テセウスの船と伊勢神宮〜私たちは物質と非物質のどちらに価値を感じるのか〜
「テセウスの船」という話を知っていますか?
私の学生時代の頃なんかまったく知らなかったので、なんとなくでも知っている人はすごいです。
これは、古典的な哲学の命題です。
ギリシャ神話に登場する英雄テセウス。クレタ島の迷宮でミノタウルスを討伐して地元に戻り、その後アテナイ(古代アテネ)を建国し王となります。
人々は、テセウスの偉業を讃えて、彼がクレタ島から帰還した時に乗っていた船を大切に保管しました。
年月が経つにつれて木材は傷んでいき、船を管理する人々は傷んだ木材を新しい木材に取り替えて船を維持していたのですが、そこで哲学者はふと考えました。「すべての木材が取り替えられたとしたら、この船は元の船と同じものだと言えるのだろうか?」と。
みなさんはどう思いますか。
この命題をどう考えるかは、文化財に対する姿勢に直結します。各国で結構考え方が違うんじゃないかなぁと思うのですが、どうなんでしょう。
日本でこの「テセウスの船」問題を考える時に、すぐ思いつくのが伊勢神宮の式年遷宮(しきねんせんぐう)です。
伊勢神宮は内宮(ないくう)、外宮(げくう)とも20年に一度、全く同じ形の社殿を造り、もとの社殿は解体します。これを式年遷宮と言います。だから伊勢神宮は歴史は古くても、社殿そのものは他の寺社建築のような古めかしさはなく、新品感があります。
式年遷宮は飛鳥時代から始まったという話もあり、伊勢神宮の建築様式は日本の神社建築の最古例とされています。見た目はピカピカなのに、どこよりも古い形を伝えているというのが不思議な感じがしますよね。
遷宮をするのは、伊勢神宮だけではなかったのですが、途切れることなく、しかも20年という短期スパンで造営を繰り返しているのは今や伊勢神宮しかありません。
さて、日本にはこういう歴史の深い事例があるため、日本人は物の外側ではなく中身(伊勢神宮で言えばご神体)、器よりも本質を重視するのだ、という意見を見かけます。でも、はたしてそうでしょうか。
ピカピカ新築状態の伊勢神宮を見て、なんとなく物足りなさを感じる人もいるのではないでしょうか。それよりも、いい感じに朽ちてきて苔むしたような神社の方がありがたみがあるような気がしませんか。
お寺で考えると、もっとわかりやすいかもしれません。
日本に仏教が伝わった時、当時の人々は度肝を抜かしたはずです。それは寺院建築が色彩であふれていたからです。それまでの日本では白木を使って建物を建てていたところに、オレンジやら緑やら青やらで塗り立てられたフルカラーの建物が突如現れ、しかもその中には金ぴかの仏像が鎮座しているのです。
色彩と装飾の力を布教に大いに役立てていたわけですね。
でも、今の私たちはキンキラキンの仏像を見ると、何となく安っぽく感じてしまいますし、寺院そのものも当初の色に塗り直されてしまうと、何だか残念な気がしてしまいます。
逆に金箔がはげて、下地が出ているような仏像や、風雨にさらされて褪色した建物にこそ、趣きと霊性のようなものを感じ取ります。
この価値観に基づき、日本では文化財修理でも復元ではなく現状維持が基本とされています。仏像の腕が欠けていても、それを復元することは(基本的に)ありませんし、建造物を修理のために解体しても極力元の部材を再利用して、元の姿に組み直します。
アジアの他の国々はこれとは違いますよね。仏像は金ぴかが当たり前ですし、歴史的建造物でも中にエレベーターを設置したりします。
でもむしろこちらの方が、伊勢神宮の式年遷宮とは感覚が近いような気がするのですが、どうでしょうか。表面的な、物質的なものよりも、そこに宿る霊性、アウラ、魂みたいなものがあれば問題ないはず、と考えているわけですからね。
「テセウスの船」の話で言うなら、私たち日本人は新しい木材に入れ替わった船には価値を感じず、むしろ取り外されたオリジナルの木片の方に価値を見出すということになります(たとえそれが船の形をしていなくても)。
オリジナル信仰が強いとも言えますが、ある意味、物質性に縛られているのは私たちの方なのか、という気もしてきますね。
でもやっぱり新品の仏像よりも、古めかしい仏像に惹かれてしまうのは、いかんともしがたいものです。こういった価値観って、どこで形成されるんでしょうね?
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