専門家の卵が真珠の耳飾りの少女展に行ってみたら
SNSで連日、大盛況な様子が伺えるフェルメール展。作品をちゃんと見れてないじゃないか!写真を撮ることが目的化している!と非難轟々の様子だが、実際に人々はどのように鑑賞しているのだろうか?鑑賞教育を研究する院生として、フィールドワークを兼ねて調査に向かった…
はじめに
このnoteは、実際に現地に行って感じた所感をまとめたものである。論文ではないが、専門的知識を流用したエッセイのようなものだ。
鑑賞者にアンケートを取ったり、本格的な調査をしたりはできていないため、あくまで私の視点から見たものというのをご了承いただきたい。その代わり、できる限り先行研究や書籍を引用し、根拠を提示したい。
私が考える鑑賞の理想のあり方とは、知識を背景とした鑑賞である。作品から感じ取った個人的な思いのみならず、美術史的な知識も得て、作品に対して自分の意見を持てることが理想だなあと思う。そしてこれは難しい。すごくすごく難しい。
業界で開発された対話型鑑賞法や、美術解説など、たくさん鑑賞にまつわる方法論や本は出ているが、どちらかに寄りがちだ。
感じ取ったことを話して終わりにして欲しくない。知識も知って欲しい。でも知識を受け取って終わりにして欲しくない。沢山の矛盾する理想が詰め込まれている。
無理である。何かを諦める必要がある。
しかしながらその全てをできる限り実現しようとすることが、教育や美術館の役目だと思っている。
そもそも、文化庁の調査において文化芸術の鑑賞活動をする割合は46.9%、その中でも美術は第3位で13%だ。

まず文化芸術に触れない人の方が多いのだ。それでもこの盛況ぶり。超人気!といいつつ、割合としてはとても少ない。この割合を増やしていくことこそ、今後の美術館、美術業界の急務といえる。
ここからは展示を見て、そして鑑賞する人々を見て感じたポイント、そして考察を書きたい。
1.列形成と混雑の是非
運営の不手際と鑑賞の質を分けて考える
初めに言っておくと、鑑賞体験としてはしんどかった。万博のイタリア館で5時間並んだ経験もあり呆れるほど展示を見てきた私も、あれほどの列と混雑はなかなか体験したことがなかった。
12点で3時間半、驚異の数字である。足が痛くて、終わった後は座らないと動けなかった。
途中で気分が悪くなっている人もいたし、身体障害者の方、老若男女、全ての人に開かれた展示とはいえない。グッズも売り切れていた。私も一部買えなかったものがあった。これらは確かに運営の不手際、失敗といえるだろう。
だが、中身の鑑賞体験はどうだったか。
1番大切なのはそこだ。疲れた、足が痛い、混雑がしんどかった、身体的な疲れや苛立ちが思い浮かぶ中、作品から何を感じたか、どういう感想を持ったか、どんなに小さなものでもいいから思い出して欲しい。周りの人はどのような対話をしていた?なにか絵に対する感想は聞こえてきた?(そこまでは覚えていないかもしれないけど)
私には聞こえてきた。
例えば、ヤン・ダーフィッツゾーン・デ・ヘーム《宝石箱と花のある豪華な静物》では「なんか、瑞々しいなあ!」と語る女の子の声。

《宝石箱と花のある豪華な静物》
ヤン・ステーン《老いが歌えば若きが笛吹く》では、バグパイプや笛に丸をつけ、注目を促すキャプションを見ながら、絵の中の笛を見つけようとする姿。

パウルス・ポッテル《水に映る牛》を見ながら「そういえば〇〇さんとこの牛だったかなんだったかが脱走したらしいで〜(うろ覚え)」と自分の経験に紐づけて話す声とか(聞いててどういう状況なんだと思ったから覚えている)。

これは専門的には「意味生成」と呼ばれる現象だ。宮崎・寺元(2025)は、Falk & Dierking(2000)を参照し、意味生成を「鑑賞者の個人的なニーズ,経験,興味関心を美術館での体験と関連付けることで物事にパターンを発見したり,混沌から秩序を創り出すプロセス」として説明している。
さらに作品を楽しむためには、より鑑賞を深めていく必要があるが、少なくとも専門家抜きで自然にこの現象が起きているのなら、鑑賞として実のあるものといえるのではないか。
なので混雑の是非、運営の手腕と鑑賞の質は分けて考える必要がある、と私は感じた。
列形成は「暇」と「問い」を生み出すという仮説
皆さんは最近暇を感じてますか?
少しでも暇になったら、スマホを弄ってしまうのではないでしょうか。もれなく私もそうだ。退屈に耐えられないから。Twitter依存だから。
展示室内は最初の10点を除き、厳密に列を形成していた。何重にも蛇腹状になって(初めの10点に関してはみんな勝手に列を形成していたが、好き勝手見ればいいと思う)。
《ディアナとニンフたち》の鑑賞列は巨大モニターが設置された部屋に形成され、待ち時間にフェルメール作品にまつわる映像が流される。
みんなちょこちょこ文句を言いつつも、スマホを見ずにモニターを見る。フェルメール37(36)点を様々な角度から比較している。女性が描かれている作品だけ抜き出してみる。《デルフトの眺望》を実際の風景と比較してみる。37点全てがバン!と並んだとき、同行した母が「やけに左向きに顔が描かれているのはなんでだろうね?」とポロっと疑問を呈した。
いやこれじゃん!!主体的な鑑賞!
作品を見る前に、提示された映像から、自力で!問いを見出しているじゃねえか!
と思った。
他にもぺちゃくちゃお喋りしながら、これなんでだろうね〜とスマホで調べている人もいた。見ている限り、みんな自然に作品に、フェルメールに向き合っていた。これも待機列が生み出した暇のおかげである。
進んでくださーい!はみ出さないでくださーい!という看視員の声掛けは確かに騒々しいが(必要ではある)「あの少女に会える!」という期待感があったように思う。
何も本物の作品をじっくり見ることだけが鑑賞ではない。作品について知る、対話する、意見を持つ。作品を見れるのが一瞬だからこそ、合間合間で様々な鑑賞の形を体験する。いつもよりキャプションや映像をしっかり見れたのは間違いなく、列形成によってそこに留まる必要ができたからだ。
列という障害が、ある意味で現代人に不足しているじっくり思考する時間を与えるというのは、面白い発見だった。
【逆に】列形成をしないとどうなるか
ありがたいことに2024年3月にフランスに滞在する機会に恵まれた。もちろんルーブルに行ったわけだが、その時撮った動画のキャプチャを上げておく。列を形成しないと、どのような鑑賞になるか?



じっくり見ることは叶わない
ご覧の通り、列を形成しなければ作品と向き合えるのか?というとそうでもないのである!!!
モナリザは盗難の歴史もあるため、幾重ものガラスケースによって厳重に保護されている(環境団体とかにもペンキをかけられるし、この前もルーブルで大規模な盗難があったばかりだし)。
かつ手すりと整列テープによって、とにかく近づかないようにされている。その点で完全な自由ではないのだが、こういう状態にされるともはやちゃんと見ることは叶わないのだ。
2枚目を見て欲しい。モナリザからそっぽを向けている人がかなりいる。作品と向き合うことを諦めて、来たぜー⭐︎と自撮りを撮ることが目的化している。これこそが消費されている鑑賞ではないか?(なぜ男の人が1人だけ間近で見れているのかは分からない)
それなら列を形成して、何メートルも距離を置かれずに一人一人数秒でも見る機会を与えられた方が、よっぽど鑑賞の機会が担保されていると言える。
そして「ちゃんと見たい!」と不満が出ることが健全とすら思える。「ちゃんと見たい」が叶わない、そもそもその欲求すら持てない環境と比べたら。
列形成は不愉快だし疲れはするが一人当たりの鑑賞機会を確実に担保しているという点で、かなり誠実なのだ。完全にベストではないが、ベターな設計を頑張ってくれたのだろうと感じた。
2.消費的鑑賞の是非
写真を撮ることは消費なのか?
今までは私もそう考えていた。作品をじっくり見ずに、撮って満足だなんて!!と思っていた。
しかし人々を見ていると、与えられた短い時間で、せめて記録に残そうと素早く写真を撮っている人ばかりだったように思う。その上でじっくりと肉眼で見る人もいた。名残惜しそうに、足早に去るしかないというのが現実だった。別に満足はしていない。みんな不満を抱えながら退場している。だからSNSに怨恨の声が響く。
アイドルの握手会の剥がしと一緒で、仕方がないことだが看視員に急かされる。それをちょっと無視して、数十秒見入る人もいた。これは消費ではなく、本物を見る価値を理解してこその行動といえる。せっかく見にきたのだから、数十秒くらい滞留する権利があったっていい。それを許しあう心こそ必要だ。
「他者を待たせてはいけない」という規範意識、焦り、急かされているという雰囲気が作品との対話を奪っているだけで、作品と対峙した時に誰も映えようとはせずに、できる限りの誠実さを向けていたように思う。
切り取られた瞬間、集団として写真を撮る様自体が消費として見られてしまいがちなだけで、一人一人は向き合おうとする姿勢がしっかりあった。
「静かに、長時間、肉眼で作品を見る」という鑑賞者像のみが、誠実に作品に向き合っているというわけではないと、これはまた裏切られた感想だった。
※ちなみに私は看視員も経験しているので、彼らの気持ちも分かる。あれだけの混雑となると手に負えない。急かすのもオペレーションとしてしょうがない。じゃないと展示が立ち行かないからである。
日本の鑑賞の原風景
今回のような鑑賞体験は、むしろ日本の鑑賞の原風景を思い出させた。今の美術館のあり方は明治時代に西洋的な形式が移植され、中央政府によって整えられた。しかしながら美術館の形式がある前から、日本には豊かな鑑賞文化、芸術に触れる場があった。吉荒夕記『美術館とナショナル・アイデンティティー』には、その形式として書画会が挙げられている。

作品に触れる、乱雑な置き方、飲食をしているという点で一概に比較はできないが、活発なコミュニケーションという点で、人々は作品を楽しんでいる。その場で作品を描き上げる絵師を囲んで、やんややんやと批評したり、作品を手に取って比較したり、多様な向き方をしている。
「見る」という行為にコミュニケーションが内包されている。
しかしこれらは公に整備されていない、民衆主体の運動なので、どちらかというとコミケに近い。
てかこれってコミケじゃない?入場料を払えば誰でも入れるし、誰でも出展できるし、目の前でskebを描いてくれるし!
なのでかつての大衆的な鑑賞が、西洋式美術館の中で思いがけず再現されたのに近い、と私は思う。公が統制する場で、民衆の主体的なコミュニケーションが立ち現れたようにも見えた。
「西洋的な鑑賞ができていない」ことが「ちゃんと見ていない」とも言えない。明治期の様々な混乱、アイデンティティの確立によって美術館というものが現れ、いつのまにかそれがスタンダードとなっているが、よりフィットする形は違うかもしれないということだ。
多様な鑑賞の存在を感知する
「空いている方がいい」「静かに見たい」「一つの作品をじっくり見たい」
私自身、そのような鑑賞を当然のように望ましいものとして考えていた。
5歳から国内外あらゆる美術館を回ってきたが、振り返ると様々な鑑賞体験があった。ただただ混みすぎて不愉快だったもの、静かにゆっくりと見たもの、吸い込まれるように一つの作品を見続けたもの、人と話しながら見たもの、人並みを掻き分けながら見た展示。
これは個人的な感想だが、案外印象に残っているのは人並みを掻き分けながらやっとの思いで見れた作品なのだ。まだ背が小さくて、前に来ないと見れないから大人たちを掻き分けて対峙したモネ、「やっと会えた!」という喜びは最初の鑑賞体験として深く刻まれている。
多少美術史も齧ってはいるから、知識と照らし合わせて専門的に見ることもできるが、何千何万の作品をそのように見ているためいちいち思い出すことができない。どんどん忘れていく。フィジカルな障害は、深く記憶に残る。今回も、良くも悪くも忘れられない展示になったように。
好きな色が紫だからといってカーテンの色を紫にしても部屋にしっくりこないのと一緒で、「空いている方がいい」「静かに見たい」「一つの作品をじっくり見たい」という一個一個の事象が肯定されるものであっても、複合して良くなるとは限らないのだ。
「好きな色は紫」と「カーテンの色は紫にするとインテリアとして難しい」が両立するのと同じように、「空いている美術館は快適」と「混んでいて対話が活発になる」も両立する。
個々ではもっともらしい価値観や事象をまとめたものが、最良の鑑賞体験になるとは限らないのかも…!それが私の気づきだった。
3.ちゃんと「見る」の再考
「本当の」鑑賞とはなんだろう?
これはアトラクションだ、美術鑑賞ではないという声。では何をもってすれば「ちゃんと」美術を鑑賞したとなるのだろう。私はわからなくなった。信じていた鑑賞像が崩れた。研究計画書で書いた土台も崩れた。
ここまでの観察をもとにして考えると、私には来場者が「本当の」鑑賞をしていないようには見えなかった。理想の鑑賞像が先に規定されることで、中身の多様な鑑賞のあり方や、化学反応が無視されてしまうことにならないか。新たな研究の問いに気づいた。
皆さんの中にも「本当の」鑑賞はこうだ!という思いがないだろうか。でも鑑賞は一つの形に固定することはできない。常に流動的だ。理想的な方向はあっても、誰も嘘か本当かなんて規定できないのだ(研究者の中でも散々議論されている話だ)。
偽物、本当という感覚で切り分けずとも、鑑賞はただそこに鑑賞として存在するのだ。これに気づけたことが私にとって最大の価値であるといえる。皆さんも私と一緒に考えて欲しい。
鑑賞のあり方を逆転して考える
よく美術館でファミリーDAYやおしゃべりDAYなど、限定的な日時なら自由に見ていいですよ、という施策を打つことがある。しかしそれは裏返せば「普段は静かに、集中して見てくださいね」というメッセージに繋がりかねない。その全体的な圧を美術愛好家も共有し、静かに集中して見るという鑑賞者像が固定化されているからこそ、敷居の高さは崩れないのではないかと感じた。これから文化芸術が賑わっていくためには、変わっていく必要がある点だと思う。
静かな空間というのは、その場の全員のコンセンサスや暗黙の了解がないと成り立たない。今の世界でゆっくり静かに思索できる環境は貴重だ。
だから鑑賞の概念をひっくり返して、「静かに見ましょうDAY」を作って、普段はワイワイガヤガヤ話してもいい、という雰囲気作りをしてみたらいいのではないか。美術愛好家はブチギレるだろうが、公共に寄り添う美術館のあり方とは、もしかしたら真逆なのかもしれない。
美術に親しんでほしい(でもアカデミックな方向を理解してほしい)と、静かにちゃんと見てほしいは少し矛盾してしまう。そして後者に合わせるからこそ、敷居が高くなる。こうあって欲しいを優先するのではなく、こう利用したいを優先させることが開かれた美術館への第一歩になるのではないか。
@tsuyoi_katsuさんが指摘されている通り、滋賀県立美術館などは、明確にこのメッセージを発信している。
滋賀県立美術館は、おそらくすべての企画展のwebページで「しーんと静かにする必要はない」と明記していて、すごくいい取り組みだと思う ほかの美術館でも子連れの家族などに向けて「特別鑑賞日」を設けていたりするけど、いつでもこれを掲げている美術館はまだまだめずらしいのが現状だ pic.twitter.com/iGAmCNKE4p
— @tuyoi_katu_ (@tuyoi_katu_) August 24, 2026
「鑑賞とはこういうもの」という根強い暗黙の了解を崩してもいいのかもしれない。
終わりに
昔から当然のように思っていた鑑賞のあり方を、裏切られ続けた体験だった。
少ないサンプル数とバイアスがかかった意見を総合すると、「鑑賞の満足度は低いが、多様性はあった」という暫定的な結論が見出される。
「鑑賞体験として満足したか」を指標とすると、運営の不手際に引き摺られてしまう。
なので運営の問題と切り離し、自分が「どのような鑑賞をしたか」を思い出すことにフォーカスしてみると、また違った感想が出てくるのかもしれない。いかに自分が学んだか、どう絵に向き合ったか。一瞬しか本物を見れなかった、は事実だが何か対話や学びがなかったか。ゼロとは言えないのではないか。
「鑑賞体験が運営への不満に塗りつぶされる」という点では、失敗と言えるだろう。しかし「現実に多様な鑑賞が存在していた」という現象とそれは両立する。忘れられがちだが、起きたことを記録しておきたい。
大衆が満足すればいい展示と言いたいわけではない。かといって非難轟々だからといって、悪い点しかないわけではない。完璧な展示はない。この展示のあり方がいいとは全く思わない。ただ理想の鑑賞像のレンズを外し、ただただ鑑賞者が主体的に作品に向き合っているか?という視点で見た結果、案外それは達成されていたのではないか、ということを伝えたかったのだ。
今回の件を学びとして、一層研究に励んでいきたいと感じた。読んでいただきありがとうございました。
参考文献:
文化庁「令和7年度 文化に関する世論調査」
宮崎・寺元(2025)「対話型美術鑑賞における創造性の理論的考察と分析フレームワークの構築」
吉荒夕記『美術館とナショナル・アイデンティティー』
今村信隆『「お静かに!」の文化史 ミュージアムの声と沈黙をめぐって』
