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ハイドン「ピアノソナタ第34番:第1楽章」多声と構造の先にあったもの:アルフレート・ブレンデル

作曲者:ハイドン
曲名 :ピアノソナタ第34番 ホ短調 Hob. XVI:34 第1楽章
演奏者:アルフレート・ブレンデル
リズム:★★★★☆
旋律 :★★★★★
構造 :★★★★☆
満足感:★★★★★

多声と構造にどっぷりとハマっていたけども、
その先に何があるのかに気づいたことを中心に
紹介してみようと思う。


Haydn: Piano Sonata in E minor, H.XVI No.34: 1. Presto

この曲はアルトとバスの男女の2声っぽい掛け合いから始まる。
だけどバスにしてはちょっと高い感じがすることから、ブレンデルは40近い男性を想定して女性を30くらいとして夫婦として設定しているのではないかと思う。つまりは何が言いたいかというと、大人同士の夫婦の会話だと言うことだ。

この演奏は常に大らかに会話している。
だけど主導権を持っているのは明らかに女性のほうだ。
そしてそこに子供っぽい女性が登場してソプラノの声で騒ぎ出す。

この演奏で悩むのは子供をスーパーマンにして暴れまわらせない点だ。
この曲のバランスを考えると子供を突出させてわがままにしたほうが、ストーリーが強調されててやりやすいのに、ブレンデルはそれをしない。
そこにどんな意味があるのかを考えた。

この曲と演奏は多声的に進行するのが最大の特徴でそれ以外にこれという特徴がないように思えた。
だけどもこの3声での多声感のある家族を「平和な一つの家族」として、
3声の感情をまとめて1本にして聴いた時のハーモニーの美しさに最大の特徴が出るように演奏が設計されているのではないかと気づいた。

「あぁ、あそこの家の子は今日も暴れてんな。おやごさんも大変だ」
という家の外から他人が見た視点で聴くと違って聴こえる。これがブレンデルのやる客観的に見る姿勢というやつなんじゃないかと思う。

この曲で大事なのは3声という多声的な曲であっても、
各声部を一つのまとまった音とした「ひとつの平和な家庭の風景」として聴くことが大事なのではないかと思う。
多声に捕らわれると確かに各声部の動きは良くわかる。
だけども、この曲が示しているのは各声部の演技ではなく3声が一体になった時のハーモニーの素晴らしさではないだろうか。

3声が見える見えないは構造が見える見えないことと近い。
だけど構造が見えなかろうが3声が分離していようが結果としての音のまとまりとしてどうなんだっていう考え方が大事なんだと思う。

これはブラームスやドビュッシーの曲が構造がいいねと、バッハの3声はいいねと言ってるのがほぼ同質の問題だと言う事だ。
確かに理解すると演奏への理解力は深くなる。だけど結果としての音がいいねとは同質にはならない。

この問題はブラームスやドビュッシーを聴いて何となく感じていた問題だ。いくら構造が高度になったとしても結果としての音楽が美しいかとは、また別の問題になるからだ。何となく感じていたことがバッハでも共通する同じ問題だったということだろう。

ブレンデルの演奏は声部を分離して聴くだけでは、まだ足りてないと演奏から教えてもらえたように思う。特に子供が主張しすぎないのは何故かということがとても役に立ったように思う。
この演奏で面白いのは各声部ごとを追うと美しさを感じないことだ。
どこに美しさがあるのかを探すと声部がまとまった時だけに出るハーモニーだったわけだ。

最近バッハを理解しようと思って、多声とは何か各声部の役割とは何かを良く考えるようになった。
確かに多声的に演奏を聴くのは面白い。物語があるからだ。

だけど、それにこだわると声部はいくつでも構わないけども、全体のハーモニーの美しさをちゃんと終えていないのではないかと思うようになった。
ブレンデルのこの演奏は良く出来ていてこの演奏を聴くことで、中身は多声的であっても結局は一つの旋律としてまとまった時に美しいかどうかが重要なんじゃないかなと思うようになった。

声部を追うのも大切なことではあるとは思う。その曲の物語を理解できるからだ。だけどやっぱり音楽の本質はどんな美しい音になってるかに尽きるのではないかと思った。




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