ケアマネ杉崎、橋の向こうで
ケアマネ杉崎、橋の向こうで
© 2025 杉崎はじめ
All rights reserved.
本書はフィクションです。実在の人物・団体とは関係ありません。
第1章:扉の向こう側
杉崎は、インターホンを押す指がほんの僅かに震えるのを感じた。
初めての訪問介護だった。
研修中に何度か現場に同行したことはあったが、“一人で任される”のは今日が初めてだった。
浅蔵寺裏、障害者向けバリアフリー住宅の一室。地図で見た住所も、建物の外観も予習してきたが、玄関の前に立つと、足元が少しふわついた。
インターホンに応答はなかった。
再度押そうとしたとき、カタン、と中から音がして、玄関のドアがゆっくりと開いた。
「……あんた、ヘルパー? 今日から?」
顔を出したのは、黒い短パンから細い義足をのぞかせた女性。電動車椅子にゆったりと腰掛けていた。
鋭い目線と、乾いた声。
「私、水木加奈。よろしくね。お世話されるほうの人間よ」
杉崎は名刺を差し出し、頭を下げた。
「杉崎です。本日から伺うことになりました。よろしくお願いします」
加奈は名刺をチラと見ただけで部屋の奥へ下がると、車椅子をクイッと旋回させてこう言った。
「初回から遅刻かぁ。まあ、いいや。入って」
玄関をくぐった杉崎の足元に、小型の白い犬がすり寄ってきた。
「この子、ポコ。吠えないけど、見た目で人を判断するタイプ」
部屋は驚くほど整頓されていた。段差のないフローリング、手すりつきの洗面所、カーテンも開けたばかりのように真っ直ぐだ。
「掃除、お願いできる? モップはそこのクローゼット。順番、右から左。わたしの流儀ね」
杉崎は言われた通りにモップを動かしながら、加奈が何か手帳に書き込んでいるのを見た。
「そういえば、あんた……男のくせに、女の介護って珍しいでしょ?」
「ええ、基本は同性介護ですが、利用者さんの同意があれば、男性でも入れるんです」
「ふーん、まあ、いいけど。あたし、男の目は信用してないから。
けど、ポコが吠えなかったから合格、ってことで」
掃除を終えたころ、加奈は冷蔵庫からアイスコーヒーを取り出して杉崎に差し出した。
「これで、今日のノルマ達成。ありがと。次回は洗濯ね」
杉崎は一礼して部屋をあとにした。
階段を降りながら、胸の奥に奇妙な充実感があった。
「……俺は、この世界でやっていけるのか」
小さく、ひとりごとのようにつぶやいた声は、自分の耳にも頼りなかった。
第2章:レシピ通りに
「冷ましてから丸めて。母はそうしてたんだよ」
鍋の中で焦げたジャガイモをかき回しながら、利用者は言った。
杉崎は何度もやり直しをさせられ、手は熱さで火照っていた。
「おまえさ、コロッケの作り方ちゃんとわかってる? 母の味を再現してってお願いしただろ」
揚げたそばから、「焦げてる」「母ならこうしない」と文句をつけられた。
「前のヘルパーがやってたんだよ。レシピあるんだからその通りにやれよ」
生活援助は、すでに“決まった儀式”のようだった。
杉崎はその様子を記録しながら、生活援助の“援助”とは何だろうと考えていた。
第3章 :湯気の向こうに
訪問介護の記憶は、その日だけではなかった。
ある日、入浴介助をしていた。
年齢は80代後半。湯船に入る前に、杉崎は腰を支えながら背中を流した。
そのときだった。
背中の皮膚が、スポンジに貼りつくようにしてズルッと剥けた。
「うわ……すみません!」
杉崎が思わず手を止めると、男性が小さく顔をゆがめて言った。
「……大丈夫だよ、そんな皮なんか、もうとっくに剥がれてるもんだ」
おだやかに笑った顔が、かえって胸にきた。
それでも杉崎は、動揺を隠すため、必要以上に優しく流していた。
入浴が終わり、脱衣所で体を拭くとき、利用者はなにも言わなかった。
着替え終えると、利用者は無言でテレビのリモコンを取り、音量を少しだけ
上げた。
杉崎はそれを見ながらふと、考えていた。
この人は、今、どんな気持ちなのだろう。
入浴は本当に気持ちよかったのだろうか。
それとも、ただ“されている”だけのことだったのか。
少し間をおいて、そっと退出する。
ドアの前で連絡ノートを開くと、前回と同じ文字が並んでいた。
「特に変化なし」
杉崎は静かにノートを閉じた。
第4章:汗と孤独の先に
その日、東京は35度を超えていた。
アスファルトから立ち上る熱気の中、杉崎はTシャツの背中に汗がにじむのを感じながら、水木加奈の部屋のインターホンを押した。
「どーぞー、開いてるよ」
中から聞こえる声はいつもと変わらない。
部屋に入ると、小型の扇風機がうなり、犬のポコが玄関マットで寝ていた。
「暑いね。あんた、熱中症で倒れないように気をつけなよ。
倒れられても困るからさ」
加奈はいつもの電動車椅子ではなく、ベッドに腰を下ろしていた。
珍しくエアコンはつけておらず、窓が少しだけ開いている。
「今日は、洗濯とゴミ出しだけでいいよ。掃除機は明日。ちょっと体だるくてさ」
杉崎は「了解しました」と答え、洗濯機を回し、ベランダに干す準備を始めた。
――その時だった。
「ちょっとトイレ……ってか、ベッドで済ませちゃうね。あんた、気にしないで」
そう言って、加奈は体を少し横にずらし、毛布をたくし上げた。
杉崎は、瞬間的に視線を逸らした。
だけど、音が、聞こえた。
ゴム手袋の擦れる音。
衣類をずらす音。
そして、それ以上は耳が拒絶した。
「……摘便、自分でやるんだよ。あんた知ってた?
ヘルパーには頼めないって。制度上も、倫理上も。
だから、こうして自分でやるしかないの」
杉崎は何も言えなかった。
目の前で、それは“淡々とした日常”として進んでいた。
痛みも、恥じらいも、怒りも――加奈の表情にはなかった。
「……あんた、なにか言いなよ」
加奈がそう言ったとき、杉崎はようやく「すみません」とだけ答えた。
帰り道、杉崎はハンカチで手を何度も拭いた。
手袋越しでも触れていないのに、なぜか、手が“汚れているような気”がしていた。
いや、それは汚れじゃない。
何もできなかった自分の弱さが、指先に残っていただけだ。
第5章:ケアマネへの道
「あたし、自分で摘便するんだよ。誰もやってくれないからさ」
その日以来、杉崎は眠りが浅くなった。
加奈の表情は、何も語らなかった。
痛みも、羞恥も、怒りも見えなかった。ただ、そこに“日常”があった。
杉崎は、ヘルパーでありながら、何一つ役に立てなかった自分の存在に、強く打ちのめされていた。
ある日、帰所後の休憩室で、ベテランヘルパーの中谷が缶コーヒーを差し出してきた。
「アンタ、顔がやばい。なんかあった?」
杉崎は一呼吸置いて、ぽつりと答えた。
「何もできなかったんです。…利用者さんが、自分で摘便してて。
俺、それ見て、固まることしかできなかったんです」
中谷は一瞬黙ってから、静かに言った。
「そりゃショックよ。
でもさ、全部“手を出すこと”が支援じゃないのよ。
見てくれるだけで助かるってことも、あるんだよ」
そして、にやりと笑った。
「……あんた、ケアマネ向いてるかもね」
その言葉が、杉崎の胸の奥に静かに残った。
帰宅して、かつての職場である古書店で使っていた段ボールを久しぶりに開けた。
そこにあったのは、一冊の古びた本だった。
『介護福祉士・実務者研修テキスト 第1巻』
あのとき、“気まぐれ”で店に置いたはずの本。
けれど、それを開いて以来、自分の人生が変わったのだった。
杉崎は、専門学校のパンフレットを取り寄せた。
週末通学、夜間コース、実務経験者向け。
現場を離れるわけにはいかない。でも、このままじゃ、何も変えられない。
「……書類を作るだけの人間にはなりたくない。
でも、“何もできなかった”あの日の自分には、戻りたくない」
その夜、杉崎は申し込みフォームに名前を打ち込んだ。
久しぶりに、胸の内が静かだった。
後日、杉崎は加奈の基本情報ファイルに目を通す機会があった。
「……3階から飛び降り」
失恋がきっかけだった。
愛した人に裏切られ、加奈は衝動的に自宅マンションのベランダから飛び降りた。 右足の切断。以後、義足。
杉崎は、画面の前でしばらく動けなかった。
あの平然とした態度の奥に、そんな過去があったのか。
「……それでも、笑ってるのかよ」
杉崎は、もう一度自分の無力さと向き合った。
第6章:番茶のあとに
春の風が、国財通りの街路樹を揺らしていた。
その日、杉崎は初めて「青柳屋」を訪れた。
浅蔵雷神門のすぐ裏手にある老舗の旅館。小さな木の看板と、清められた石畳。
場違いなような気がしながらも、玄関の引き戸をくぐった。
声をかける間もなく、女将らしき人物が杉崎を見つけて頭を下げた。
「奥に水野様がお待ちです。どうぞ」
杉崎は促されるまま、畳敷きの小間へ通された。
そこにいたのは、どこか見覚えのある女性だった。
品のある和装。静かだが、芯のある目。
「墨山みなも支援センターの水野です。杉崎さん……お久しぶりですね」
「あ……以前、担当者会議で一度お会いしましたよね」
「ええ、たしか鈴木さんのケースで。
玄関にいたポメラニアンに吠えられて、笑っていらしたの、覚えてます」
杉崎は思わず小さく笑った。
「まさか、そんなことまで……」
「あなたの仕事、ずっと気になってたんです。
派手じゃないけど、丁寧に、相手の目線で動いてるなって。それに介護福祉士にもなられたって噂でお聞きしましたよ」
運ばれてきた番茶は、やわらかな湯気を立てていた。
湯呑のふちに触れると、ほんのり熱く、どこか懐かしい香りがした。
「杉崎さん、うちに来ませんか? 墨山区に」
あまりに唐突なその言葉に、杉崎は思わず茶を置いた。
「……墨山区、ですか?」
「人手が足りないんです。重度のケース、生活保護、医療依存。制度ではとても追いつかない。
でも、だからこそ、“人”が必要なんです」
窓の外には、雷神門の屋根が見えた。
赤く光る大提灯が、風に揺れていた。
「杉崎さん。あなたは、“書類”じゃなく、“人”を見てる。
それって、この仕事でいちばん大事なことだと思います」
杉崎は、返事ができなかった。
でも心のどこかで、「ここに来ることになる」と感じていた。
何か熱いものを内に感じながら口にした番茶は、
少し冷めていた。
第7章:消えたケアマネ
杉崎がケアマネジャーの資格を取ったのは、加奈との出会いから数年が過ぎたころだった。
あの日、自分が「見ていることしかできなかった」記憶は、ずっと胸に残っていた。
ヘルパーとして続けた現場の日々は、答えのない問いばかりだった。
「もっと遠くまで見渡せる立場になりたい」
「書類じゃなくて、流れそのものを変えられる仕事をしたい」
そんな思いが、静かに、けれど確実に根を張っていた。
夜勤明けの頭で参考書をめくり、現場で出た疑問をそのままメモに写した。
合格通知が届いたとき、杉崎はただ静かに笑った。
名刺に「介護支援専門員」と印刷された文字は、思っていたよりも軽くて、でも確かだった。
当時は、介護職としての実務経験が5年あればケアマネ試験を受けられた。
介護福祉士を取ってすぐではあったが、杉崎は条件を満たしていた。
加奈との出会い――あの衝撃が、彼をここまで連れてきたのだった。
「杉崎さん、少しは慣れてきましたか?」
水野に誘われ、墨山みなも支援センターに来てから、杉崎は水野の背中を見ることが多くなった。
かつて番茶をふるまってくれたあの人が、今では同じ事業所の先輩だ。
墨山区に異動して一ヶ月が経ったある日、杉崎は事務所の一角で古い案件ファイルの整理を任された。
パソコンの前で開いた一件のデータに、思わず手が止まる。
「……空白?」
ケアプラン第2表のニーズ欄が、すべて空欄だった。
「自立支援に向けた課題」も、「本人の希望」も、何ひとつ書かれていない。
念のため履歴を確認する。
そこには、何度も「文章が入力され、すぐ削除された痕跡」が残っていた。
「本人は“もういい”と繰り返す」
「死なせてくれと訴えるが、それは希望として記録できない」
「支援すればするほど、本人の苦しみが深くなるように思える」
杉崎は、モニターの前で固まった。
こんな記録、初めてだった。
そのとき、背後から声がした。
「それ、江田さんのやつだよ」
振り返ると、河田が立っていた。
「全部空白の第二表。あたしも最初びっくりしたけど、まあ……あの人なりのやり方なんだって思うしかなかった」
「やり方……ですか?」
「うん。でもさ、杉崎くん。
あたし、あれ見たとき思ったの。“わかってるふり”って一番怖いよって」
河田の目は真っ直ぐだった。優しさと、苛立ちが混ざっていた。
「自分が見えてることだけで、他人を語るのって、すごく危ういから」
その夜、杉崎は帰宅してPCを開き、再びその第二表を開いた。
“空白”は、なにも書かれていないわけじゃなかった。
むしろ、“何を書いても正解じゃない気がして、書けなくなった跡”がそこにあった。
「……この人、本当は何を書きたかったんだろう」
モニターの明かりが、静かに部屋を照らしていた。
第8章:赤いペットボトル
その日、杉崎は“みなも”の先輩ケアマネ武井とともに、生活保護の新規ケースを訪問した。
ドアを開けると、むっとする熱気が顔を撫でた。
そして次の瞬間、天井から何かが落ちてきた。
反射的にのけぞると、黒い影が床を走り抜けていった。---- アブラムシだ。
思わず息を詰めて、足を止めた。
「……失礼します、“みなも”の杉崎です」
返事はなかった。
中から漂うのは、腐った湿布のようなにおいと、微かな甘さ。
2畳のフローリング。
敷きっぱなしの布団。
毛布は端に丸まり、上にはコンビニの袋とペットボトルがいくつか転がっていた。
「……義足の方です。退院して3カ月、訪問拒否が続いていました」
同行の武井が小声で告げた。
部屋の奥、暗がりの中に座っていた男が、ようやくこちらを見た。
義足は外されている。
両手は膝の上。
目が合ったが、何も言わない。
「お加減いかがですか」
杉崎は、できるだけ声の調子を抑えて問いかけた。
男は首を横に振った。
「何が“支援”だよ。
金がないってだけで、いちいちこんな……覗かれるくらいなら死んだほうがマシだ」
布団の横に置かれたペットボトルの1本が倒れていた。
中の液体が染み出し、床に薄茶の円を作っている。
その横には、もう1本――中に赤い沈殿物が混じっていた。
杉崎が視線を動かすと、部屋の隅にポータブルトイレが置かれていた。 蓋を開けると、一瞬息を飲んだ。 赤いアブラムシが、無数に中を走り回っていた。
その沈黙の中で、ファイルに手を伸ばした。
>【支援目標】:本人の尊厳を尊重し、安定した室内生活を維持
> 【短期目標】:支援者の介入に対するストレスを軽減
> 【備考】:訪問時、強い緊張反応あり。“来なくていい”との発言継続
「……これでいいんですか?」
部屋を出たあと、杉崎は武井に尋ねた。
「このまま、誰も関われなくなったら……この人、ひとりで……」
武井は答えなかった。
だが、エレベーターを降りるときに、ふとつぶやいた。
「彼は、“誰にも見られたくない”んですよ。
それでも、我々だけは見てしまう。……支援者とは、罪深いですね」
その夜、杉崎は手帳にこう書いた。
> 「この部屋には、感情が落ちていた。
怒りも、悲しみも、羞恥も、全部、床に転がっていた。
それでも人は、そこに生きていた」
そして思った。
“助けたい”と“見なかったことにしたい”は、いつも背中合わせだ。
この訪問の前、杉崎は一度、別の建物の場所の確認するために立ち寄っていた。
住所には、千目通りの古くからある旅館の名前が記されていた。
旅館というより、もう“福祉宿”に近い。生活保護の高齢者が複数入居していると聞いていた。
杉崎は、木造の急な階段をそっと登った。 幅が狭く、手すりもない。
二階には、畳二畳ほどの部屋が四つほど。
それぞれの部屋の扉には、南京錠がぶら下がている。
施錠されているわけではない。ただ、錆びついてぶら下がっているだけだ。
古い習慣の名残なのかもしれない。けれど、その景色が妙に不気味に見えた。
扉の先には、人の気配があるような無いような・・・
出てきた女性の管理人が言った。
「階段、きついでしょ? 昔の女の人、足が小さかったんだよ。だからこんな造りみたい。それにね、客が来たとき、急いで駆け上がれるようにもできてたんじゃないのかな」
階段の段鼻がすり減っていた。 暮らしの長さと重さが、そこに染みついていた。
確認が終わり、旅館を後にした。
この町の裏に触れてしまった気がして、杉崎はすこし嫌な気持ちになった。
第9章:橋の向こうの現実
墨山区には、三本の橋を越えて向かう。
どの橋を渡っても、空気が変わるのがわかる。
店の看板が古び、電柱には生活用品のチラシ、金貸しのビラ、失踪者の張り紙。
ここには「制度」と「生活」がうまく噛み合わないまま、沈んでいくような時間が流れている。
杉崎が最初に担当したのは、生活保護受給中の高齢男性・丸山。
「……もう、あの女はよこすなよ」
杉崎があいさつも終わらぬうちに、丸山は言い放った。
「クリスマスにケーキ持ってきたんだ。しかも“寂しいでしょ?”って笑いながら。
なにが目的だよ、怖いんだよあれは……」
記録を確認すると、当該ヘルパーは20代の女性。特に問題記録はなかったが、“距離の近さ”に関するメモが残っていた。
「支援者が寂しさを埋めようとして、相手を巻き込んでしまうことがある」
以前、水野が言っていた言葉を思い出した。
次に訪問したのは、白石という年配女性。
契約書の説明で訪ねたが、時間を2分過ぎただけで怒声が飛ぶ。
「遅い! 時間を守れない人間に、介護なんてできるわけない!」
杉崎が丁寧に謝りながら印鑑を差し出すと、手元から印鑑が投げつけられ、畳に赤い朱肉が染みた。
隣にいた同僚の佐野が、小さくつぶやいた。
「慣れるしかないんですよ、こういうの」
その佐野も、別の訪問先でこう言われていた。
「男のくせに、なんでこんな仕事してんだ。恥ずかしくないのか?」
佐野は微笑むように受け流し、手際よく作業を進めた。
だが帰り道、杉崎にぽつりと漏らした。
「時々、自分の価値がわからなくなるんですよ。
でも、誰かが必要としてくれるなら、いいかって」
その数日後、杉崎は生活保護課を訪ねた。
応対に出たのは若い男性職員だった。名刺を差し出される前に、机の奥にあるカレンダーの隅に“次の異動希望”と鉛筆で書かれていたのが見えた。
「えっと……杉崎さん、ヘルパーでしたっけ?」
「いえ、ケアマネジャーです」
「あっ、すみません、わかってなくて……担当が100人超えてて、整理が追いつかなくて」
その言い訳は、もはや定型句のようだった。
制度が用意した“枠”と、目の前の“生活”。
その狭間で誰もがすり減っていた。
杉崎は、橋のたもとに立って空を見上げた。
制度は、確かに命を守る。
だが“命を支えること”と“生きる気力を支えること”は、必ずしも一致しない。
「……それでも、ここで働く意味はあるんだろうか」
そんな問いが胸に浮かぶ。だが答えは出ない。
次の橋を渡るしかない――それだけは、わかっていた。
夜の帰り道、杉崎は千目通りを歩いていた。 特殊浴場の看板の灯がまばらに灯り、その前に立っていた若いボーイとすれ違った。
「おつかれさまっす。◯◯さんのとこ、昨日も玄関の灯ついてましたよ」
ボーイは軽く笑って言った。 杉崎は思わず足を止める。
誰もが支援者じゃない。 けれど、誰かを見ている人はいる。
杉崎は、そのひと言に、不思議と背中を支えられるような気がした。
第10章:再会と沈黙の記録
その建物は、地図には「簡易宿泊施設」と記されていた。
無料定額宿泊所「ひかり館」。
墨山区の外れにぽつんと建つ、小さな三階建て。鉄の門扉には錆が浮き、郵便受けにはチラシが折れ曲がって詰まっていた。
インターホンを押すと、年配の男性が無言でドアを開けた。
「杉崎です。墨山みなも支援センターの」
「……江田さんに会いに来たんでしょ」
その一言で、杉崎は確信した。
共有スペースの奥、薄暗い居間にその人はいた。
江田慎吾。
杉崎が「空白の第二表」を通して何度も対峙した名前の持ち主は、静かに、古い湯呑を両手で包んでいた。
「……来たか。やっぱり来ると思ってた」
江田は、目の奥が疲れ切っていたが、どこか張りつめたものが取れていた。
ふたりはしばらく黙っていた。
杉崎が湯呑を受け取ったとき、ようやく口を開いた。
「なぜ、あのケアプランを……」
江田は、微笑んだ。
「書こうとした。でも、書けなかったんだ。
書いたら、支援が“完結”してしまう気がしてさ……
「空白のままで残すというのは、制度的には……」
「わかってるよ、だめだってことは。
でもな、“だめじゃない言葉”でしか支援できないなら、意味がないと思ったんだ」
杉崎は、その沈黙の記録に込められた葛藤を、ようやく受け止められた気がした。
帰り際、江田はひとことだけ言った。
「迷ってくれ。迷ってるやつのほうが、ちゃんと見てる」
その言葉が、杉崎の背中を押した。
第11章:ケアは、家のにおいの中に
杉崎は、その日の帰り道、ふと、あるにおいに足を止めた。
味噌汁のにおいだった。だしの香りが路地に漂い、ふいに“あの人”を思い出させた。
保坂さん。
杉崎がまだヘルパーだった頃に、毎週通っていた末期がんの利用者。
「あんた、料理できるのか?」
初回訪問でそう聞かれた。言い方はぶっきらぼうだったが、目はやさしかった。
「味噌汁ぐらいなら……」
「よし、じゃあ今日は出汁からな。出汁、ちゃんと取れるか?」
保坂さんは、出汁パックを嫌った。鰹節は袋入りじゃだめ。
一番だしは水が白く濁りはじめた瞬間に火を止める――そう教えてくれた。
「こうやって、毎朝だし取ってるとね、生きてるなぁって思えるんだよ」
その台所には、生活のにおいがあった。
介護保険ではやりすぎだったかもしれない。
でも杉崎は、あの味噌汁の時間が好きだった。
ある日、保坂さんはぽつりと言った。
「脱腸が痛くてね。横になるのもしんどいんだよ」
医療行為ではない範囲で、どうにかできないか。
杉崎は古い風呂敷を見つけ、タオルで輪を作り、腹帯のようにして吊って支える方法を一緒に考えた。
「お、これいいじゃん。やるじゃん、若造」
笑い声が出た。
そして最後の訪問になった日。
保坂さんは、布団に横たわったまま、かすれた声で言った。
「あんた、人は死ぬときどうなるか、よーく見ておきな」
杉崎は何も言えなかった。手を握って、ただ静かにそこにいた。
あのとき見たもの――
それは、命が終わる瞬間ではなく、“生ききった時間のぬくもり”だった。
味噌汁の香りが、また路地に漂っていた。
第12章:見ていた人
「じっとしててくださいね。オムツ、今、外しますから」
その声に返事はなかった。代わりに、皺だらけの手がそっと伸びて――ヘルパーの胸に触れた。
ヘルパーは、驚かなかった。拒まなかった。手をそっと、支えるように置いたまま、作業を続けた。
「そのほうが、暴れないんです。 だから、黙ってました」
夫は90代。脳梗塞後遺症で言語が不明瞭。オムツ交換中に興奮し、声を荒げることもあった。
けれど、その日は穏やかだった。彼の手が、胸に触れているあいだだけ。
その現場を見ていたのは、妻だった。台所の隅で、タオルを絞りながら、目だけが怒っていた。
「……その人は、そういうことをするために来ているんじゃないって言ってるでしょう」妻は震える声で言った。
ヘルパーは、うなずいた。
「でも、“触らせないと怒る”んです。 そのままだと、交換もできなくて……」
その日、妻は何も言い返さなかった。ただ、洗濯機の音を大きくして、部屋のドアを閉めた。
杉崎が支援記録を確認すると、こう書かれていた。
> 【備考】:訪問時、本人より不適切な接触あり。
> ヘルパーは「作業を円滑に行うための判断」と説明。
> 同席の妻より、「この人はそういう仕事で来ているのではない」との発言。
数日後、杉崎が夫婦のもとを訪れたとき、妻は黙って茶を出した。
「……私、あの人が女に触れてる姿なんて、見たくなかったよ」
小さな声だった。
その言葉に、杉崎は何も言えなかった。
第13章:帰り道の灯り
杉崎が駅前の商店街を歩いていたときだった。
見慣れた送迎車が、角の駐車スペースにゆっくりと止まった。
「あ……」
運転席のドアが開き、ひとりの女性が降りてきた。
サリー。
かつて、同じ訪問介護事業所で働いていたフィリピン人の同僚だった。
ジャンパーのポケットに両手を突っ込んだまま、彼女は何気なく車の後ろに回る。
杉崎は思わず胸の奥がざわついた。
「サリー、ポケットに手を入れないようにって、あの頃何度も言ったよな……」
だが次の瞬間、サリーは車の後部座席の扉を開けて、利用者に柔らかい声をかけていた。
その声は、手がポケットに入っているかどうかなんて些細なことだと思わせるくらい、穏やかだった。
「……あの頃、俺の“正しさ”は、何を守っていたんだろうな」
杉崎がそうつぶやいたとき、背後から声がした。
「杉崎くーん、また歩いてんの? 電動アシスト買いなよー、足が楽になるよ」
見ると、もう一人の女性が、自転車を押して近づいてきた。
高橋さん。70歳を過ぎても現役のヘルパー。
夜22時のオムツ交換を担当することもある強者だ。
「22時枠は割増しになるのよ。あれ入れると銭湯代くらいにはなるの。
終わったら“竹の湯”寄って汗流して、牛乳飲んで帰るのが最高なんだから」
杉崎は思わず笑った。
「それ、健康法なんですか?」
「そう、健康法と生活防衛。
でもね、杉崎くん――“自分の身体を使って誰かを支える”って、いいもんだよ」
商店街の街灯がゆっくりと灯り始める時間だった。
あの人のジャンパーのポケットも、この人の銭湯も。
すべては、ケアのひとつのかたちだった。
杉崎は、もう少しだけ歩こうと思った。
最終章:ケアとは何か
夕暮れの墨山区。橋のたもとに、杉崎は静かに立っていた。
川面が朱に染まり、風がゆっくりと髪をなでた。
目を閉じると、いくつもの顔が浮かんでくる。
電動車椅子を風のように操る加奈。
味噌汁のだしに命を重ねた保坂さん。
空白の第二表を残し、沈黙の中で叫んでいた江田。
「一番大事な事は”人”を見ること」と語った水野さん。
ポケットに手を入れたまま、誰よりもやさしい声をかけていたサリー。
そして、22時のオムツ交換のあとに銭湯で笑う高橋さん。
誰ひとりとして、完全な支援を求めてはいなかった。
それでも、支える手がそこにあったから、生きられた時間があった。
杉崎は手帳を開き、一行だけ書いた。
「ケアとは何か」
だが、その下に何も書けなかった。
ペン先が手帳の上でかすかに揺れて浮いた。
生きる意味が見つからないと嘆く声、
怒りや苦しみの心の叫びがこだまする。
杉崎は静かに手帳を閉じ、新しい利用者の書類を鞄に入れた。
答えはわからない。いや、答えなどあるのだろうか。
ふと空を見上げる杉崎の心を優しく風がなでた。
― また、ひとつの橋を渡ろう 。
そう思いながら、彼は歩き出した。
エピローグ:一冊の本
かつて台南区で古本屋を営んでいた杉崎は、
閉店の片づけの中で見つけた一冊の古びたガイド本――
『ヘルパー二級資格ガイド』に導かれ、介護の世界に足を踏み入れた。
あの頃は、「人の世話をするなんて向いてない」と笑われたこともあった。
だが、ページのひとつひとつをめくるたびに、何かが胸の奥に引っかかっていた。
“見送ること”は、いつもそこにあった。
誰かの最期を見届けること。
誰かの涙の隣に、ただ黙って立つこと。
答えのない問いに、ただ一緒に悩むこと。
あのとき見つけた一冊の本は、いまも杉崎の書棚にある。
背表紙は日焼けし、角は丸くなり、文字はかすれている。
だけど、その本がきっかけだった。
誰かと関わるということが、どれほど大きな意味を持つのかを教えてくれた。
その思いを胸に今日もまた、ひとつの橋を渡る。
あとがき
この物語は、私がこれまで出会ってきた多くの利用者さんたち、そしてお仕事で知りあった方々との時間から生まれました。
ただし、登場人物やエピソードは複数の体験を組み合わせ、再構成したフィクションです。
とりわけ加奈さんというキャラクターには、現場で感じた衝撃と、支援者としての無力感、そしてその後の私自身の変化を込めました。
もし、この物語の中に“自分のことかもしれない”と思われる方がいたとしても、それはあなたを否定するためではなく、心から敬意を表し、支えてくれた存在として描いたものです。
そして、この物語はケアマネという仕事のすべてを描いたものではありません。
けれど、私たちが日々感じている“言葉にできない何か”を
一つの物語として残したかったのです。
ケアとは何か。答えは今もわかりません。
それでも、迷いながら、問いかけながら、それでも誰かの隣に立ち続ける――
この本を、すべての方々に贈ります。
2025年 夏 杉崎はじめ
短編 「やるしかない」
「すみません!大変なことになってて・・すぐに応援頼みたいんです」
内容は要領を得なかったが、現場に向かうと、古びた宿の前でヘルパーが真っ青な顔で立っていた。
どうしたの?と聞く間もなく、目に飛び込んできたのは、
廊下に溢れかえった汚水だった。共同トイレに、利用者がパッドを流してしまったらしい。
どうすればいいんでしょう…と呟くヘルパーに、杉崎は静かに答えた。
何を言ってる。やるしかないでしょう。
いらないタオルや雑巾をかき集め、ふたりで水をかき出した。
後に思った。人間って、いざとなると何でもできるもんだ。
短編 赤いほおずき
ある日、生活保護課から電話がかかってきた。
「あの、花車二丁目の方なんですけど……。退院してひとり暮らしで、ちょっと心配なんです。
要支援1だけど、自転車で病院まで行っちゃうような人で。」
本人は「困ってることなんて、ないよ」と笑う。
高血圧と前立腺肥大で通院中。
けれど、ほとんど毎日、自転車でどこかへふらふらと出かけていく。
「今は管つけてるからさ、恥ずかしくて遊びにも行けないよ」
八十二歳のその声には、どこか諦めと、まだ残る“現役”の匂いが混ざっていた。
ケースワーカーは、少し疲れた声で言った。
「何でもいいから、介護保険、使えませんかね。手すり一本でも……。
一人で抱えるにはちょっと厄介で」
“何でもいいから”というその言葉に、ふと胸がつかえた。
それは吉野さんのためというより、自分の手元から“厄介”を外に出したいという響きに聞こえた。
もちろん、制度上、介護保険は「必要性」があってはじめて動く。
必要もないのに手すりをつけるわけにはいかない。
けれど、その「必要」の線引きが、時に人を置き去りにしてしまうことも、知っている。
善意と都合が交錯する境目に、私は立っていた。
実際、訪問のアポは取れなかった。
いつも外出中で、鍵はかかっている。電話も持っていない。
会えないまま、日だけが過ぎていく。
そんなふうに始まった、吉野さんとの関係。
しつこく通った。何度も玄関の前で待った。
やがて、彼は窓を開けて「また来たのか」と言った。
その声に、ほんの少しだけ、あたたかさがあった。
花車二丁目の坂を、自転車でゆっくり上がってくる吉野さんがいた。
カゴの中には、浅蔵寺のほおずき市で買った鉢植え。
「な、きれいだろ」
そう言って笑うその顔が、ほおずきよりずっと柔らかかった。
変な出会いだった。
けれど、今になって思う。
この人にも、ちゃんと、ケアが必要だったんだ。
著者紹介
杉崎 はじめ (すぎさき はじめ)
1962年生まれ。専修大学文学部英米文学科卒
古書店を営んだ後、介護の現場へ転身。
荒川区 台東区 墨田区エリアを中心に
訪問介護員、サービス提供責任者、
ケアマネジャーとして在宅支援に携わる。
資格:
介護支援専門員
社会福祉士
介護福祉士
※ケアマネ杉崎は、『浅草ヘルパー、花が見上げた青い空』『あの春の靴音』にも登場しますので、ご興味あればよろしくお願い致します🙇
