ドビュッシー「亜麻色の髪の乙女」感情が無くても曲は成立するのかを比較してみた:プレスラー、モニク・アース
作曲者:ドビュッシー
曲名 :前奏曲集 第1巻 第8曲「亜麻色の髪の乙女」
演奏者:メナヘム・プレスラー、モニク・アース
リズム:★★★★☆
旋律 :★★★★★
構造 :★★★★☆
満足感:★★★★★
この曲はドビュッシーでも人気のある曲だけども、
どんな曲の作りになっているかを中心に紹介してみようと思う。
プレスラー: Préludes / Book 1, L. 117: VIII. La fille aux cheveux de lin
モニク・アース: Préludes / Book 1, L. 117: VIII. La fille aux cheveux de lin
この演奏を2曲用意したのは、印象の少し違う亜麻色の乙女の演奏を比較することで何がこの曲の本質なのかを探るためだ。
プレスラー :繊細で美しい亜麻色の乙女
モニク・アース:凛として美しい亜麻色の乙女
この曲はドビュッシーの曲の中でも人気のある曲だけども、
私だと以前はまったく良さが理解できなかった。
なにが原因で理解できないのかを考えてみたけども、
曲に人物の感情も容姿といった内面の情報が入っていない。
これが一番の原因のように思う。
この曲は曲の作りとして亜麻色の乙女という人物を扱っているように見えるけども、実際にはその乙女がどんな感情や容姿を持っているのかの情報がこの曲には入っていない。
つまりこの曲には普通は聴けば分かるはずの人物情報がぽっかりと穴が開いていて存在していないのだ。だから旋律がどれだけ歌っていたとしても、感情も容姿も伝わってこない。
これはなかなか困った問題で、じゃあどうやって聴けばいいのかとなると、この曲は感情や容姿といった内部の情報を曲自体が持っていない。持っているのは、外側から見た時の美しいかとか優しそうかといった外部情報だけになる。だからこの演奏を聴きながら外部情報からどんな女性なのかを想像しながら聴くということになる。
普通の曲と違うのは感情や容姿といった人物の内部の情報から想像するのではなく、演奏で外側からの見た目の情報を聴きながら、どんな人物なのかを想像するという、人物情報の受け取り方のルートが内部からか外部からかで違う作りになっている。
従来 :人物の内部情報 → 感情や容姿 → 人物像を想像する
この曲:人物の外部情報 → 美しいか優しそうか → 人物像を想像する
今一つ言いたいことが伝わりにくいけども、この曲の演奏には女性がどんな感情を持っていてどんな顔つきや体つきといった容姿をしているかの内部情報が無いから、こんな感じの聴き方になるんだと思う。
絵なのに額縁しかない絵を思い浮かべると理解しやすいのかもしれない。絵は自分でどんな絵なのかを演奏を聴きながら想像してはめ込む感じになる。
この曲は人物の感情や容姿だとかの内部の情報は持っていないのに。人を外部から見た時の綺麗だとか容姿が格好いいとかの外部情報だけは持っている。だから演奏者はそこの外部情報の美しいとかだけを演奏者が思うように設定することで曲全体がもつその亜麻色の乙女の人物像を客観的にではあるものの表現することが出来る。
それは映画やドラマの登場人物に掛かるBGMのようなもので、その登場人物が格好いいのか美しいのか優しいのかなどの外部イメージがBGMによって聴いているものに伝わって想像できるように作られている。
これは環境音楽の建物や物質に対するBGMの人物版みたいなものではないかと思う。
この演奏で感情は表現できなくても、どんな人物なのかのイメージは外部情報だけで表現できるという作りは、かならずしも人物を表現するのに感情などの内部情報だけに頼らなくても出来ますよ。というのがこの曲における表現の本質であり、やりたかったことではないだろうか。
プレスラーはこの亜麻色の乙女を外部から見た場合の情報として繊細で美しく優しい女性として演奏で設定している。優しいだけじゃなくしっかりとした生命力のある力強さもきちんと表現しているように思う。
その演奏が聴いている者がイメージしている亜麻色の乙女の人物像を優しく支えている感じがする。この優しく包み込むような感じが評価が高い理由ではないかと思う。
対してアースは、美しさというよりも凛とした強さを感じる。それと同時にどこかに弱さも感じる。どちらかというとアースの設定する亜麻色の乙女のほうが現実感のある人物設定になっているよう感じる。
その演奏は聴いてる者がイメージする亜麻色の乙女を必要以上に美化するのではなく、どこか現実に近い存在として感じれるように演奏しているのではないかと思う。
この演奏の聴きどころは、ぽっかりと空いている亜麻色の乙女という人物像を演奏を聴きながらどういうイメージで想像するかにあると思う。どんな人物像になるかは演奏次第になるから、演奏自体の情報量が足りていないように見えて実はこの演奏での美しさや優しさあるいは格好良さといった外部情報がとても重要なのではないかと思う。
良く考えてみると曲から感情などの必要なはずの要素を無くしても構造を維持できるかという考え方はサティの考え方に近いもののように思う。
この曲の持つ感情や容姿を削除するという考え方も、曲に必要だったはずの要素を無くすというサティの発想に近いものを感じる。
この曲でドビュッシーがやったのは感情や容姿という情報を無くしても音楽は成立するのかなのだと思う。音楽の表現としてはわかりにくくはなるものの感情や容姿に代わる外部から見た情報が、感情や容姿の穴を上手く埋めれることがこの曲で証明されているのではないだろうか。
