掌編小説『熱帯夜の足跡』
熱帯夜の中、男は歩く
風は吹いてるはずなのに
肌にまとわりつく空気は少しも軽くならない。
街灯の明かりは足元を照らすだけで、その先は闇に包まれていた。
一つの街灯を離れるたび男はまた闇の中に沈んでいく。
蝉が鳴くことをやめた時間に
蛙だけがこの夜がまだ終わらないことを知っているように鳴いていた。
男は1人で歩いている。
街灯の少ないこの道で何人とすれ違っただろう。
それすら覚えていない。
心は行き先を忘れてしまった。
ただ体は行くべき場所を覚えている。
心に反して体は進む。
体に従い進むしかない。
前日に雨が降ったのだろう
湿り気を残したあぜ道を進むたび男の足跡が刻まれていく。
また雨が降れば、その跡も簡単に拭い去られてしまうだろう。
男がやってきたことも所詮はその程度のことだ。
足跡が跡形もなく消えるように、
男がしてきたこともいつかは誰の記憶にも残らなくなる。
額を伝った汗だけは、この歩みを覚えていてくれるだろうか。
電話ボックスの光に無数の虫が集まっていた。
心もとなく点滅する蛍光灯の光が不思議と男を安心させた。
ただ、そこに誰かがいてほしかった
そこに誰かが立っていてくれたなら
そう思わずにはいられなかった
熱帯夜の中、男は歩き続けた。
消えてしまう足跡を残しながら、それでも帰る場所があると信じて。
