采女町暮色(うねめちょう ぼしょく)
辞令が下りて、仕事場が銀座に移った。
さまざまな客で、昼近くから真夜中まで賑わうこの繁華街に、朝から勤め始めると、お天道様から、お前はもうこの街のお客ではなく、サーバントであるぞよ、と言い渡されたかのようで、悄然とした。
午前の日の光を受けて、舗道にキラリと光る物がある。イヤリングの片っ方やら、何やら。いずれ女のアクセサリィの類である。
きっと、ハイヒールをカッカッカッと響かせて、終電目がけて駆けた「夜の蝶」たちの落とし物だろう。
摘まみ上げて見ると、およそ金目の物でなさそうなところに、銀座の朝の、光り物の鈍い味わいがある。
カラスたちでさえ、そっぽを向いている。
酒の味は、20代にこの街で覚えた。
記憶の中のバーやら、カフェやらを思い起こして、今更訪ね歩いてみても、もはや見つかる方が稀である。
アポリネールの「ミラボー橋」のように、橋の下をたくさんの水が流れたのだ。
20年、30年越しの記憶の層の中には、苦い、むしろ思い出したくない、何がしかの印象を刻んだ店が、其処此処に息をひそめている。
店名すら、とうに忘れてはいても、ひょんなきっかけで、心のしこりや、躓きこそが却って、怖いもの見たさの再訪を唆す。
或る夕間暮れ、ふと、このあたりではと見当をつけ、細い路地を鍵の手に進むと、真中がV字形に窪んだ、特徴あるどぶ板を並べた小路が現れた。
一瞬ためらい、エイヤっとばかり、こじ開けた分厚い木の扉の向こうに、滑らかなカウンターの明かりをはすに受けて、撫で肩の、細い首の上に、面ざし懐かしい小さな顔が、ぼうッと浮かびあがった。
7つ年上のおんな主人は、ちょいと小首を傾げ、徐に読売の夕刊を膝に畳むと、その短い間に、誰だったかしらと素早く思い巡らし、あッと気づいた表情も気取らせぬ体で、すぐさますっと立ち上がり、おそらくは老眼鏡であろう、縁なしの眼鏡越しに
―まあ(!)驚いた。きっとまた来てくれると、20世紀からずっと待っていたのよ。いやあね、こんなに待たせるなんて
と言った。
その容貌にも、たくさんの水が流れていた。
遠いむかしのある晩、後輩を連れてひとしきり騒いで、ボトルが空になったとき、おんな主人が、次の瓶の封を切らなかったことがあった。
言葉にはせず、目顔で、どうぞもうお帰りなさいな、と知らせた。
飲み過ぎのアラートだと、酔った私は受け止めたが、その時、その仕草を一瞬奇異に感じた。それが喉に刺さった小骨のように残った。
別のある夜、誰も客がいないときに、一度だけだったが、呼吸が合って肩を引き寄せると、おんな主人は、抗いもせず、眦から目を見て、細いうなじのおくれ毛に、私が唇を重ねるのを拒まなかった。
後輩が手洗いに立ち、戻って来る短い間、私はその頃夢中になっていたひとのことを話した。
そのひとの子に会ったことも。
私は若くて愚かだったから、「一盗二婢」などと自慢する気持ちが滲んだかも知れない。
おんな主人は、ひとりで子供を育てていた。
速いクルマに乗っていた。
その子の名前も、聞かされたから、知っていた。
酔余の短い言葉の中に、おんな主人を不快にさせる、あるいは傷つけるところがあったのかも知れない。そう思い当たったのは、随分後の事だ。
私は自身の間抜けぶりを悔やんだが、傷つけた核心をまともに見つめ直すことは、面倒くさくなってやめてしまった。
詫びを言うのが恥ずかしくて、爾来、その店の扉を敲くのが間遠になった。
ボトルのお代わりは拒まれたものと受け取り、注文は一杯ずつにした。
―トリスのハイボール。柿ピー多めで
―うちは牛丼屋さんじゃありません
―エライジャ・クレイグのシングルに、水を添えてください
―偉いじゃ? ん-、まだそうでもないけどな
―一番安いジンはなんだっけ。炭酸水にそいつを一滴だけ垂らしてもらえませんか
―ジンと涙のひと雫。はい、歳末助け合いカクテル
―ヘネシー・エクストラを試したい。あればください
―あっ今一瞬、置いているかな、って顔したでしょ。なによ、使い込みでもしてきたの?
その頃、私が方々引っ張りまわしていた女の子が、この店に連れて来て間もなく、行方知れずになったことがあった。
二十歳で、毎日・毎夜、がんがん・みしみし、綺麗になっていくさなかのことだった。
思い出してそのことを話すと
―ああ、可愛い可愛いマキちゃんはね、白状すると、あなたがうちに来るのが間遠になった頃合いを見計らって、しばらくカウンターの中で匿ってあげたの。だって、あなたがついてちゃ、あの娘、仕合わせになれない気がしたんだもの
おんな主人は、ウインクして舌をのぞかせた。
―なんと懐かしい、そのポーズ。惚れ直しても良いですか?
それは悪意を隠したリップ・サービスだ。
今のおんな主人に、そんな仕草は、もう、とうに似合わなかった。
それに気づかない愚かな人ではなかった。すると、私が「帰還」したことで、つい昔の仕草がこぼれ出たのかも知れない。
―そうか、マキの失踪は、共同謀議だったのか。さては二人でウイン・ウインを極め込んだな。マキは、カウンターの中で見染められた億万長者にでも嫁ぎましたか?
貴女も一億万円くらい、コミッションをせしめたんでしょう。
僕にだって、せめて100万円くらいはもらう権利があると思う
―一億万円(!)
おんな主人は、声を立てて笑い、柔和な笑顔に戻り、黙った。
目尻に人懐こい皺を寄せた、老眼鏡の奥の瞳には、長く銀座で水商売を張ってきた女の、油断のならない、とろんとした笑みが浮かんでいた。
おんな主人がマキを「囲い者」にしたのは、迷い込んできたマキの顔と体に目を付けたのが半分、子どものいるおんなに対する、私の態度を不誠実ととり、懲らしめてやろうと思ったのが半分だったのかも知れない。
―マキに子供はあるんですか
という言葉を、すんでのところで飲み込んだ。
今度まちがえたら、この店の分厚い扉に取りつく機会もなくなるだろう。
おんな主人の子は、いったい幾つになったのか。
記憶の底の数字をつなぎ合わせれば、答えは出るはずだが、私は計算を放棄した。
2杯目のジントニックが空になっていた。
Deux gin tonics, merci beaucoup Quelle heure est-il?......
鼻歌にフランソワーズ・アルディの曲が浮かんだ。
―帰ります。最後に、何かグラスの縁に、塩を塗りたくったのをください
―塩を撒くんですか?
―撒きたければ、それは出て行った後にしてください
―冗談よ。御免なさいね。いいえ、いいえ、とんでもない。とびっきりのをすぐにお作りします。丸の内から銀座にようこそ。同じご町内になれたんだもの。嬉しいわ。どうぞまた御贔屓に。でも……
―でも出世払いは、なしですよ、もう、そんな歳じゃないものね
30歳の頃のように、悪戯っぽく目を覗きこみ、左肩にふわりと小さな掌を置くと、おんな主人は抜かりなく減らず口をきいた。
