見出し画像

言語化は他者との違いを浮き彫りにしてしまう

前回の記事で

そろそろ言語化の次の流れが来るんじゃないのかな、そしてそれはAIの普及という大きな変化とセットで考えないと見えてこないだろうな

さようなら「言語化」

と書きました。まだその先が見えているわけではないのですが、書きながら考えてみることにします。これがnoteのいいところ。

たとえばランニング。
近頃は全然走っていませんが、私は昔ランニングにはまっていた時期がありました。フルマラソンは1回しか出場しませんでしたが、ハーフマラソンはかなりの数を走っています。
とりあえずこのランニングを例に考えてみるので、みなさん適宜自分の趣味に置き換えて解釈してください。

ランニングが趣味じゃない人からしたら、わざわざ疲れることをするなんて理解不能だということはこちらもよくわかっています。しょっちゅう「よくやるねぇ」「何が楽しいの」とあきれ顔で聞かれました。
さぁ、そこで言語化の出番です。ランニングのメリットを語ることになるわけですが、ストレス発散、タイム更新のゲーム性、健康促進、ランニング中に思考がまとまる、大会出場の非日常感、など挙げようと思えば色々挙げられます。
でもいくら言葉を尽くしても、私自身「何か違う」という感覚がつきまとっていました。説明した後に「全部うそではなく本心ではあるんだけど、それだけじゃないんだよなぁ」というモヤモヤが残りました。

やはり、言語化するとフッと消えてしまう「何か」があるということです。
そしてその「何か」は自分を駆り立てるだけの力があるわけですから、本当はこの「何か」こそがすごく大事で、守らなければいけないもののはずです。言語化はそれをつかめないばかりか、見えにくくしてしまう。

では、これが同じ趣味のランナー同士だったらどうでしょうか。
ランニング倶楽部とかランニング同好会とかランニングチームとか、ランニングが趣味の人たちの集いは全国にあります。
時に切磋琢磨しながら、時におのおののペースで好きに走りながら、そこには確実にゆるやかな連帯感が生まれます。ランニングが好きという共通点があるので、性別年齢職業などを超えて仲間になることができるでしょう。

しかし、そんな人たちでも「ランニングのどこが良いのか」を言葉で語り合うと、「あれ、自分とは違うな」「いや、そんな考え方はしないな」「似ているけど自分の方が思いが強いな」みたいに、必ずわかりあえない部分が見えてきます。

言語化はフワッとした「何か」をつかみとれないだけでなく、他者との違いをくっきりと浮かび上がらせてしまうものなのです。
違いが見えてしまうと心理的に距離を取りますよね。語り合わずに一緒に走っていた時の方がゆるくつながれていたのかもしれません。

SNSで日々レスバが絶えないのも、この違いを浮き彫りにしてしまう言語化の特性に原因があるのでしょう。「字数が足りず誤解をまねいたから」とか「ちゃんと話せばわかり合える」とか言いますが、どれだけ言葉を重ねても、いや重ねれば重ねるほど両者の考えの違いがはっきりして、逃げ道がなくなってしまうのです。

それでも人に伝えるためには、言語化をしなくてはいけない。

うーむ、困りましたね。一旦ここで区切って、もう少し考えを重ねていきましょう。というわけで、まだ続くことになりそうです。

***

\こちらもぜひ/

過去記事一覧はこちらから