですから今でもその二つの路線が微妙に統一教会の中で絡まっています。日本統一教会独特のまぁ言わいる人格・心情・人間交流中心的な派、こちらはどちらかというと良識派といえるでしょう。
上級幹部のうちでは、キリスト教会出身のO氏、S氏などがその例ですね。初期統一教会の伝統はこういった人たちによって培われていったものです。しかしそれでは、本来の天の伝統が立たないということで、文鮮明教祖直接の指導のもと大きな方向転換がなされました。
しかし彼は、文鮮明教祖による直接の血分けが自分の家庭に入ることを受け入れられず(具体的なことは皆さんお察し下さい)特に、夫人がそれを拒んだので、文鮮明教祖によると日本がエバ国として立つことができなくなり摂理に失敗したということなのです。私個人から言わせればよく拒んだということが正直な感想です。
ですから統一教会員の方よく考えてください、哲子夫人はどういう立場でいましたか。久保木さんの息子さんは統一教会員ですか。
しかし彼はもう前の宗教団体に戻ることももちろんできないので、後半の人生は統一教会の宗教活動にはかかわらず、もうひとつの柱である共産主義反対運動にかかわっていたのです。そういう意味では、清濁合わせ飲んでしまったのでしょうね。
まあ、旧満州出身ですので、大陸的おおらかなのでしょうね。私に言わせれば、かわいそうですが彼は、そういう意味では心は売り渡していなくても、40過ぎてから前の宗教団体にも帰れないし、家庭もあるし、社会にも基盤がないので教会より養われていた、あるいは職業として勝共運動にかかわっていたということなのでしょうね。まあどちらかというと良心的統一教会のプロフェッショナル幹部ということでしょうね。
少しの勇気をもって、統一教会の内訳のことなどをはっきりと言っていただいていたならば、もうちょっと方向性も変わっただろうし、被害者もこんなに出ていなかったと思います、まあそれが、かえすがえす残念ですね。でも皆さん死者に鞭打つ事だけはやめましょうね。しかし悔しかったと本当に
思います。さりとて生活があるのではっきりと去ることはできなかったんでしょうね。
ですから妥協して、共産主義撲滅運動にまい進していったのだと思いますよ。(個人的にいうと私は本音を絶対言わない、心を割って話せない、党派性でしか物事を考えられない政治家と宗教家だけにはなるなと子供にいっていますが。)
しかし、そういう彼の本当の悔しさとは別に、統一教会はまた彼の死を利用してさまざまなアドバルーンを上げることだと思います。あるいは何らかの金もうけか政治的に利用することは請け合いです。ぜひ、彼の死に対する統一教会の公式見解をお聞きしたいものですね。
本当に彼の悔しさ残念さ無念さを切っているのは一握りの人間だけだと思います。統一教会はもちろん否定するでしょうけどもね。私が何度も言っている、統一教会員こそが被害者だということはこういうことなのですよ。
彼に続く被害者を少しでも少なくしたいと思います。それが真実を知っている者の務めだと思うからです。そういった統一教会の秘儀にを知った時が、何度も言うように二十代三十代前半ならばやり直しが効きますが、彼のように四十、五十になってしまうと現実的に無理だということがはっきりわかりますよ。まして統一教会式に結婚してしまったらね。まあ、死ぬまで覚醒しなければその人の人生は幸せなんでしょうけども、子供を考えてくださいよ。そしてあなた帰りを待っているご家族のことも考えてくださいよ。
古参信者:カインの末裔氏のコメント
統一原理を完全な真理と信じている人にとって、実体的な血統転換の儀式が、あってもそれを文教祖をメシアないとの証拠と考えていないと思います。逆に、そこまで、やるのは本物のメシアだからだと考えている人もいる始末です。実際、私もそう思ってこの問題を処理して献身生活を続けていました。西川先生もそれで、一定期間止めなかったと思います。
久保木会長からは、直接、文教祖が、夫人以外の女性と儀式をしていたのを夜、ノックをせずに部屋に入って日本の報告をしに行った時に見たと聞いたことが、あります。もう、死人に口なしと現役の人は、否定するかも知れませんが、私、以外にも勝共連合の古参幹部などは、同じ話を一緒に聞いています。久保木会長も文教祖の女性問題を知っていても止めませんでした。
ただ、晩年は、立場上、表明することは出来なかったですが、日本統一教会、文教祖のやり方は、間違っていると思っていたと思います(これは、何度かこの問題を話した私の主観です)。
私は、文教祖が、メシアかどうかというのは、メシアの定義によって、見方が、色々変わって来ると思います。
統一教会初代会長・久保木修己氏に関する人物分析レポート
1. はじめに:複雑な指導者像の提示
世界基督教統一神霊協会(統一教会)の初代日本教会長、久保木修己氏の人物像は、単なる組織の指導者という一面的な評価では捉えきれない。その信念と行動において深い内部的葛藤を抱えた複雑な人物であり、彼の生涯を多角的に分析することは、日本における統一教会の初期の性質、その後の変容、そして組織が内包する矛盾を解き明かす上で極めて重要である。
彼の経歴と人格、教団内で果たした二重的な役割、そして彼の信仰の根幹を揺るがした核心教義「血分け」への対峙という三つの主要な側面から、そのリーダーシップと遺産を客観的に評価する。この分析を通じて、彼の個人的な苦悩がいかにして組織全体の力学に影響を与えたのかを明らかにし、一人の指導者の軌跡を通して、教団の本質に迫ることを目指す。
2. 経歴と初期の人物像:期待されたリーダーの原型
久保木修己氏が統一教会内で「モーセの立場」とまで期待された重要人物となった背景には、彼が入信する以前に築き上げた経歴と、多くの人々を惹きつけた卓越した人格が存在する。彼の人間性が統一教会という組織の中で後天的に培われたものではなく、むしろ彼が元来持ち合わせていた資質こそが、初期の日本統一教会に大きな影響を与えたという視点は、彼の生涯を理解する上で不可欠である。
2.1. 統一教会入信以前の経歴と評価
久保木氏の入信前の経歴は、すでに宗教界において際立ったものであった。
立正佼成会での要職: 巨大教団である立正佼成会において、創始者である庭野日敬会長の秘書を務めていた。
次期会長候補: 単なる秘書に留まらず、その実力から次期会長候補と目されるほどの存在であった。
移籍の衝撃: それほどの重要人物が統一教会へ移籍したことは、当時の宗教界に大きな衝撃を与えた。
政治活動での評価: 後年、政治路線(勝共運動)に邁進した際には、その指導力から「坂本竜馬の再来」とまで評された。
これらの経歴は、彼が統一教会に加わる以前から、卓越した組織運営能力とカリスマ性を備えたリーダーであったことを示している。
2.2. 同時代人による人格・人間性の評価
久保木氏の人格は、彼に直接接した人物によって極めて高く評価されており、その特徴は典型的な宗教指導者のイメージとは一線を画すものであった。
人格的魅力 同時代人は彼を「宗教臭くなく、非常におおらかな人」「視野も広い」と評している。さらに、「無邪気な子供のようなとても憎むことができない人」という評価は、彼が権威を振りかざすのではなく、人間的な魅力によって人々を惹きつけていたことを示唆している。
高潔さ 文鮮明教祖に対しても「他のおべっかいつかいの統一教会幹部と違い一本筋がっていた」と評されるように、迎合しない高潔な姿勢を貫いていた。
人間的逸話 アメリカ滞在中、ハドソン川で鰻釣りに興じ、釣った鰻を日本から持参した羊羹を「賄賂」に蒲焼にしてもらったというエピソードは、彼の実直で気取らない人柄を鮮やかに物語っている。
こうした彼の卓越した人間性と高潔な姿勢は、多くの信奉者を集める源泉となった一方で、教団の絶対的な権威主義とは相容れない側面も持っていた。この点が、後の教団内での路線対立と、彼自身の個人的な葛藤の伏線となっていくのである。
3. 統一教会内での役割と影響力:二つの路線の相克
久保木修己氏が日本統一教会内で果たした役割は、二重の構造を持っていた。彼と、日本に最初に伝道した西川嘉純氏が体現した路線は、人格や心情の交流を重視する、いわば日本土着の宗教的気風を反映するものであった。この潮流は多くの信者を惹きつけ組織の基盤を築いたが、同時に、文鮮明という絶対的な指導者を頂点とする韓国発の教義体系とは本質的に対立するものであった。このイデオロギーの衝突は、教団内に構造的な緊張関係を生み出すことになる。
3.1. 「西川・久保木ライン」の形成とその特質
日本統一教会内には、「西川・久保木ライン」と呼ばれる独特の潮流が存在した。これは、教義の絶対性よりも人間的な価値を重んじるものであった。
価値観 この路線は、「まじめさ、勤勉さ、兄弟姉妹の深い所での結びつき、ひたむきさ」を核心的な価値としていた。これは、抽象的な教義よりも、人格や心情、そして共同体内での人間関係を重視する姿勢の表れである。
影響力 この人間主義的なアプローチは、特に年配の入信者にとって大きな魅力となった。彼らが統一教会に惹かれたのは「決して教義そのものではない」と指摘されており、「西川・久保木ライン」が持つ求心力の源泉が、人格的な感化にあったことがわかる。
派閥 この潮流は、教団内で「人格・心情・人間交流中心的な派」と認識され、ある意味で「良識派」と見なされていた。それは、後のカルト的な変質とは一線を画す、初期の日本統一教会が持っていた一つの側面であった。
3.2. 文鮮明教祖の路線との対立
人格と心情を重んじる「西川・久保木ライン」は、文鮮明教祖にとって看過できない脅威と映った。教祖は、日本独自の「伝統」が形成され、自らの絶対的な権威が相対化されることを恐れたのである。
脅威の認識 文鮮明は、日本支部が自らのコントロールから逸脱し、独自の文化や価値観を形成することを強く警戒した。
対抗策 この脅威に対抗するため、教祖は韓国人幹部を日本に送り込み、この日本的な路線を「ただそうとした」。これは、教団中央による地方支部への統制強化であり、輸入された神学的絶対主義を徹底させるための直接介入であった。
二つの路線の並存 結果として、日本統一教会内には二つの異なる路線が並存し、微妙に絡み合う状況が生まれた。一つは、久保木らに代表される「良識派」の人間主義的な潮流。もう一つは、文鮮明に直結し、「胡散臭い金もうけ、カルト的なもの」へと繋がっていく絶対主義的な潮流である。
この路線対立は単なる権力闘争に留まらず、やがて久保木個人の信念を根底から揺るがす決定的な問題、すなわち教団の核心教義である「血分け」への対峙へと繋がっていくのである。
4. 「血分け」問題と久保木氏の葛藤:信念の崩壊と抵抗
統一教会の核心教義である「血分け(血統転換)」は、久保木修己氏にとって単なる教義上の解釈問題ではなかった。それは、自らの信仰と家庭の根幹を揺るがす個人的かつ実存的な危機であった。彼がこの教義の儀式を拒絶したことは、組織内では神の摂理に対する「失敗」と見なされたが、それは彼の良心と人間性の最後の抵抗でもあった。
4.1. 教義の核心の認識と目撃証言
久保木氏が、教団の「奥義」とされる「血分け」の実態をどのように認識するに至ったかについては、二つの重要な証言が残されている。
間接的認識 証言によれば、久保木氏は統一教会の奥義、すなわち「血分け」に気づいた後、教会と一定の距離を置くようになったとされる。これは、彼が教義の深層にある問題性を認識し、組織の中枢から心理的に離脱し始めたことを示唆している。
直接的目撃 さらに衝撃的なのは、古参信者「カインの末裔」氏による、久保木本人から直接聞いたとされる証言である。「文教祖が、夫人以外の女性と儀式をしていたのを夜、ノックをせずに部屋に入って日本の報告をしに行った時に見た」という彼の言葉は、久保木が「血分け」の儀式を噂や伝聞としてではなく、自らの目で直接目撃したことを示している。この直接的な目撃は、「血分け」問題を教義上の「奥義」という噂の領域から、指導者自身が確認した動かしがたい事実へと変容させ、彼の信仰の危機を不可避かつ決定的なものにした。
4.2. 儀式の拒絶とその教団内での帰結
「血分け」の実態を知った久保木氏とその家族は、この儀式を自らの家庭に受け入れることを断固として拒絶した。この決断は、教団の神学と歴史認識に重大な影響を及ぼした。
拒絶の主体 この抵抗は久保木一人によるものではなく、「特に、夫人がそれを拒んだ」と強調されていることから、彼の決断が家族、特に夫婦の強い意志に基づいていたことがわかる。
神学的影響 この拒絶は、文鮮明によって極めて深刻な事態と解釈された。教祖は、久保木夫妻の抵抗によって「日本がエバ国として立つことができなくなり摂理に失敗した」と結論付けたのである。これにより、久保木は教団の神学的な歴史において、摂理を失敗させた張本人という重い責任を負わされることになった。
家庭への影響 この問題が彼の家庭に与えた影響の深刻さは、彼の息子が統一教会員ではないという事実によって裏付けられる。これは、核心教義を巡る対立が、彼の信仰のみならず、家族のあり方そのものを根底から揺るがしたことを示唆している。
信仰の核心部分で教団の教えを拒絶したにもかかわらず、なぜ彼は組織を完全に離脱することができなかったのか。この疑問は、彼の晩年の複雑な立場と、彼が直面した厳しい現実を浮き彫りにする。
5. 晩年の活動と複雑な立場:妥協と沈黙の代償
信仰の核心において教団と袂を分かちながらも、生涯その組織に留まり続けた久保木修己氏の晩年は、彼の人生における最大の矛盾を象徴している。この選択は、個人的な生活基盤の問題と、宗教的葛藤から距離を置くためのイデオロギー活動への傾倒という、二つの側面から理解されるべき複雑な妥協の産物であった。
5.1. 反共産主義活動への転換
宗教活動の中心から退いた久保木氏は、統一教会のもう一つの柱である「共産主義反対運動(勝共運動)」に活動の場を見出した。この転換は、彼の複雑な立場を反映している。
活動の動機 この転換は、信仰上の深刻な葛藤を抱えたまま、組織に籍を置き続けるための「妥協」であったと見ることができる。宗教的な核心から距離を置くことで、彼は自らの良心と組織への所属という矛盾を、かろうじて両立させようとしたのかもしれない。
生活基盤としての側面 より現実的な側面として、経済的な制約があった。40歳を過ぎ、かつて所属した立正佼成会に戻ることも、一般社会で新たな基盤を築くことも困難な状況で、彼にとって勝共運動は「職業」あるいは「教会より養われていた」という生活の糧としての意味合いを持っていた。この事実は、彼の選択が理想だけでなく、厳しい現実認識に基づいていたことを示している。
5.2. 「被害者」としての側面と歴史的評価
久保木氏は、単なる教団の加害者的な幹部ではなく、むしろ「被害者の一人」であるという評価が存在する。これは、彼の内面的な苦悩と、沈黙せざるを得なかった状況に起因する。
心理的苦悩 彼の内面的な苦しみは、「晩年は悔しかったと思う」「悔しさ残念さ無念さ」といった言葉で表現されている。自らが信じた理想が崩れ、妥協の人生を送らざるを得なかった彼の深い悔恨がそこには滲んでいる。
沈黙の理由 彼が教団の真実を公に語らなかった理由は、「四十、五十になってしまうと現実的に無理」「さりとて生活がある」という極めて現実的な制約にあった。この状況は、高圧的な団体が用いる典型的な支配構造を露呈している。すなわち、信者の外部社会における経済的・社会的基盤を意図的に侵食することで、組織からの離脱を事実上不可能にするのである。
歴史的責任 これにより、久保木氏は単なる加害者的な幹部ではなく、組織の構造に囚われた「被害者」という側面を併せ持つ、この種の組織に典型的な「被害者=加害者」という二重性のパラダイムを体現する存在となる。しかし、彼の沈黙がもたらした負の側面も指摘せざるを得ない。もし彼が「少しの勇気をもって」内情を告発していれば「被害者もこんなに出ていなかった」かもしれないという視点は、彼の個人的な苦悩とは別に、歴史的な責任を問うものである。
彼の死後も、統一教会が彼の名声を政治的、あるいは経済的に利用し続ける可能性が示唆されている。これは、彼の遺産がいかに複雑な文脈の中に置かれているかを物語っている。
6. 結論:矛盾を抱えた指導者の遺産
久保木修己氏は、卓越した人格と指導力で多くの人々を惹きつけながらも、自身が深く関わった組織のカルト的な本質に直面し、深刻な葛藤の末に妥協の道を歩まざるを得なかった悲劇的な人物であった。彼の生涯は、理想と現実、信仰と良心の間で引き裂かれた人間の苦悩の軌跡そのものである。
彼が体現した「西川・久保木ライン」という人間主義的な潮流と、文鮮明の絶対的な教義に基づく中央集権的な支配との間の緊張関係は、日本における統一教会の歴史を特徴づける重要な力学であった。最終的に、組織の論理は個人の良心を凌駕し、久保木は沈黙のうちに後半生を送ることとなった。
久保木修己の物語は、人間主義に根差した日本のカリスマ的リーダーシップが、いかにしてより強固な国境を越えたカルト的システムに吸収・無力化され、未解決の道徳的妥協という悲劇的な遺産を残したかを示す、一つの象徴的な事例研究なのである。
