【不倫から学ぶ道徳の大切さ】
【はじめに】
少し真面目に。
真面目な文章。
不倫から学ぶ道徳の大事さ
作者: 暮葉畏啓
掲載日:2026/08/26
今日、 Youtbueで「ジャックポット」と呼ばれるチャンネルに上がっている動画を三本ほど視聴した。
このチャンネルは主に不倫の被害者に寄り添い、加害者との話し合いを動画として提供しているチャンネルである。
最初の1、二本を見ている時、私は不倫をされた側の感情面の部分やその後の展開はどうなるのか、不倫の加害者被害者はどういう思考をしているのかなどを中心に見ていた。
3本目の動画、ダブル不倫とDVの動画では加害者側の考え方を中心に見ていた。
思ったことを言いたいと思う。
不倫という行為には人によって捉え方にムラがあるのではないかと私は感じた。
人間の価値観は当人の過去の経験やこれまでの環境によって少なからず形成され、それゆえに個人差がある程度存在する。
三本目の動画では特に顕著だったのだが、
不倫をしていた妻が不倫における不貞行為を「遊び」と一貫して呼び、謝罪も誠意も被害者夫、相手側の妻にも見せることはなかった。
挙句の果てに、「不倫をされる側にも責任がある。」と言い始め、一緒に不倫をしていた男の妻に対して「あなたは満足させられなかったんじゃないの。裏でなんて呼ばれていたかわかる?」「『控え』だよ。」とまで言っていた。
ここでわかることは不貞行為があったかどうかなどの事実確認はほぼほぼYES NOで断定できるものだが、それに対する謝罪を示すかどうかなどは当人のものの見方に左右されてしまうということだ。
不貞行為や不倫というのがどういう条件で成立するのかという前提を明確に設けて議論をすれば、やはり結論はでる。
しかし、「では不貞行為は本当にそこまで大事(おおごと)なのか?」などの部分に関しては物の見方には個人差があるので、「不倫は謝罪をするほどのことではない。ただの遊びだ。」というものの考え方をする人も実際に存在する。
そして、こういう人に対して「謝罪をしてください」、「あなたはやったことの重大さがわからないのですか?」と言っても相手側は理解することができないから形式だけの謝罪にしかならない。それはあまり良くないことだと思う。
不貞行為をしたかどうかと言う事実確認と、それをどう捉えるべきかと言う価値観の話を並列で語るのは良くない。もちろん、このチャンネルもそこにはかなり気をつけているようである。
また一つ私が視聴していて妙に気になった関連性がある。
それは、不倫をする側とされる側の性格の違いである。
不倫をする側はかなり物言いが強かったり自我を強く持っているように見受けられたが、
不倫をされる側は総じて物言いが弱かったり、どうしても自分の気持ちを外に出すことが苦手そうだというふうに思えた。
私はどちらかというと、自我があって自分の主張などもあり、割と自分の気持ちを優先するタイプではあるので、自我が強くなくて、言いたいことがはっきりと言えないという人たちの考え方が正直まるでわからない。
そして、私だけでなく、私と同じタイプの人の一部は同じようにわからないと思う。
私のよう自我がかなり強い人というのは客観性よりも主観性が強くなりやすく、そうなるとどうしても自分本位になりがちになる。
それゆえ、自我が弱めな人に対して、私たちは彼らの心情を考えることをせずに主観的な衝動で発言したりしてしまう。それで関係が悪化する。
それは良くないと言える。
ここで問題になるのは、私たちが自我を持つことではなく、私たちが自分本位になってしまって視野が狭くなってしまうことである。
だからこそ自我が強めな人ほど客観的に自分を見たり、他の人が何を考えているのかということにもう少し気にかけるべきだと思う。
【後編】
私の個人的な話になるのだが、私には別の高校に通う、小学校時代からの幼馴染の友人、吉田がいる。
吉田は私とは対照的に自我がそこまで強くなく、自分もそれを気にしているようで、悪く言えばウジウジ体質だ。
そして私は吉田がなぜそんなにウジウジしているのかについて今も全く理解できていない。
相談に乗ることもよくあるのだが、
彼は見た目は私よりも普通なので普通に高校生のクラスメイトに話しかけられたりする。(私は見るからに不審者の佇まいなので怖がられてしまうが…)
吉田は話しかけてくれた人と仲良くなりたいとは思うものの、なかなか未来のことを考えたりして、目の前の友達とただ仲良く話すということが難しいようだ。というのも、相手のことを考えすぎてしまったり、客観的に自分を捉えることで自分に自身があまりなかったり、行動を起こすことのリスクを恐れているからだそうだ。
一方で吉田はかなり思慮深い思索家タイプでもあり、どんな大学に入りたいか、そのためにどうすれば良いか、などの一人で行える行動については誰よりも深く考えて行動している。ただ対人という状況でうまく動けないだけなのだ。
逆に私はかなり自由奔放なタイプで人生生きていればなんとかなる、幸せならOKです!に本気で共感してしまうタイプだ。
友達がいるかどうか、学校で孤立しているかどうかなどの観点に関してそもそも私は何の思い入れも持たない。
吉田からするとそう思う意味が全くわからないようだが、逆に私からするとなぜそんなものにわざわざ固執するのだ?と本気で思ってしまう。
吉田は大阪大学に合格し、国家公務員試験に合格して官僚になるのが目標で、そのために大学受験を頑張っているのだが、私の目標はそれと大いに違っている。
私は、創作が好きなので大学は情報系に入ってPCを学びつつ創作を鋭意行い、早々に自動車免許を取って長野県や他の県などに赴いて好きな作品の聖地巡礼をする。
そのドライブを同士と行い、夜中は好きな作品の談義をする。そして自分も同人誌を作ったりゲームを開発して頒布をし、サークル活動を楽しむ。
そしてそこで出会った人と同じ趣味を受け入れあって結婚をし、結婚式では自分や相手がたの親族や友人、サークルの仲間たちを呼んで楽しみたい。そして結婚後の暮らしでは、準都会にメインの家を置きながら、田舎での二拠点生活をしたい。田舎のやや寂れた土地で大きいだけの家の中で自然を感じながら空間のゆとりと共に過ごしたい。そこに創作仲間を呼んで夜まで語り合いたい。
一応大阪大学の基礎工学部情報科学科を目指してはいて、そこで得るPC関係の技能を用いてそこそこの企業のIT関係の仕事をしたいと思っている。
まあ大学受験でわざわざ阪大を目指しているのも特に理由はなく、せいぜい吉田と大学の食堂で一緒に飯を食いたいレベルの理由なのだが。
正直、情報系に行けさえすれば理系は実績もかなり重要なのでちゃんとその中で勉学に励んでいればどの大学でもなんとかなるとは思っている。年収も趣味ができる程度ならそれで良いと思っている。
地頭という部分に関しては元から吉田よりも高く、なので理不尽に解決しない問題に憤怒したり、一般的に馬鹿な行いをしたりなどはなく、その点において恐れることはないと勝手に考えてさえいる。
これらの私と吉田の未来の目標を見るとかなりわかりやすいのだが、自分の安心先をどこに置いているのかという違いが二人の間で顕著に見られる。
吉田はどちらかというと客観的な価値というものをそのまま採用しているように思う。阪大に行く、官僚になる、などという堅実でレベルの高い人生だ。
私はどちらかというと主観的な価値を作っているように思う。
別に情報系に行くのはすごいことでも何でもないし、創作だって聞こえは良いかもしれないが、自分の書きたい物語を何かしらの形で作ってそれを頒布するだけなのだ。それこそ自己満足であるし、大人になっても、(アニメや漫画の日常系作品が特に好きなので)そういうものを飽きずに見るというのは一般的に価値のあることではないし、賞賛されることでもない。
結婚も自分と同じ環境にいる女性と結婚し、身内や同士を呼んで結婚式を挙げ、準都会と田舎の二拠点生活を目標としている時点でなかなかに一般的に羨ましがられる未来とは違うと思う。
それらを含めて私は周りがどう思うかよりも自分がそれを求めているかを価値の基準に採用しているのだと思う。
この違いに目を向けた時、今までの私は私の考え方の方を支持する立場に立っていたように思う。
それは、上には上が存在し、周りに認められる存在かどうかに価値基準を置いていてもいずれは破綻してしまうと考えていたからだ。国家公務員になることに失敗したら。阪大文学部に落ちてしまったら。
そういった時に吉田はどう向き合うのか。そしてそれに向かっている最中も吉田はあまり楽しくはないのではないだろうかと思っていた。
「こうありたい。」という考えがいつの間にか「こうでないといけない。」という強制にすり替わってはいないだろうか。
このような考え方だからこそ、私は自分が求めていることだけを純粋に採用する価値基準を良いと思った。
阪大に行けなくても情報学部で学べられれば良い。周りからロリコン扱いをされたとしても自分の好きな日常系作品を読めれば良い。
それはおそらく私が自分に対してある程度の自信を持っていたからこそできたことだ、というふうにも今までは考えていた。
しかし今回でそれは瓦解した。
いや、完全に否定側に回ったわけではない。デメリットを自分が納得する形で気づけたという意味だ。
「不倫をどう思うか?」というのを尋ねられたときに、吉田はきっと「それは許せないことだ。」と答えるだろう。少なくとも肯定的には捉えない。「不倫とはやってはいけないことであり、信頼を失うことだ。」という位置付けがあると思う。
しかし極論だが違う答え方をする人もいると思う。
「自分がそれをやりたかったのなら良いのでは?幸せならOKでは?」という考え方を採用している私からすれば「不倫は許せないことだ。」と簡単にいうことはできないだろう。
事実、三本の動画を見ている際にも私は不倫をする側の思考も良くわかってしまったのだ。
「不倫は遊びであって、誰にも迷惑をかけていないのであれば楽しいことだから良いのでは?」と思ってしまうのだ。
不倫がなぜダメなのか?
いじめはなぜダメなのか?
薬物はなぜダメなのか?
暴力はなぜダメなのか?
これらは全て違う物事のようで全部同じ向きを向いていると私は思う。
正直言わせて欲しい。
これらの当事者は嫌々やっているのではない。むしろ楽しいことですらある。
不倫をしているときはそれが背徳感となっていつもよりも気持ち良いだろうし、いじめには支配する快感があると思う。薬物はもっと直接的に気持ちが良いから行うことであり、暴力は人間の動物的な本能としてはごく普通の行いであり、それゆえに快感も存在する。
だからこそ、法律も何もなかったのであればこれをする人は沢山いる。法律がなければだが。
しかし現にこの世の中には法律があって、そのおかげで社会は回っている。
法律という面で考えれば、
いじめも薬物も暴力もいけない事。
だからただ単に自分がそれをしたいかどうかで行動を決めるのではなく、また法律的にそれは大丈夫なのか?という問いを私たちはするので、皆がいじめや暴力や薬物を簡単にすることはない。
ちなみに、「それは道徳的にもいけない事である」、という指摘もあると思う。ここで私はそれについてもう少し考えたい。
道徳というのはそもそもある種の洗脳教育だと思っている。
相手のことを考えて行動する、という行いは動物的本能が進めていることではない。
相手のことを考えて行動する、というのは幼いときに正しいこととして教え込まれた洗脳なのだと私は思う。
社会を持たない動物が相手のことを考えて行動してもなんの意味もない。だからこそ、
もし道徳の授業を受けたことがなかったのなら、相手のことを考えて行動するというのは考えたこともない価値観だと思う。社会が回って行く中で必要な価値観だからこそ子供の時に教え込まれているのだと思う。
そのためある程度社会的にちゃんとした家庭であったり、学習環境があったのであれば道徳的な考え方も身につくはずである。
しかし人間は最初から思いやりの気持ちを完璧に持っているわけではないから、まるで社会的に機能していない家庭であったり崩壊した環境で育ったのであれば道徳的な考え方が矯正されていない可能性も十分あり得る。
この道徳の習熟度の個人差がダイレクトに不倫行為への考え方の違いにも直結しているようにさえ私は思ったりもする。
こういう道徳面を学べなかった人たちは何を持って生きれば良いのだろうか。
その第一に法律があるのだと思う。
人を殺してはいけない、ものを盗んではいけない。
これらは生まれながらに、「これはしてはいけないこと。」というふうにインプットされていない。
けれど法律があるからこそ、人は止まることができる。
道徳だけでなく法律も好転的に半ば強制的に与えられる価値基準の一つだと思うのだが、
法律は割と善悪が決まっているし、破れば影響もあるので
道徳を学べなかった人たちに対しても効力が一定以上見られると思う。
けれど不倫は犯罪ではない。
こういう、法律に反することではないけれど大いに人の信頼を失うようなものを止めるには道徳的なものの見方が必須であると思う。
法律が止められない良くない行いを道徳が止める。ということだ。
だからこそ、道徳を学ばなかった人間や道徳を理解できていない人間は犯罪ではないけれど、人の信頼を大きく損なわせる行為をしてしまえるのだと思う。
(ただしここでは因果の一つを提示しているわけであって、道徳を学ばなかったという理由しかあり得ないという意味ではない。)
ここまで考えるのであれば、「社会が回るように。」「人間関係が円滑に回るように。」などの、個人も集団も結果的に幸せに過ごせるようにという目的のために法律や道徳を筆頭とした共有された価値基準が存在しているように思う。
私のように自分のしたいことができれば良いと思うタイプは良い意味でも悪い意味でも視野が狭い。法律的にして良いのかどうかを考える能力はあったとしても、道徳的に行って良いのかどうかを考えることを忘れてしまうタイミングはあると思う。
そうして結果的に人間関係で信頼を失う行為をしてしまう時があると思う。
その時に共有された価値基準である法律、道徳、などを行おうとしている行動と比較してみて、それをしても良いのかしてはいけないのかをその度に判断するべきだと思う。
こういった部分について私は結構曖昧な理解で生きていたので今回の機会はとても良いものだったように思う。
難しいことだけれど、取り組む価値は大いにあると思う。
