「明日行け」から始まった――駒大苫小牧・香田誉士史(連載#1)
【この話で読めること】
26歳の香田誉士史は「明日行け」の一言で、苫小牧へ向かった。
2年のはずだった赴任が“戻れない選択”に変わっていく。
最北のグラウンドで、香田の戦いが始まる。
1994年10月。香田誉士史は、いずれ故郷の佐賀に戻るつもりでいた。
大学を出て社会科の教員になる。できれば母校・佐賀商業の野球部監督にもなりたい。そんな青写真を描きながら、駒澤大学に残って野球部のコーチを続けていた。商業科の教員免許を取るためだ。
その日、駒大野球部の総監督・太田誠から呼び出しを受けた。
「北海道に駒大苫小牧ってのがある。手伝いのつもりで2年間ぐらい行ってみないか」
香田は戸惑った。苫小牧が北海道にあることは何となく知っていたが、駒大苫小牧という高校があることも、苫小牧がどこにあるのかも、正直よくわからなかった。
戸惑う香田に、太田は言った。
明日行け
「秘蔵っ子を貸してやる」
当時、駒大苫小牧は岐路に立っていた。
1994年秋、学校側は野球部スタッフの総入れ替えを決めた。長く低迷を続けていた野球部を、一から立て直すためだ。相談を受けた太田は、こう答えたという。
「俺の秘蔵っ子を貸してやる」
香田は26歳。駒大野球部で4年間、さらにコーチとして残った期間を含めれば、太田とは5年以上の付き合いになる。太田にとって香田は、手塩にかけて育てた教え子だった。
契約は2年のはずだった。
香田はこの頃、周囲にこう話している。
「ゆくゆくは佐賀商で監督をやりたい」
「苫小牧にずっといるつもりはない」
2年間、北海道で経験を積んで、佐賀に戻る。それが香田の計画だった。
ところが、最初の春が訪れた段階で、香田は正式に駒大苫小牧の社会科教員として採用される。商業科の免許取得は断念せざるを得なくなった。
この時点で、佐賀へ戻る線は消えた。
香田が初めて駒大苫小牧のグラウンドに立ったとき、部員らしき生徒は見当たらなかった。冬場はオフで、練習もまともに行われていない。
勝てそうな要素は何一つなかった
香田は後にそう振り返っている。
香田は部員たちに言った。
「おまえら、野球部じゃねえよ」
そして、こう続けた。
「おまえら、まだ野球やる資格ねぇ」
野球を教える以前の問題だった。まずは挨拶を徹底させるところから始めるしかない。
最北の地で、香田の戦いは始まった。
なぜ「野球以前」から叩き直したのか
香田がここまで言い切ったのは、根性論だけではない。
後年、香田は自分の原点をこう語っている。
中学2年で父を亡くし、素行が荒れ、内申に響くほどだった。推薦では佐賀商に落ち、一般で入り直した。
「野球がなかったら、私はたぶん別の道に行っていた」
野球で人は変わる――。
その確信があったからこそ、香田は技術より先に、「野球をやる資格」から問い直そうとした。
(出典:『私の高校野球』香田誉士史)
雪に覆われた北海道で、香田は何を変えようとしたのか。
前話:(連載第1本です)
次話:第2本「雪の上で野球をする」
「雪の上で野球をする」――駒大苫小牧・香田誉士史(連載#2)|高校野球名将チャンネル
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