足稼ぎの良き馬
馬に乗りはじめたのは令和2年2月からでした。
はじめから馬に乗ってみようと思ったわけではなく、日本の在来馬や日本の鞍や鐙を実際に使っている牧場が関西にあるとネットで見かけたことがきっかけです。
私は子供のころから日本史や特に歴史上の人物が好きで、実際に彼らが使っていた馬や道具を見てみたいという思いが募り、牧場へ行きました。
牧場でお話を聞くうちに見てるより乗った方がよくわかるということで、はじめて馬に乗るにもかかわらず和鞍と和鐙で外の神社の走路へ行き、和種馬といろいろ運動することになりました。
それから1年ほど和式馬術の稽古を続けていると和種馬の喜怒哀楽がなんとなくわかるようになり、馬との対話もできるようになってきます。
彼らの頭の良さに驚いたり日本人的な感性を持ち合わせていることに感動したりするようにもなりました。
もちろん子供のころから大好きだった歴史上の人間の連中が、馬上を五感で楽しんでいたこともよく解かるようになり、お世話も含めて馬との付き合いがやめられなくなってしまいました。
そのころ、近江神宮で牧場の和種馬に乗って流鏑馬をされた武田流の方からお礼のお手紙を目にすることがありました。文面で馬をお褒めになられていたのですが、その一節に
『これこそ多賀高忠の伝書にある「足稼ぎの良き馬」』
と書かれていて、久しぶりに多賀高忠の名を見て驚きました。

私の苗字は多賀という苗字です。私個人にはたいした由緒もあるとは思えず特にこだわりもないです。
そして多賀氏は戦国期以降、戦争するたびに敗けるのですが、なんとか命脈を保ってきた一族ですね。
多賀豊後守高忠は戦国期より少し前の室町期に侍所所司代という大役を担っていた人物です。
ただ、そのころの私は高忠に対して骨皮道賢などを配下として好きなように使い、応仁の乱を殊更にややこしくした人物という印象があって嫌悪感を抱いていました。
自分がいま稽古をしている騎射の名手であったとは全く知らずに。
それから高忠が「新九郎奔る」にも登場したりして、少しづつ調べるようになりました。
Wikipediaにもあるように多賀高忠は知識人だったと評価されています。
知識人だと知られるようになったのは高忠聞書が群書類従に載ったことも大きいように思いますが、文面を読む限り相当真面目に弓馬に取り組んでいたことも思えます。
高忠は小笠原流の弓馬術を学び、武家故実だけではなく和歌にもあかるかったようです。
いずれも室町期には忘却されつつある内容を研究し、文書に残したことは趣味人以上の歴史に対する責任感のようなものを感じました。

高忠は弓馬の故実を群書類従内の就弓馬儀大概聞書で著した文筆家だっただけでなく、自身も流鏑馬をはじめ笠懸や犬追物といった騎射の名手であったことは間違いないように思います。
もしかすると八的もしていたのかもしれません。
男衾三郎絵詞の騎射像を高忠に見立てて、私と比較してみます。

弓手の押しがよくわかります。

馬は立派に走っていますが絵詞の笠懸武者に比べると躍動感も弓手の押しもありません。
非常に恥ずかしい思いです。
いつのまにか高忠を見直すというより、尊崇の思いを持つようになってしまいました。
ここからは就弓馬儀大概聞書からの抜粋です。引用リンクの27頁左下部に該当箇所があります。
一 いやうの事。あふぎがたへうち入中ほどにひかへ、矢を指かげて手綱を二重にかいくり、馬のかくうちに、手綱を一重に手の内にかけ、同矢がまへを肩より少高く、いかにもひぢをたて、鐙をふつつけ、馬を二足三足うち出してくるりと返し、くら立をし、鞍のま中にこしをすへ、尻をしづわへのり出し、少しづつたちすかして、馬のかせぐにつれて、ほがみをまへ輪に當様に、くら立をし、三足かかせてつら中へんへ、ひきめどう中をうち入、めてのみみをこすこさずにうち入べし。同三足かかせてひらきいだし、こうてづかひ出して、少矢さしてはしらかすべし。又三足かかせて胸のとをりにてをし合、矢はずをとり、少かかせてうちおこし引おろし、少引てはしらかし、的にいつけ、少こぶしをもつて、おなじ程に手綱をとり、的の方を見遣、馬をゆるしかけてとめべし。さて妻手へおりあげべし。のこり射手躰拝いやぅ同前。
noteの下記ページで詳細に考察されているのと同じ部分を抜粋しました。
高忠聞書はそれなりに長い読み物ですが、なんとなく理解しやすい箇所なのかと。
流鏑馬における作法。馬の乗り方と弓の扱いについて細かく著しています。
「鐙をふつつけ、馬を二足三足うち出してくるりと返し」
に関しては発進前ですね。脚を入れすぎるとくるくる回ってしまい、息の合わないこともありますが、見事な発進前の体勢が想像できます。
とはいえ
「尻をしづわにのり出し」
など、馬の止め方は理にかなっていますが、水干鞍であまりにしすぎるとすぐに鞍を壊してしまいます。高忠が用いていたのは軍陣鞍だったのでしょう。
「少しづつたちすかして、馬のかせぐにつれて」
現代の和式馬術でキーワードとなっている「立ち透かし」。
馬に乗り出してから散々見聞きしている単語ですが、私の知る限り現在残っている文献ではこれが初出のように思います。
小笠原流で日常的に使っていた言葉なのかもしれませんが、自分と同じ家名の人が著したことを、500年以上経った時代に同じ馬と同じ道具を使って、試行錯誤しながらも練習していることに不思議な縁を感じています。
多賀高忠の乗っていた「足稼ぎの良き馬」がどれほど強い馬だったのかわかりませんが、現代に生き残っている和種馬たちも強くて賢い子が多くいます。
これからも強くて賢い彼らと試行錯誤やたまには怒られたりもしながら、少しでも古人が見たり感じていた風景や歴史を知ることが出きるよう、楽しく努力を続けていきたいと思います。

高忠が生まれてちょうど600年経った年頭になんとなく思ったことを、忘れることのないよう筆をとりました。
