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自由な授業ほど、「規律」が必要だと思う。

みなさんこんにちは、数学meganeです。

昨日、noteでこんな記事を見つけました。

私も授業でよく取り入れている「自由な立ち歩き」の根底にある考え方について書かれた記事です。

読みながら、改めて考えました。

「自由に学ばせるために、自分が一番大切にしているものは何だろう。」

そこで浮かんだのが、「規律」でした。

今、授業にはさまざまな形があります。

協働学習、自由進度学習、個別最適な学び、対話的な学び。

それ以外にも、教師の発問や指示、机間指導、ICTの活用など、授業をより良くするための方法や技術はたくさんあります。

私自身も、これまで授業の中でさまざまな方法を取り入れてきました。

しかし、どれだけ新しい方法を取り入れても、どれだけ指導技術を磨いても、その前に整えておかなければならないものがあると感じています。

それが、授業における規律です。

「規律」とは、静かに座らせることではない

「規律」と聞くと、
「私語をさせない」
「静かに座らせる」
「教師の言うことを聞かせる」

そんなイメージをもつ人もいると思います。

でも、私が考えている規律は少し違います。

聞くときは聞く。
書くときは書く。
話すときは話す。

つまり、授業の中でメリハリをつけられることです。

私は授業の中で、ペアで話したり、自由に立ち歩いて友達と考えを交流したりする時間をつくります。

教室の中がにぎやかになることもあります。

それ自体はまったく問題ありません。

むしろ、必要な時間です。

一方で、「はい、前を向きます。話を聞きます。」と伝えたら、話すのをやめてこちらを見る。

誰かが全体に説明しているなら、その人の話を聞く。

一人で考える時間になったら、自分の課題に向き合う。

この切り替えができることを、私はとても大切にしています。

だから、「自由な授業」と「規律のある授業」は対立するものではありません。

むしろ逆です。

規律があるからこそ、授業の自由度を上げることができます。

自由にさせることと、好きにさせることは違う

私は、生徒が自由に立ち歩いて学習する時間を設けることがあります。

分からない問題を友達に聞きに行く。
自分の考えを説明しに行く。
一緒に問題を考える。

そうした学び方を認めています。

ただし、「自由に動いていい=好きにしていい」ではありません。

授業には目的があります。

その目的に向かって学ぶために、必要な自由を認めているだけです。

だから、話す必要があるときには思い切り話せばいい。

動く必要があるときには動けばいい。

しかし、聞く必要があるときには聞く。

この切り替えができなければ、自由な学びは成立しません。

自由度の高い授業ほど、実はその土台にしっかりとした規律が必要です。

規律をつくるなら、まず教師の指示を見直す

では、授業に規律をつくるためには何が必要なのでしょうか。

私はまず、教師の指示を端的かつ明確にすることが大切だと考えています。

「静かにしなさい」
「ちゃんとしてください」
「集中してください」

これでは、生徒が具体的に何をすればいいのか分かりません。

「ペンを置きます。」
「一度、こちらを見ます。」
「1分間、一人で考えます」
「ペアの人に自分の考えを説明します。」

「何を、どれだけ、どのように」するのかが分かるように、具体的にかつ短く伝える。

規律を求める以上、教師側にも分かりやすく指示を出す責任があります。

そして、指示を出したら、生徒がその行動に移れているかを必ず確認します。

「聞きます」と指示を出せば、聞いているかどうか、全員の目を見ます。

「1分間、一人で考えます。」と指示を出せば、考えているかどうか机間指導します。

以前の記事でも紹介しましたが、指示が通ったかどうかも自分の目で確認する必要があります。

生徒が動かないことをすぐに「規律がない」と捉えるのではなく、

「自分の指示は伝わるものだったか」を考える必要があります。

規律は、生徒だけにつくらせるものではありません。

教師と生徒の両方でつくっていくものです。

一番難しいのは、「見逃さないこと」

そして、規律をつくる上でもう一つ大切にしていることがあります。

それが、教師自身が決めた基準を簡単に下げないことです。

例えば、一人の生徒がみんなの前で説明しているとします。

そのとき、後ろの方で二人の生徒が小さな声で話している。

授業をしていると、こういう場面はよくあります。

しかも、ほんの小さな私語です。

だから、「まあ、これくらいならいいか」と思ってしまうことがあります。

注意して授業の流れを止めたくない。

細かいことで注意する教師だと思われたくない。

生徒との関係を悪くしたくない。

そんな気持ちが出てくることもあります。

でも、私はこういう場面ほど大切にしたいと思っています。

もちろん、大声で叱る必要はありません。

「今は聞きます。」
「〇〇さんが話しています。」
「一回、手を止めます。」

声をかけて、行動に移すまで待つ。

それだけで十分です。

大切なのは、強く叱ることではありません。

見えているのに見なかったことにしないことです。

「まあ、これくらい」が基準をつくる

一回の小さな私語で、授業が崩れるわけではありません。

しかし、「これくらいならいい」を教師が繰り返していけば、それがその授業の基準になっていきます。

生徒は、教師が何を言っているかだけを見ているわけではありません。

教師が何を許しているのかも見ています。

教師が「人の話を聞こう」と何度言うかより、


人の話を聞いていない生徒がいたときに、教師がどうするか。

そこに、その授業の本当の基準が表れると思っています。

「人が話しているときは聞きましょう」と言いながら、誰かが話していても何も言わない。

それでは、教師自身がそのルールを曖昧にしてしまいます。

だからこそ私は、規律をつくるためには教師側にも「徹底する覚悟」が必要だと思っています。

ここでいう徹底とは、厳しく叱り続けることではありません。

教師が大切だと考えていることを、自分自身が簡単に諦めないことです。

言い換えれば、「見逃さない覚悟」です。

規律は、生徒を縛るためのものではない

ここまで読むと、「かなり厳しい授業なのでは?」と思う人もいると思います。

でも、私は規律を生徒を縛るためのものだとは考えていません。

むしろ、生徒を守るために必要なものだと考えています。

例えば、一生懸命考えたことをみんなの前で説明している生徒がいる。

勇気を出して発表している生徒がいる。

その横で誰かが話している。

教師もそれに気付いている。

それでも何も言わない。

発表している生徒からすれば、どうでしょう。

「自分の話は聞かなくてもいいんだ」と感じてもおかしくありません。

だから私は、「人が話しているときは、その人の話を聞く。」ということを大切にします。

これは単なる授業規律ではありません。

人を大切にすることにつながります。

誰かが話しているなら、その人の話を聞く。

誰かが考えているなら、その時間を邪魔しない。

誰かが困っているなら、安心して学べる環境をつくる。

規律とは、みんなが安心して学ぶための約束でもあるのです。

「自由」と「規律」は、両立する

私は、生徒がたくさん話し、自由に動き、友達同士で教え合う授業をつくりたいと思っています。


だからこそ、規律を大切にします。

切り替えができる集団だからこそ、教師は安心して自由を渡すことができます。

自由とは規律の反対側にあるものではなく、規律の上に成り立つものだと考えています。

授業方法よりも前にあるもの

新しい授業方法を学ぶことは大切です。

指導技術を増やすことも大切です。

私自身、これからもさまざまな方法を試していきます。

でも、その方法を成立させるための土台を忘れてはいけません。

聞くときは聞く。
書くときは書く。
話すときは話す。
教師は、何をしてほしいのかを明確に伝える。
そして、大切にすると決めたことを簡単に見逃さない。

こうした一つ一つは、とても地味です。

目新しい授業方法でもありません。

それでも私は、こうした部分こそが授業を支えていると考えています。

授業がうまくいかないとき、新しい方法を探すことも必要です。

でも、その前に、

「聞くべきときに聞ける集団になっているか」
「教師の指示は明確になっているか」
「自分自身が『まあ、これくらいなら』と基準を下げていないか」

一度、そんなところに目を向けてみてもいいと思います。

どれだけ魅力的な授業方法も、それを支える土台がなければ十分に機能しません。

そして、その土台をつくるのは、日々の小さな積み重ねです。

規律があるから、自由にできる。

私はこれからも、自由に学べる授業をつくるためにこそ、その土台となる規律を大切にしていきたいと思います。

このnoteでは、
・授業でそのまま使える教材・授業展開
・思考力を育てる問題
・実際の授業実践、指導のコツ
・授業づくりについての考え方
を中心に発信していきます。
忙しい中でも「これなら使える」と思ってもらえるような、現場目線の即戦力になるような教材を届けたいと思っています。


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