すべての人が平等に尊いってお道徳に過ぎないのか? 〈2〉
「法華経を読むと、いつも興奮する。-中略-こういう経典がしだいに人を変えるのだということも、何度も実感され、ぼくの脇腹にも刻印されてきた。
-中略-
一方の常不軽菩薩は法華経20の『常不軽菩薩品』に登場する。この常不軽菩薩のキャラクターが法華経全巻においていぶし銀のごとく光るのだ。
-中略-
もしもドストエフスキーやトーマス・マンが常不軽菩薩のことを知っていれば、すぐに大作の中枢として書きこんだはずである。そのくらい、断然に光る。」
(松岡正剛 千夜千冊より)
どのような人の生命にも、「仏性」という尊い命が内在し、修行によりその「仏性」をあらわし、一人の例外もなく「仏」になれる――そう説くのは、大乗仏教の最高峰とされる、
法華経(=妙法蓮華経)
その法華経(妙法蓮華経)には、仏の直観智がとらえた、あまりに壮大な、“大宇宙の様相”が示されています····
それが、
三千大千世界
須弥と太陽と月を【一世界】→太陽系
【一世界】×千個を【小千世界】→銀河系
【小千世界】×千個を【中千世界】→銀河団
【中千世界】×千個を【大世界】→大宇宙
この仏教の「宇宙観」は、【太陽系】が集まって【銀河系】になり、その【銀河系】が集まって【銀河団】になり、その【銀河団】が集まって【大宇宙】になる、との、
現代科学で発見された【宇宙の構造】
と、ほぼ一致しているのです!
驚くべきは、この【大宇宙】(=三千大千世界)それ自体が、さらに、
ガンジス川の砂の数ほど存在する
というのですから、このあたりから、私は、もう、頭がクラクラしてきます。
これもまた、最新の研究理論である、我々の宇宙の他にも別の宇宙が存在する、との「マルチバース宇宙理論」とも響き合う内容なのです!
それだけではありません!
そのガンジス川の砂の数ほど存在する、【大宇宙】群の中に、地球のように“人類”が暮らしている星が無限にあり、また、釈尊のような「仏」も無数に存在していて、仏法が広まり、仏の悟りを得た人々が暮らす平和な【仏国土】も無数に存在する、というのですから、もはや、脳死状態······。
ゆえに私たちも、永劫の輪廻転生の中で、地球以外の星々に生きていた過去世も“ふつうに”あり、来世に、地球以外の星々に転生することも“当たり前”にある、ということなのです!
まことに気宇壮大であります。
さて、その同じ法華経(妙法蓮華経)の常不軽菩薩品第二十に、
常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)
という人が登場します。(以下:不軽と呼称)
時代は、無限に長遠で、はかりしれないほどの過去にさかのぼります。それは、この地球上での人類史をはるかに超えており、上記に長々と説明した【仏教の宇宙観】にしたがえば、地球以外の星を舞台にしている可能性もあります。
その、長遠なる、はるかな昔、威音王仏という仏がおりました。
その仏が、所定の法を説き終わって亡くなりました。それから、しばらくたった後の時代――。
「増上慢の比丘、大勢力あり」
(妙法蓮華経 常不軽菩薩品第二十より)
国には、身分の高い僧侶が大勢力を持っていました。
「身分の高い者だけが仏になれる。誰もが仏になれるだなんて、とんでもない。」
人々はあきらめていました。身分も低く、幸せにもなれない······人々の心は荒れていました。
僧侶という、権威にうぬぼれ、おごり高ぶった大勢力が、わがもの顔で「人間を軽んじていた」時代でした。
不軽菩薩が現れたのは、まさに、こうした時だったのです。
不軽は、会う人、会う人に、
「私はあなたたちを深く尊敬します。決して軽くみることはしません。だって、あなたたちはみな、修行をすれば将来きっと《仏》になるからです!」
と呼びかけながら、その相手に、手を合わせて合掌し、深々と頭を下げるのでした。
人々は、顔をしかめました。
「俺たちが、仏だって?」
人々は身分の高い僧侶たちにさげすまれていたので、“自分たちが仏になれる”などとは想像さえできなかったのです。
不軽から、合掌礼拝された人々は、不軽を口汚くののしり、怒鳴りちらしました。
「ふざけるなっ!」
「ウソっぱちは、よせっ!」
「おまえは仏でもないくせに、俺たちに“仏になれる”などと言う。いったい何様のつもりだっ!」
それでも不軽は人々に向かって、手を合わせ、頭を下げつづけました。
不軽はどんな悪口やののしりにも負けることなく、人々への合掌礼拝を貫いていきました。
すると人々は、悪口だけではなく、とうとう不軽を棒や杖で打ったり、石を投げつけるといった、ひどい暴力をふるうようになったのです。
不軽に浴びせられた、悪口と暴力の集中攻撃――その背景には、権威と慢心の輩の“連合”による陰湿な策謀があったとされます。
不軽は、人々から暴力をふるわれそうになると、サーッと遠くまで一目散に走って逃げました。
そして、くるりと振り向くと、大きな声でこう叫んだのです。
「私はあなたたちを深く尊敬します。決して軽くみることはしません。だって、あなたたちはみな、修行をすれば将来きっと《仏》になるからです。」
不軽は、語りつづけ、手を合わせ、深々と頭を下げつづけました。
どこに行っても、人々は、不軽の言うことを信じませんでした。
しかし、彼は、どんなに、さげすまれても、どんなにひどい目にあわされても、まったくあきらめませんでした。
何年も何年も国中を歩き、会う人すべてに頭を下げつづけました。
そして、不軽は、この修行を生涯にわたり、貫き通したのです。
長い年月が過ぎ、不軽はすっかり歳をとりました。顔はシワだらけになり、身体はやせ細りました。腰も曲がり、とうとう歩けなくなってしまいました。
年老いた彼の顔は、風雪に耐え抜いた風格をたたえ、おごそかな輝きさえ放っていました。
彼は、力なく横たわりながら、しわがれた声でつぶやきました。
私は一歩も引かなかった····すべての人を尊敬しつづけた。
彼は満足そうに、そして、静かに、目を閉じました·······
その時です――!
夜空がさーっと輝きわたり、見るも美しい光の輪が、幾重にも降りそそぎ、横たわる彼をやさしく包みはじめたではありませんか!
さらに、天空からは彼を賛嘆する声がとどろきわたり、まるで大宇宙全体が彼を祝福しているかのようでした。
これは、悔いなく生き切った不軽の心の中に映じた一つの光景であったのかも知れません。
いずれにせよ、仏典には、このとき、彼は「寿命」をのばし、豊かな智恵を得た、とあります。
今まで彼をバカにし、イジメていた人々は、彼の輝きわたる姿を見て、そばに駆けより、素直に心を入れ替え、ともに仏になるための修行をはじめました。
ちなみに、
「私はあなたたちを深く尊敬します。決して軽くみることはしません。だって、あなたたちはみな、修行をすれば将来きっと《仏》になるからです」
との言葉は、読みくだす前の経典では以下のようになります。
「我深敬汝等、不敢軽慢。所以者何、汝等皆行菩薩道、当得作仏。(→我は深く汝等を敬い敢えて軽慢せず。所以はいかん、汝等は皆、菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べければなり)」
この言葉は、
二十四文字の法華経(妙法蓮華経)
といわれ、不軽菩薩は、この【二十四文字の法華経(妙法蓮華経)】を人々に説き広める修行をしたことになっています。
なので、不軽が、最後に寿命をのばし、豊かな智恵を得たことも、この【二十四文字の法華経(妙法蓮華経)】を人々に説き広めた修行の「功徳」であるとされます。
不軽は生涯、迫害の連続でありました。もっとも偉大でありながら、生涯、常に“軽んじられ”続けました。しかし、【生命の因果】は厳然としています。不軽は臨終のみぎわに寿命をのばし、さらに広く人々のために「二十四文字の法華経(妙法蓮華経)」を説きました。
そして不軽は、その後も、様々な星、様々な時代に生まれてくるたびに、数限りない仏とめぐりあい、なにも恐れない心で法華経(妙法蓮華経)を広め続け、無量の福徳を得て、ついに仏になったとされます。
反対に、不軽を迫害した人々は、不軽を“軽んじた”罪が消え切らず、二百億劫もの間、仏にも会えず、仏法を聞くこともできず、千劫もの間、阿鼻地獄で大苦悩を得たとされます。そして罪の精算が終わった後に、ふたたび不軽にめぐりあい、教えを受け、修行に励み、やがて仏になった――。
これが、真実だとすれば、なんと壮大にして、また厳粛なる生命のドラマでしょう!
法華経(妙法蓮華経) 常不軽菩薩品第二十の最後には、実に、この不軽菩薩こそ、他ならぬ釈尊自身の過去世の修行時代の姿であることが明かされているのです。
※なお、この「常不軽」はサンスクリット語の「サダーパリブータ」の漢訳の一つ。
「正法蓮華経」(竺法護訳)では、「常被軽慢」つまり、人々から「常に軽んじられていた」と訳され、「妙法蓮華経」(鳩摩羅什訳)では、「常不軽」すなわち人々を「常に軽んじない」と訳されています。
人々から軽んじられていた菩薩。
人々を軽んじない菩薩。
ともに、同じ不軽菩薩の二つの側面を表しているようです。
相手がどんなに軽んじてこようとも、自分は絶対に相手を軽んじない!
相手がどんなに暴力に出てこようとも、自分は絶対に相手に暴力をふるわない!
相手がどんなに裏切ってこようとも、自分は絶対に相手を裏切らない!
こうした、相手の反応に左右されない、確固たる揺るがぬ自己を確立する······これが「人格」でしょう。
遠い遠い道のりのようですが、最終的には、こうした人格を人類一人一人が確立する以外に戦争や差別やイジメはなくならない。そう私は考えます。
疑り深い性格の私は、人類の知的財産の一つとして、こうした仏教哲学を位置付けています。
どんな人にも仏性がある。だから、どんな人も仏になれる。だからどんな人も例外なく尊い。それが宇宙の永遠の法則である。この法則に反して人を見くだせば大苦悩の報いを受け、この法則に順ずれば、仏になれる。
このような【生命の尊厳】の哲学的な根拠(=仏性)が人々に広まり信じられたならば、少なくとも戦争や差別に対する抑止力にはなりそうです。
