「音楽の力」で感情は生まれるのか?
音楽が感情を生み出すなんて、ただの神話だ。
現実に起こるのは、感情を少しだけ引っ張ること。あるいは、既にある感情の種に、確信を与える事でしかない。
という話を、以前「インタラクティブミュージックについての12の神話」というnote連載の10番目として執筆した。
一応、本稿は↓を読まなくても理解できる内容にはなっているが、
さて、これを読んで「何だと?」と、癇に障る人が一定数いるらしい。というのも、これを読んだ学生さんから、「自分はそうは思わない」という意見が複数届いたためだ。
経緯:ある大学におけるゲーム音楽を取り扱う授業の一環で、私のnote連載の1つを読んでレポートを出すという課題が出され(了承済み)、その先生のご厚意で数名の学生さんからの感想レポートを共有頂いた。
いわく、「自分は苦しい時に音楽を聴くことで力をもらっている、音楽が感情を生み出す力はあると思う」とか、「大好きな◯◯のコンサートで感動した。これは音楽が感情を生み出したと言えるだろう」とか(※原文ではない。複数の意見を抽象化したもの)、言いたいことはよくわかった。
だが、私は反論を用意している。
端的に言って、多くの人は音楽の力を過大評価している。と同時に過小評価もしている。それはつまり音楽が聴かれる条件によるのだ。その(音楽以外の)条件部分が見過ごされるばかりに、音楽の力は勝手に期待され、勝手に蔑ろにされている。
神話記事を読んで癇に障った人に向けて
まず先に私の非を詫びるとしよう。
「私のこの感情は音楽によって生み出された」という認識を大切にしている方へ、それを無碍にしてしまった事をお詫びする。
あなたの感情も、もちろん私の感情も、音楽によって大きく動く事があり、それは「まさにこの音楽のお陰だ」(つまり、音楽が感情の生みの親である)と理解をする事は自然だし、それを否定するつもりはない。その意味において、「音楽は感情を生み出さない」と捉えられるタイトルの付け方は不適切と言える。
人に読ませる文書を書くためには、ある程度そうした誇張表現であったり、読者による合理的な解釈を期待した上での甘えというのも必要である。だから甘かった所は端的に甘かったと認めよう。
そのうえで、ここから先は甘え抜きで「音楽は本当に感情を生み出すのか?」という命題に対して、徹底的に掘り下げてみたい。前回のnoteでは、私が「そんな細かい所まで書いてたら誰も読まねーよ」と思って割愛した部分を、「そんな細かいツッコミするんだったらここまで読めよ」という願いと共に詳述する。
先のnoteの中では
音楽は感情を否定しないだけで、音楽から感情が生まれるわけではない(実は、それはゲームなどの付随音楽に限らず、ジャズやロックやクラシック等の純粋音楽においても同様だと考えているが、ここでは割愛する)。
と記していた。その割愛した部分をこれから深堀りする。
「純粋に音楽を聴いている」ときの感情はどこから生まれているのか
もとはゲーム音楽の話だったから、「ゲームプレイ」という音楽以外の事をしている時の感情が、音楽だけでは決まらないという主張はある意味当然である。
しかし、私はさらに踏み込んで「音楽を聴いている」以外に何の説明もつけられないような行為、すなわち、自分の好きな曲をイヤホンで聴いていたり、自分の好きなコンサートに行ったりする、そのような場面においても、そこで得られる感情は「その音楽が無から生み出した」とは言えない、必ずそこには音楽より前にその感情の種となるものが事前に存在する、という主張をしている。
さて、この主張は「音楽の力」を否定しているように受け取られかねない。そう思って私は先程既に非を詫びた。ただそれは、気持ちの面を汲み取ったに過ぎない。私はそこに論理と反例を持って反論ができる。それによって「音楽の力」の弱い所を明らかにし、音楽の力を純粋に信じるあなたの心をより掻き乱すかもしれない。
しかし安心してほしい。当然ながら、私も音楽を愛する人間の1人。決して音楽の力を冷笑するためにこんな論述をしているわけではない。むしろ逆で、「音楽の力」を最大限に発揮するための「音楽以外の条件」のほうに人一倍気を遣っており(だからこそスクエニでゲーム音楽の制御エンジンという開発を任されてきたわけだし)、音楽そのものの力と同時に、音楽が聴かれる条件の方を適切に設定することで、音楽が人間に与える感情の大きさは何倍にも膨れ上がる(し、それを無視するとゼロにもマイナスにもなる)事を説得的に示していく。
とはいえ、次の質問をするだけで基本的な反論は終わってしまうのだが。
なぜ自分が心動かされる音楽で、全人類が同じように感動しないのか?
と、マジで考えたことはあるだろうか。
あるいは、親しい友人などに「自分の好きな音楽」を聴かせて反応を観察した事はあるだろうか。
俺はあるよ、俺が考える最強のインスト曲を詰め込んだMDを信頼できる友人に聴かせて、そいつが「で、これ歌はいつ始まるの?」などと寝言を抜かした事を今でもハッキリと覚えている。
珍しく音楽の好みも合う友達なら良いが、大抵の場合、表面上は「いいね」と無難な感想を言いつつ、内心(どうしてこの音楽を聴いて、こいつはこんな平然としていられるんだ……もっとこう沸き立つ感動はないのか……?)などと、期待と反応のズレを経験するはずだ。逆もある。友達はさもこの音楽が世界で最高のものであると確信しつつ紹介してくれるのだが、悪いとは言わないまでも、一体何がそこまで彼の感情を掻き立てるのか、イマイチわからないまま「おぉー(棒)」という感想を漏らす。

だから、好きな音楽をマジで聴かせる相手は選んだほうが良い。90%くらいの確率で期待を下回った反応が返ってきて、微妙な気持ちになる。
何が「この音楽に感動する人・しない人」を分けているのか
誰にとっても明らかな事だが、音楽は刺さる人とそうでない人がいる。
すなわち、音楽に感動するためには、音楽だけの力では足りない。何らかの前提条件がある。それにはまずあなた自身が、その音楽に感動するための素養、経験、才能、そうしたものを持っている必要がある。
この当たり前の事を思い出すだけでも、「音楽が感情を生み出す」という表現が(それが間違いとは言えずとも)何らかの前提をすっ飛ばしているのではないかと、疑う事ができるはずだ。
その音楽を聴くより前に、あなた自身が、その音楽に反応できる感情の種を持っている。もちろんそれを芽吹かせたのは他ならぬ音楽であるから、音楽の重要性を疑う必要はない。しかし同時に、その感情の種をどうしてあなたは持っていて、他の人は持っていないのか。その種をどうしたら生み出し、あるいは植え付ける事ができるのか。そうした事に、多くのミュージシャンや音楽関係者も悩み続けているのではないか。
つまり、多くの人は「音楽の力」を過大評価しているのではなく、「その音楽に感動できる自分の力」や、「その感動を最大化させる状況の力」を過小評価している、のである。結果として、その掛け合わせで生み出される音楽の最大の力を過小評価している。
世界中の人が同じ1つの音楽で感動していないという事実を直視するだけで、こうした考え方に行き着くわけだ。
でも、まだ納得していない?そうだろう。
そこで、今から1つの実験を行う。
私はあなたに知らない音楽を聴かせる。その上で、その音楽に感動するための種を、後から植え付ける。そうすることで、「同じ音楽を聴いているのに、感情の動きが異なる」事を体感して欲しい。
音楽で感動させる条件設定の天才、Fulton Lee
知る人ぞ知る、多分この記事を読んでいるあなたは知らない(知ってたら私と握手)、Fulton Leeという天才の作る音楽について。
まずは以下の曲をSpotifyで聴いて欲しい。
いい曲だよ。ただし飽きたらすぐ止めて良い。
彼はシンガーソングライターとしても高い才能を持っているが、友人に好きな音楽をプレゼンする難しさを私はわかっているので、無理にこれを全部聴けとは言わない。今のところは、いい曲だな~、何がそんなにいいんだろう?くらいで構わない。
さぁ、この曲であなたの感情はどれだけ動いただろうか?
次に、同じ音楽を、この音楽に強く反応する感情の種を持つ人間を見つけてきて、その人の目の前で演奏している、次の動画を見て欲しい。
(Instagramが見れない場合はXでも同じ動画がある)
何が起こったか、お分かり頂けただろうか?
私はこれを見返す度に泣きそうになってるんだが。
英語がぱっと読めなかった人のために捕捉すると、まず最初に彼は「SIT HERE IF YOU FEEL LIKE GIVING UP(何かに諦めそうになっている人、ここに座って)」と書かれた看板を持っている。
ドレッドの男性が何かに思い詰めたような表情で「そりゃ俺の事だよ」と言ってそこに座る。一体こいつ(Fulton Lee)は何をしてくれるんだ、芸でもやるのか、といった面持ち。
そこでFulton Leeはギターを取り出し、歌い出す。歌詞に感情を乗せて、今にも挫けそうになっている1人の観客に、「夢破れたかもしれない。自分が夢を叶えられるなんて信じられなくなったかもしれない。でもそんな事はない。あなたはすぐ近く、本当にもうすぐの所まで来ている。諦めないで」と語りかけるように歌う。
私が言葉で書くといかにも胡散臭い、ありきたりな励ましかもしれない。しかし彼の音楽はそれを真実であると確信させる強さを持っている。挫けそうになっていた男性は「マジで心に響いた」「俺は諦めない」「お前も今やっている事を信じて続けろよ」と感動のハグをして別れる。
これだよ!!これが「音楽で感動する」って事なんだ。
私はこの動画を発見した瞬間、Fulton Leeが音楽の本質を非常に良く理解しているシンガーだと感じた。もちろん、まずもって音楽が良い。彼の声の心地よさやリズム感は完璧だ。だが、「それだけでは音楽の価値が万人に伝わらない」と彼はわかっていた。
だから、単にSpotifyで配信して「俺の音楽はこんなに良いのに誰も聴いてくれない」と愚痴をこぼすのではなく、現実の路地に立って、その音楽に感動する心を持っているたった1人の観客を探した。
音楽が真価を発揮するのには、音楽の方だけでなく、客の方にこそ条件がある。その条件を端的にボードに書き、そしてその感情の種を見事に音楽で咲かせてみせた。
すると不思議な事に、その感情の種を持っていなかった私のような人間ですら、それが花開く様子を見て「この音楽にはこんな力があるのか」と感動する。もちろん、動画を見てもなお共感できない人もいるだろう。椅子に座ったドレッドの男性と、それを傍目から見た我々ではまだ距離が残る。しかし最初にSpotifyでそのまま音楽を聴いた時とは違って、ぐっとこの音楽の価値が感じやすくなったのではないだろうか。
Fulton Leeはこの他にも、「今日が嫌な一日だった人はそこに立って」という看板を掲げて励ます歌を歌ったり、類似の施策で軒並み数十万いいねを集めており、Instagramのフォロワーは240万人というインフルエンサーである。気になったら是非他の動画もチェックしてほしい。最近はこういう系より、即席でローカルなミュージシャンとコラボする企画のほうが盛り上がっているが、そっちもそっちで面白い。
共鳴する瞬間があってこそ音楽は意味を持つ
これで実感してもらえただろうか?音楽が心を動かすというのは、「その音楽に感動できる自分の力」や、「その感動を最大化させる状況の力」があってこそなのだ、という事を。
あなたも是非、自分の好きな音楽との出会いや、アーティストのファンになったきっかけを、思い出してみて欲しい。
自分が辛かった時に、「何かに勇気づけられたい」と思ってたまたま耳に入ってきた音楽が、力強くそれを後押ししてくれたから、かもしれない。
自分が夢を持っていいのか?とウジウジしている時に、まっすぐに夢を追いかけるアイドルの姿が音楽で誰よりも輝いて見えたから、かもしれない。
あるいは、くだらない世の中に「くだらねぇ」と言ってくれる音楽とか、言葉では表現しきれない悲しみを表現してくれる音楽とか、端的に「音楽って最高だよな」という思いに共鳴する演奏だとか。
つまるところあなたが「音楽の価値」だと思っている事の半分は、まずもってあなたの方に「その音楽に共鳴できる心」があったという状況が大事なのだ。そして、その状況ではない人に音楽だけで聴かせても、その奇跡の共鳴がいつも必ず起こるわけではない。だからこそ、音楽だけで(無条件に、誰でも)同じ感情が生み出されるわけではない。
こうした「音楽以外の要素」に価値の源泉を見出す行為は、音楽を愛する人からすると邪道に思われるかもしれない。
しかし実は、同じような事は古くから提唱されている。音楽教育および音楽社会学の領域で影響力の高い1988年の書籍「ミュージッキング」だ。
音楽は〈行為〉である 「ミュージッキング」の考え方

本書は、作曲家として長年音楽教育に関わってきた著者のクリストファー・スモールが、音楽作品というモノに本質を見出そうとする西洋的な音楽観を徹底的に批判する内容となっている。
まず序盤でいきなり、以下のような根源的な問いが投げかけられる。
しかしこの問い━━実際には「音楽の意味とは何か?」と「人間の生における音楽の機能とは何か?」という二つの問いなのだが━━について、満足な答えが与えられたためしがない。 この失敗のわけは非常に単純なところにある。━━これらは間違った問いなのだ。なぜなら、この世に音楽などというモノはないのだから。
音楽とはモノではなくて人が行なう何ものか、すなわち活動〈アクティビティ〉なのだ。一見疑いなくそこにあるように見える「音楽」という概念は実は作り物であって、これは音楽を生み出すあらゆる活動や行為の抽象概念でしかない。
先に断っておくと私はまだ本書を最後まで読めていない……ので、本書の真に意味するところは、といった言及は控えるが、とにかく序章から音楽の(特にクラシックコンサートの)常識を疑い、覆すような視点とその証拠の羅列となっている。
書評では、以下のように評されている。
なかでも聴取の能動性を強調したことは高く評価できる。これが、第二の意義である。聴取の重要性はこれまでにも指摘されてきているが、表現活動に比較すると、受動的な行為とみなされがちである。聴取を能動的で創造的な行為とみなす方向は、音楽教育の今日的課題にもつながるものである。
現代において、音楽は能動的に発信するミュージシャンと受動的に享受するリスナーという関係で固定化されてしまっている。ゆえに私がやっているような「インタラクティブミュージック」なるものは特別な体験かのように持て囃されたりもするわけだが、音楽の成り立ちを辿っていくとそうではなく、むしろ現代のこの「演奏家と聴衆の区別」は商業的な要請から成立したものだという事がわかる。
中世からルネッサンスにかけてのキリスト教会音楽と同様、貴族社会の音楽も、共同体が行なう神への捧げものだった。聖歌隊は会衆に向かってではなく、会衆に成り代わって歌ったのであり、会衆はそれに「アーメン」と賛成を表わしたのだ。もちろん今日でも、会衆全員が歌う時に聴衆など必要ない。
そうした形式のミュージッキングでは、入場料など発生しようがない。ためしに、あなたがその場にいられるかどうかを想像してみると良い。──それはあなたがその共同体の一員かどうかにかかっているのだ。一七三〇年頃に始まったコンサートという場も、はじめは極めてプライベートなもので、そもそもが、社会的なステータスや評判の面で限定された人びとのサークルだった。チケットを売るという習慣、つまり入場料を払うすべての人に門戸を開くという習慣は、重商主義が勃興しつつあった十七世紀後半のイングランドに起源をもつが、このやり方が当たり前になったのは、十九世紀もようやく半ばに差しかかった頃だった。
もともとは、音楽が求められる場面では音楽より先に共同体(コミュニティ)があり、彼らが神への祈りだとか収穫の祝いだとか、何等かの気持ちや願いを共有したいという要請から始まっていた。現代の音楽活動とは主従がまるで逆なのだ。まず先に「思いを共有したい」という主体が存在し、そこに音楽が当てられる。ゆえに、そのコミュニティの中に「そう思いたくない」というアウトサイダーが一部存在することは、十分に想定される事だった。だからこそ、その音楽に異を唱える事も含めて、聴取する側の能動性というものが当たり前に介在しているのである。現代のコンサートホールの聴衆席と、過去に音楽が奏でられた場所を比較する次の文書でも、その違いがよく現れている。
聴衆席は、人びとが互いにコミュニケートしにくいようにデザインされているだけではない。聴来は、ここがもっぱら聴くための場所であって、口答えをするための場所ではないことを、いわば教えられている。演奏だけがただじっと凝視されるスペクタクルなのであって、聴来はその成り行きに何の貢献もできない。一九一三年、パリで初演されたストラヴィンスキーの<春の祭典>に対する騒乱は有名だが、これは西洋クラシック・コンサート文化の歴史上、聴衆が演奏家に異議を唱えたほとんど最後の例だった。聴衆の口答えはすでに遠い過去のものなのだ。今日の聴衆はそのグッド・マナー、つまり自分たちに与えられた身分をわきまえて静かにしていられることを、誇りに思っているほどである。
チケットを売ってコンサートを開催し、その音楽を聴きたいという思いが共通するその場限りの集団を、見知らぬ者同士で形成するという奇跡が成り立つ事が当然となったのは、歴史的に見ればごく最近のことなのだ。
ゆえに、そうした現代的な「理想化された音楽活動」を、音楽の本来の姿であると錯覚していると、そこで周縁化されている「その音楽で感動できない人・状況」の事を忘れがちだ。
これは先のnoteで提示した、音楽が「空気」を支配するという性質に関わるものでもある。
その場にいるとウッカリ「全人類がこの音楽でつながれば平和になるのに」と思ってしまうし、そう思わせる力が音楽にある事は否定しないが、それはこうした空間が「その音楽を別に好きじゃない人」を最初から招いていないから成り立っているのであって、もしこれが際限なく多くの人の耳に入った場合は騒音だとかそうじゃないとかで争いになるだけだ
現代の音楽体験の多くが、そうした異議申し立てに見舞われることなく、すべからく感動を共有するイベントとなっているのは(もちろん私自身も消費者としてそれを望み、その願いを資本主義が実現したからであるが)、音楽が始まるよりも以前に、そうした参加意欲(=購買意欲)のある聴衆を計画的に宣伝して集め、安心できる場所を提供し、聴衆が音楽に没頭できる特殊な状況を生み出している数多の裏方の努力があってこそなのだ、という事が「ミュージッキング」では強調されている。
現代社会の企業の例にもれず、ホールの内部にも社長、管理職、労働者といったヒエラルキー的な組織がある。かれらが共同で行なっているのは、シーズンのコンサートを滞ることなく進めてホールを運営すること、しかもあたかも労せずしてそれを達成しているかのように見せかけることである。会計士、法律家、書記、秘書、コンピューターのオペレーター、チケットのもぎり、案内係、プログラムの販売員、電気工、音響係、ピアノの調律師、その他の技術者、ピアノを動かしたりオーケストラの座席を並べるたくましい男たち、バーやレストランのスタッフ、掃除夫。──コンサート·ホールだけではない。ニーベルングたちからなる現代の産業国家は、学校も、工場も、会社も、空港も、かれらのような薄給の人びとのサービスなしにはやっていけないのだ。
かれら裏方の大半は私たちの目には見えないか、たとえ目に入ったとしても気づかれない。しかし、私たちがそこで静かに巨匠の音楽を鑑賞できるのも、その全員が日常生活から切り離された魔法の世界というイリュージョンをつくりだすために働いてくれているおかげなのだ。だから、かれらの全員がその場のミュージッキングの本質に関わっている。かれら同士の仕事上の関係と、かれらと聴衆との間の関係は、ホール内全体の関係に欠かすことができない。つまり、パフォーマンスが生み出す意味の本質を、部分的にではあるが、担っているのだ。
こうした視点をもって、今一度問うてみよう。
あなたが「◯◯の音楽に感動した、これは音楽が感情を生み出したんだ」と言った時に、その「音楽」の指し示すところに、作曲者や演奏家のみならず、そのコンサートという場を作り上げ維持するすべての人々や、あなたを含めた共通の感情の種を持つ多くの人々を呼びかけ集めるという奇跡を成り立たせる多くの人々の「活動」は、含まれていただろうか。
もちろん、基本的にその活動に参加する全員が「音楽の力」を信じているからこそ成り立っているわけで、繰り返すがそれによって音楽の価値が否定されるわけではない。
しかし、その「前提条件」というのが、裏方のこうした努力によって何か当たり前に存在するかのように、音楽にとって所与のものとされている事は、音楽を本当に届けたいと思うのであれば疑ってかかるべきなのだ。
だから先ほどのFulton Leeは、自分の音楽がまだそうした裏方を多数動員するほどに有名でない事を理解した上で、「自分の音楽が真に響く人を探す」という裏方の努力を自ら行い、音楽が人の心に響く前提条件を満たそうとした。こうした演奏以外の工夫がまさに、音楽の力を最大化させようとする真っ当な方法ではないかと思えるのだ。
真剣に聴けば、ほとんどの音楽は素晴らしい
現代のコンサートは、その音楽を真剣に聴きたい人だけを集めて行われている。だからその場の全員が音楽に感動し、奇跡的な一体感を生み出す。
ここで、これを逆転させた仮説を提示したい。すなわち、
ほとんどの音楽は、
聴衆がそれを「真剣に聴くべき価値のあるもの」として聴く限りにおいて、
人を感動させる力がある。
全く同じアーティストの同じ音楽であっても、何等かの外部からの情報や舞台装置を用いて、「この音楽は真剣に聴くべきものだ」と思わせる事ができたならば、人はそれに感動するようになる。
これにはいくつか留保が必要だ。まずもって「素晴らしい音楽」である必要はある。が、現代は素晴らしい音楽や才能あふれるミュージシャンが沢山いる。にも関わらず、対価を得られる音楽というのはごく一部に留まっており、しかもその多くがSNSでバズったり人気作品とタイアップするなどの、音楽以外の理由で決まっているように見える。
果たして一体誰が正当に「音楽としての価値」や「音楽家の実力」を評価しているのだろうか?
「音楽の実力」という幻想
ヴァイオリンの超有名なソリストが地下鉄の駅で1人超絶演奏をしていても誰も足を止めなかった……という逸話に始まり、「音楽の実力」が正当に評価されていない、という文句は古今東西に存在する。書籍「ミュージッキング」においても、
リストもパガニーニも真っ青のテクニックを身につけた野心的な若者が、毎年カレッジや音楽学校から多数排出されてはメジャーなコンサート・ツアーとの契約に挑戦しているというのに、コンサートやオペラの世界でタレント不足が続いているなどということが、果たして考えられるだろうか?(中略)超絶技巧演奏家〈ヴィルトゥオーソ〉と、その労働から利益を得ている人びとが、ヴィルトゥオーソの数を制限することで儲けを手にしていることは、明らかだ──これは、ダイアモンドやランの価値がその稀少性によって保証されているのと、同じ原理である。「芸術家」や「ヴィルトゥオーソ」という肩書をもつとはいっても、ある種の資格がその職業的地位を保っているという点、同業者の人数に制限を設けることでサービスの対価を安定させているという点に関しては、他のどんな職業とも変わらないのである。
と言明されている。
つまり、一昔前であれば十分に多くの人を感動させたであろう卓越した演奏であっても、その全く同じ音、ともすればそれを超える音であっても、なんとかコンペティションで一位などという箔がついていなければ、価値がない……のではなく、それを真剣に聴こうという態度を引き出す事が難しいという現実がある。
我々としては、毎年恒例の芸能人格付けチェックで話題になる、プロオーケストラと学生オーケストラの格付け問題を思い出したほうが早いだろうか。

背景情報を秘匿した上で、両方を(芸能人のプライドまで賭けて)真剣に聴くと、両方ともレベルが高すぎてどちらが端的に「良い」などとは言い切れないのである(私も毎年、観ていて「こんなんわかるかよー、意地悪しないでよー」とソワソワするので苦手)。
こうした現実を多くの人が知っていても、やはりプロとして演奏活動が成り立つのは、さまざまな登竜門をくぐり抜けたという社会的なステータスを持っている(当然実力も持っている)方だけなのだ。
音楽を真剣に聴くための条件
私自身、自分が最も好んで聴いているジャズの領域で、このような「自分の真剣さの違いで音楽への感動が変わった(自分の態度を改めた)」という、少し恥ずかしい思い出がある。
それは、今では私の敬愛するジャズミュージシャンの1人、Patrick Bartleyとの出会いだ。しかし、出会った時に彼が吹いていたのはジャズではなく、なんと、日本のアニソン、あるいはゲーム音楽だった。
このツイートでバズった事で「見たことある」という人も多いかもしれない
一流ジャズプレイヤーが水樹奈々の”COSMIC LOVE”で紐解くアニソン論。彼のJ-POP論にも唸らされたけど、実際に演奏しながら分解されると解像度が全然違う。アニソンの聴き方が変わる。(1/2) pic.twitter.com/IdQ0WjzArK
— LiT (@LiT_Japan) April 8, 2020
このフロリダ出身の黒人少年が、ドラゴンボールやソニックといったアニメやゲームとの出会いをきっかけに、日本の音楽ひいては日本文化そのものにめちゃくちゃ詳しくなり、その傍らなぜかサックスプレイヤーとしても尋常じゃなく上手くなり、それが融合してJ-MUSIC Ensembleという活動を始めてペルソナ5のジャズアレンジアルバムを出し、それがきっかけで知ることができた。
私はまず最初にこのペルソナ5のジャズアレンジアルバムを購入し、周りにも勧めたりして、「Patrick Bartleyっていう、日本のゲーム音楽とかアニメ音楽の事をすげーわかってるジャズミュージシャンがいるんだ」という感じで、ちょっと通ぶっていた。
その一方、白状すると、決してこれをジャズとして真剣に聴いてはいなかった。なぜって、まずゲーム音楽だし、私はペルソナ5の音楽が元々好きだったから、それがさらにアレンジされると楽しいよね、くらいの軽い態度でしか聴いていなかったのだ。
それが、「あれ?話変わってきたな」となったのは以下の動画を見た時。
Patrick Bartley - Alto Sax
Emmet Cohen - Piano
Philip Norris - Bass
Kyle Poole - Drums
あれ?ガチのやつじゃん。
ジャズファン以外にちょい説明が必要だと思うので解説すると、まず舞台が押しも押されぬブルーノート東京。日本のジャズクラブ最高峰。映画化もされた「ブルージャイアント」でも主人公はここを目指して演奏している。
そしてピアノがあのEmmet Cohen。まだ36歳と若いのでレジェンドと言うには早いけど、間違いなく現代のジャズシーンのど真ん中で大活躍中の超有名人。他にも、ベースPhilip Norris、ドラムスKyle Poole、全員がジャズのスタープレイヤーたち。そんな中に、あれ?「オタクに理解がある黒人サックスプレイヤー」という認知でいたPatrick Bartleyが、センターで吹いている。しかも、いや、超絶に上手い。
ここに来てようやく気づいた事として、Patrick Bartleyは、オタクに理解があるとかいう以前に、ジャズのサックス奏者として世界レベルで通用する本当のトッププレイヤーだったということ。そして、ゲーム音楽を吹いている彼をさんざん聴いていたのに、それを甘く見ていた自分。
……言い訳をするなら、もちろん彼のプレーはジャズをやる時とゲーム音楽をやる時ではスタイルが違う。ジャズに許されるほどの暴れっぷりは他の音楽にはないわけで、ジャズの演奏を聴いてようやく比較ができた、という事はある。しかし、一度そういう「箔が付く」情報が付与されると、彼のゲーム音楽アレンジを聴く態度が変わるというもの。
彼は世界的ミュージシャンなのに、なぜかSplatoonのガチ勢でもある、そしてSplatoonの音楽をノリノリで吹いている。
いや……本当に上手い。この頃にはもう彼の「実力」を理解していたため、最早単なるゲーム音楽アレンジとして聴いていない。おそらく一発撮りではないかという勢いでありながら、音色のカッコよさもフレーズのバリエーションも、リズムも何もかもすごい。……と、さも自分は音楽の価値をわかりますという顔で喋っているが、既に告白した通りこれは全て後知恵だ。仮に今もし、何の事前情報もなくこれを聴かされたら、「ふーん、Splatoonの良さをわかってくれるサックスプレイヤーがいるんだ、いいじゃん?」くらい余裕ぶったコメントをしそうな自分が浮かぶ。
音楽への態度は外部情報から作られる
このように、クラシックの世界でも、ジャズの世界でも、ある意味「純粋な音楽そのものの価値」を追い求めているように見受けられているジャンルですらも、音楽のみからその「絶対的な価値」を見いだせる人というのは少なくて、外部からの評価を頼りにまず最初に「どれだけ真剣に聴くか」を無意識に選択している。
グラミー賞を取りましたとか、
有名な誰々と共演しましたとか、
ブルーノート東京で演奏しましたとか、
フジロックフェスに出演しましたとか、
ニューヨーク在住ですとか(※不思議に思われるかもしれないが、ニューヨークに住めることそれ自体がステータスになる業界が存在する)、
もちろんそういうミュージシャンをフックアップする一部の目利き達は本当に音楽そのものを聴いている、と言えるのかもしれない。そうした人達はどんな音楽でもまず「真剣に聴く」という職業的な態度を身に着けているのだろう。
だが多くの人にとっては、そもそも「この音楽を真剣に聴くべきかどうか」という態度が、そうした社会的なステータス情報によって定められている。私自身それを恥ずかしくも認めたように、それは全くもって珍しい事ではない。そして願わくば、恥ずかしいことでもない、と言いたい。
私たちの認知資源には限りがあるために、例えばグラミー賞を受賞したアーティストの曲をとりあえず真剣に聴くとしても、グラミー賞にノミネートされたアーティストをすべて同じ態度で聴いて回ることは難しい、そうやって相対評価で聴くべき対象を見定めてしまう。
これは非常に厳しく悲しい現実のようにも聴こえる。
しかし、要は何でも良いから「真剣に聴いてもらうチャンスがあれば良い」という事でもある。
「タイアップ」といった手法は邪道に思われている人もいるかもしれないが、今やポップスやロックが市民権を得るために有効な道筋として広く認知さえている。ポップスやロックはコンテストで順位が決まるようなものでもない。各々が自らの言葉で誰かを共感させる必要がある。そのフックはSNSだろうとゲームやアニメだろうと、どこにあっても良い。そのどれかが引っかかれば、「この人の音楽は真剣に聴くべきだ」という態度の人間を、すなわちファンを増やすことができる。
同じアーティストの同じ曲であっても、あの時は何も響かなかったのに、出会い方を変えた途端に「これは自分のための音楽だった」と気がつく、ような事も起こり得る。そうするとまるで、音楽そのものの価値は関係ない、かのように思えるが、そうではない。それは大事な事の半分であり、もう半分は聴衆の方の能動性や真剣さにこそあって、それを発揮するのが、いつ、どのようなタイミングになるのかは、音楽次第ではなく、聴衆を取り巻く環境次第なのだ。
自らの態度を変えて同じ音楽に感動する体験
あなたは、「ショパンの曲で感動した経験」はあるだろうか。
もしあなたに、今でも今度でも良いから、20分ほど時間があり、この「音楽に出会い直す体験」をしたいのであれば、以下の動画を通して見て欲しい。
日本語字幕もつけられるのでご安心を。
ベンジャミン・ザンダーの「音楽と情熱」
この老指揮者は「実験をしよう」と言い出す。しかも「私は結果を知っているので、実験とは言えないかもしれない」と自信たっぷりに。

クラシック音楽のファンは人口のわずか3%しかいないという現実。しかし、誰の耳も悪いわけではない、と彼は言う。

そして今から、この会場の誰一人残さず、クラシック音楽を愛し、理解するようにさせる事ができる、と宣言する。

そして彼は、Youtube越しに見る私も含めて、スタンディングオベーションをする会場全体を、ショパンの音楽で感動する人間に変質させた。わずか20分でだ。それは彼が聴衆の「真剣さ」を確実に引き出すための、素晴らしくユーモアと愛が溢れるトークを聞かせたためである。
そして最後には、万雷の拍手の中で、「クラシック音楽とは、みんなの、万人のものだと確信した」と締めくくる。

私はほとんど確実にこの実験が再現できると思っている。
私自身、クラシック音楽は吹奏楽部とかで多少経験がある程度で、ファンとは言えないほど遠ざかっていた。そんな折に、この動画を見て泣きそうになった。なので、時間がある時に、是非それを体験して欲しい。
「音楽の力」で感情は生まれるのか?
という冒頭の問いに立ち戻ろう。
それは、まずもって聴く人による。
聴く人のほうに「勇気づけられたい」等の感情の種があると、音楽がそれを花咲かせる事で大きな感情が生まれたりする。
そして、聴く場所による。
コンサートホールなどで「この演奏に耳を傾けるべきだ」という社会的なルールが発動する場合に、人は真剣に音楽を聴く準備が整う。同じ音楽が路地で演奏されていても、決して同じ感動が生まれるわけではない。
そして最後に、聴く態度による。
奏者に関わるステータスの情報や、あるいはその音楽が何の感情や世界観を表している、などという付随情報によっても、音楽を聴くときの態度は大きく変化する。そして、音だけでは感じる事がなかった、「自分の中にあったはずの感情の種」が掘り起こされ、音楽と共に芽吹いていく。
こうして振り返ると、
音楽とは、決して音だけから一方的にその価値や体験が定まるものではない。単なる「聴取」という受動的と思われてきた行為の中にも、さまざまな場合があり、それによって心がどう動くかは一意に定まらない。
音楽とは、楽譜や波形などのデータやモノではなく、演奏する人と聴く人との関係性から生じる複雑な現象であり、それを様々な形で変質させ再現させようとする多くの音楽関係者(評論家からコンサートスタッフから音楽を勧める友人から何から何まで)の〈行為〉の総体ではないだろうか。
音楽は「言葉」と似ている
最後に、こうした理解を端的に表すとしたら、こう言ってしまっても良いかもしれない、と思いついた。
音楽は「言葉」のようである、と。
音楽は「言葉にならない」思いを表現できる、と言われるわけなので無粋な比喩かもしれない。しかし、
聴く人よって伝わり方が変わる。
聴く場所によって伝わり方が変わる。
聴く態度によって伝わり方が変わる。
これらの事は、「人の言葉」ではごく当然の事として考えられているのではないか。
極端な話、「好きだ」と言われた時に嬉しい人と、嬉しい場所と、嬉しい伝え方というものがあり、それらを外すと途端にハラスメントになる、という性質が言葉にはあり、それは音楽にも似たような面がある。
ある音楽は大雑把に「お前ら大好きだ」という事を歌っている、とする。そのアーティストのコンサートは、大好きだと言われたい人達が大勢集まっていて、キャーキャーと叫んでいる。しかし、別にお前にそんな事言われたくないという人は外にたくさんいて、それを誰彼構わず言い寄っていたら迷惑でしかない。これが騒音である。しかし、それもまた言う人の社会的ステータスが明らかになって、年収何千万であるとかどこぞのインフルエンサーであるという情報があるだけで、ちょっと真剣に聞いてみようかしら、と態度を変えられる場合もある。
実に世俗的な例えだが、このような性質は音楽に実によく当てはまる。
人によって欲しい言葉があり、それが特定の人からは欲しくても違う人からは欲しくない、今欲しくても違う時には欲しくない、だから「言葉の価値」というものがどこにあるのかというと、それは関係性の中にある、と理解するべきだろう。
だから、音楽にも価値がある。言葉にも価値がある。しかし、伝え方を選ばなければ、その真価が発揮されない。したがって感情も思い通りにはならず、相手との関係性を気にする必要がある。そして、それは奏者(話者)側の問題だけでなく、聞く側の問題でもある、というわけだ。
この比喩が思いついたのは、つい先日の「ゲームメーカーズスクランブル」において、インディーゲーム音楽の作編曲を行うつよみーさんの講演「ゲームのコンセプトを音楽へ落とし込む思考プロセス~『Öoo』『ElecHead』のサウンド制作事例を交えて~」を聴講した際に、音楽の制作方法について「プレイヤーにどんな声掛けをしたいか」を考える、というユニークな手法を提案された事に発端がある。
音楽とはゲーム制作者からプレイヤーへの声掛けである、という捉え方には大きく感銘を受けた。そして、ゲーム制作者はもちろん、そのゲームでプレイヤーがなんと言って欲しいのかを最も良く理解している。それが「君ならできる」なのか「やれるもんならやってみろ」なのかも。
つよみーさん @tsuyomi0508 の講演、素晴らしかったー!
— じーくどらむす/岩本翔 (@geekdrums) August 30, 2026
音楽で表現したい事を明確化するために、「製作者として、プレイヤーにどんな声かけをしたいか」という質問に落とし込んだのが革命的。
「声かけ」なら、音楽知識とか関係なく思いつくし、ターゲットが明確。#ゲームメーカーズスクランブル pic.twitter.com/TVaFqGIClY
ここまで読んで、音楽の純粋な力を信じていたあなたも、それを真剣に聴いて感情を揺さぶる事ができる自分自信の力と、それを自然に生み出す環境を作り出している関係者すべてに感謝するという、新たな視点がもたらされていれば幸いだ。
おわりに
最後に宣伝だが、私自身、「音楽とゲームの融合」という題目を掲げてインディーゲーム開発を行っており、過去に作ったゲームはいずれも上記のような「プレイヤーの真剣さという態度を引き出す事で、素人の自分が作った音楽の価値を法外に高く感じさせる」という手法で定評がある。もし良かったら、騙されたと思って3分、私のゲームをプレイしてみてほしい。
「ノベルゲームって、会話のリズムを調整できることがゲーム性とも言えるから、音楽になるんじゃないかな」という直感から、「ボタンを押さないと音楽が止まる(=プレイヤーが音楽を進める)」ゲームを作ったんだった。
— じーくどらむす/岩本翔 (@geekdrums) March 2, 2019
>>Space to go by geekdrums https://t.co/tnBldLZzgz pic.twitter.com/vwIhLhs3Bg
「もしこの音楽をCDで出したとしたら、買う人は0人だろう」と私自身断言しながらも、このゲームに対して「音楽が最高だ」とコメントする人が数百人はいる、という作品だ。
とにかく、音楽をプレイヤーが演奏したり、ゲームプレイから音楽を生み出したり、あらゆる方法で「この音楽は、自分のものである」という身体性を作り出す事で、その音楽の純粋な価値とは関係なく音楽に対する愛着が生まれ、なんだかとても意味のあるものに聴こえてくるのだ。
【新作公開】「Same Game, Different Music」を公開しました。「さめがめ」という古典的なパズルゲームの音楽的再解釈を行ったもので、ブロックを消す順番とスコアに応じて毎回違った音楽が生成・展開されていきます。https://t.co/Kj1nzlhcGq pic.twitter.com/s1NtA79Z6V
— じーくどらむす/岩本翔 (@geekdrums) December 11, 2022
もちろん私は音楽の素人ではない。作曲は仕事として一切やっておらず、その点でアマチュア以下と言って良い。音楽経験はそれなりにあるので、自作ゲームの感情を表現するための最低限の音楽は作れる。あとは、音楽の方を磨くのではなく、それを聴く方の感情や態度をコントロールしまくるという、邪道を極めようとしている人間と思っていただければよろしい。
小作品ばかりですが、色々作ってるので、是非どうぞ。
「音楽とゲームの融合」を目指して、15年のゲーム開発歴で作ってきた数々の作品を、1本のデモリールにまとめました!
— じーくどらむす/岩本翔 (@geekdrums) December 6, 2025
パズルの攻略が音楽になったり、音楽で攻撃したり音楽に攻撃されたり、色んな方法でゲームプレイから音楽を生み出しています。#スーパーゲ制デー #indiedev #musicgame pic.twitter.com/NAWEi1oLc5
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