じおふろ編集室#5 三江線
島根県江津市と広島県三次市を結ぶ三江線。
廃線となったのが2018年。時の流れの早さを感じます。
この三江線の廃線跡をGoogle Earthで空からたどる動画を公開しました。
【空撮】三江線の廃線跡を空からたどる|江津~三次
「じおふろ編集室」では、動画制作にまつわるエピソードを気軽に読んでいただける形でお届けしています。いわば編集の裏話です。
今回の記事では、三江線の全35駅のうち、カメラを寄せて周辺の景色まで紹介した6つの駅を取り上げます。
なぜこの駅で立ち止まったのか、その理由も交えながら動画の裏側をご紹介します。
川戸駅
三江線の一番最初の開通区間が、江津駅から川戸駅の区間。
開通したのは1930年(昭和5年)のことになります。
三次側の最初の開通区間である三次から式敷駅間の開業は、この25年後になる1955年(昭和30年)です。
さらに、全線開通が1975年(昭和50年)なので、45年後のことになります。
江津は江戸時代の幕府直轄の天領として、北前船の寄港地および天領米の積出港とし賑わう場所でした。
時代は、明治・大正・昭和と進みますが、優先的に鉄道が引かれたことからも、江津が江戸時代から続く交通の要衝であったことがうかがえます。
江の川の河口にほど近い江津駅から三江線はずっと江の川に沿って進みます。
支流である八戸川と江の川が交わる場所にあるこの川戸駅。
この周辺も、江の川の水運に重要な場所で、川湊・桜井津(さくらいのつ)として、室町時代には対朝鮮貿易の拠点として繁栄しました。
赤茶色の石州瓦の屋根の建物が並ぶ集落が印象的です。
わたしの動画制作は、Google Earth Studioを開く前から始まっています。
まずはその土地を、グーグルマップでじっくり眺めるところからです。
地図で江津を出発して三江線をたどっていって、いちばん最初に気になったのは川戸駅周辺の集落でした。
グーグルストリートビューでこの川戸駅周辺を探索してみると、「思っていたよりずっと大きな街だな」と感じました。
このあとにも出てくる三江線に沿った街は、どこも同じように川沿いの平地にできた街ばかり。
これらの街をつないで行って、最後は陰陽連絡線として機能すべく、長い期間をかけて建設されたんですね。
そう、わたしはグーグルマップでは航空写真を表示し、SHIFTキーを押しながら視点を傾けて、空から眺めるように見ることが多いのですが、空から見たイメージとストリートビューで地面から見た様子、これらにギャップがあることが多いと感じています。
この川戸駅周辺も、空から見ると「小さな集落」っていう感じだったのですが、ストリートビューで地上の目線で探検してみたら、大きな公民館や体育館があり、現存する駅舎も立派で、しっかりした街だなって思いました。
空から眺めて気になった場所に、ストリートビューで降り立ってみる。
そんなふうに目線を変えると、その土地の印象がガラッと変わることがあります。
川戸駅も、まさにそんな場所でした。
石見川本駅
江の川の水運と切っても切れない場所。
現在世界遺産に登録されている「石見銀山」と深いつながりのある川本町の中心駅です。
地図で石見銀山の位置を見ると、日本海に近く、川本町とは少し離れた場所にあります。
どうして石見銀山から見て山奥にある川本町が、この銀山と深くつながるんだろう?銀を運び出すなら、わざわざ山奥に一度持ってきて江の川の舟運を使わなくても、もっと近い海に持って行けばいいのに。
不思議に思いさらに調べていきます。
銀山が稼働していたころの川本町の役割は、銀そのものを運び出す拠点というよりも、銀山を支える人や物資が集まる物流・商業の拠点でした。
川本町もまた、江津と同じく江戸時代の幕府の天領地。
多くの商人が、この川本町を拠点に石見銀山から産出される銀の流通を担い、銀山に関わる労働者の食料などの生活物資は、日本海側からここ川本町へ運び込まれていました。
さらに、江の川の上流、三次方面からも多くの物資が運ばれてきました。ただ、それらは川本町ではなく、もう少し上流で荷揚げされることが多かったようです。このお話は、また後ほど。
江戸時代には、このエリアの経済の主役であり続けた川本町。
かつては物資を運ぶための「戦いの場」であった江の川は、現在は「豊かな自然と共生する癒やしの場」へと再定義されました。
この街もまた、赤い石州瓦の立派な建物が目立つ街です。
その姿は決して寂れた印象ではなく、今もなお、かつて地域の中心地だった面影を感じさせます。
粕淵駅~浜原駅
この2駅もまた、「石見銀山」とのつながりの深い町、美郷町にあります。
粕淵駅は、江の川がその向きをぐるっと大きく変える場所。
浜原駅は、1937年(昭和12年)に江津からここまで開通し、1975年(昭和50年)の三江線の全線開通まで、三江北線の終着駅となっていた駅です。
銀山で賑わった、かつてのこの粕淵駅と浜原駅あたりの江の川には、上流の三次方面からの物資も多く届き、銀山で一攫千金を夢みる鉱夫や役人たちが集まる活気のある場所でした。
今回の動画制作で、三江線をたどりながら、ここ美郷町を見たとき、「ああ、この町だ」と思いました。
ここ、美郷町について、私自身とのかかわりの話を進めていきます。
登山を趣味とするわたしは、この美郷町にほど近い中国地方の名山、「三瓶山」は大好きな山です。
わたしが住む広島県からも近く、周辺の山と比べとびぬけて標高が高い三瓶山。
登山ルートが多彩で、日本海や条件により隠岐まで見渡せる広々とした山頂からの絶景。
何度も登頂したことのあるこの三瓶山で登山を楽しむために向かうとき、登山口に到着する直前に買い出しをするためによく立ち寄る町が、この美郷町です。
同じくここも、石州瓦の赤い屋根の集落が歴史深い街道の雰囲気を残す街。
公民館や役場も立派な佇まいで、通る国道は山を貫くバイパスが整備され、山深い場所でありながら、かつてから続く主要な街だと肌で感じることのできる街です。
江戸時代の繁栄が終わり、近代に入ると、町から出稼ぎ労働者や商人が一斉に去っていきました。
実は、美郷町や川本町がある島根県「邑智(おおち)郡」は、昭和40年代に日本で最初に「過疎」という言葉が使われ、対策が議論され始めた象徴的な地域でもあります。
川本町のところでも述べた、「豊かな自然と共生する癒やしの場」
これは、美郷町でも同じです。
2018年、かつての栄華の最後の象徴だった三江線が全線廃止となりました。
しかし、町の人々はこれを「寂しい終わり」のままにはしませんでした。
美郷町には国内屈指のアウトドア拠点である「カヌーの里おおち」があります。昭和57(1982)年の「くにびき国体」でカヌー競技の会場になったことをきっかけに整備されました。
また、船頭たちが日常的に食べていた「江の川の豊かな恵み」を味わう文化も健在です。
美郷町は、島根県で唯一、江の川の伝統漁法である「簗漁(やなりょう)」が今も体験できる場所です。
近年、島根県の人口は減少傾向が続いていますが、川本町や美郷町は「移住支援」や「若者定住住宅」の整備に非常に力を入れています。
その結果、特定の年では、転入者が転出者を上回る「社会増」を達成するなど、「静かで不便だからこそ、人間らしく暮らせる場所」として若い世代やクリエイターから再び注目を集めています。
わたしは、今回この三江線の動画制作に取り掛かる前までは、石見銀山と江の川や三江線のつながりを意識することはありませんでした。
実際に地図を見ると離れているのですが、美郷町内の地図を見たときに、古い街を貫く道路に「石見銀山街道」の表示を見つけたところから、一気に興味がふくらんでいきました。
川本町も美郷町も、その町の存在は知っていましたが、「鉄道にも見放された終わりゆく町」、これ失礼な言葉ですがあえて正直に書いています、これまでこのくらいの認識でこれらの町を見ていました。
世界遺産「石見銀山」の評価を耳にするときによく聞くのが、「がっかり世界遺産」という言葉。
わたしは、比較的近い場所に住んでいるにもかかわらず、石見銀山には行ったことがありません。
三江線をたどりながら過去の歴史を知ったことで、美郷町や川本町、石見銀山、そして三江線そのものへのイメージが大きく変わりました。
「発見」という言葉、何も知らないことを知ることよりも、当たり前だと認識していたことを修正されるようなことを知ることのほうが、よほど大きく「発見」だと感じることがおもしろいです。
今度は地図の上ではなく、自分の足で歩いて確かめてみたいと思います。
宇都井駅
三江線でいちばん有名な駅と言っても過言ではないと思います。
「天空の駅」として知られ、廃線直前の大晦日、NHKの「ゆく年くる年」ではこの駅から生中継が行われました。
地上20メートルの位置にホームと待合室があり、地上からホームまでの高さが日本一ともいわれる駅でした。
わたしも、廃線後にこの駅を訪れたことがあります。
ホームへあがるまでのエレベータもスロープもない階段は、公団アパートの階段部分のみを持ってきたような雰囲気。
その日はホームへ出る扉は施錠されていましたが、今でも観光用のトロッコが運行されることもあり、運行日にはホームに出ることもできるようです。
駅周辺には数軒の民家がありましたが、そのどれも立派なつくりの建物であったことが印象的でした。
この宇都井駅が含まれる、浜原駅~口羽駅間は、三江線の最後の開通区間であり、開通は1975年(昭和50年)のことになります。
この区間は、日本鉄道建設公団が、直線的に高規格で建設した区間です。
江の川にぴったりと寄り添うようにして建設された三江線は、何度も洪水の被害を受けています。
この区間では長大なトンネルや立派な高架橋が続き、この宇都井駅の前後でそれぞれ江の川を渡るのですが、その橋はどちらも川からかなり上空を両岸の山の中腹に通したトンネルをつなぐ巨大なトラス橋で渡っています。
昭和40年代の鉄建公団は、「地方の鉄道も幹線並みに近代化する」という発想で、中国山地の奥深くに巨大な高架橋と長大トンネルを次々と築いていきました。
ずっと江の川に沿った三江線が、唯一江の川から離れた場所を進む場所もこの区間にあります。
「わざわざ川の蛇行に付き合う必要はない。山があるならトンネルで真っ直ぐブチ抜けばいい」
この、戦後の最新土木技術で作られた新線区間だからこそ生まれたのが、谷底の集落のはるか頭上を鉄路が突き抜けるという、あの奇跡の要塞のような景観です。
残念ながら、動画では宇都井駅周辺の高架橋やトラス橋がGoogle Earth上で正しく立体表示されず、谷底へ沈み込むように見えてしまいます。
それでも、地形とあわせて見ていただくと、この区間がいかに大胆なルートで建設されたかは感じていただけると思います。
「曲げるな、落とすな、真っ直ぐ通せ」
昭和のエンジニアたちが、この過酷な中国山地に挑んだ技術の結晶の象徴的な駅。
それが、ここ宇都井駅です。
口羽駅
1963年(昭和38年)、三次駅からここ口羽駅までが三江南線として開業。
そこから12年後の1975年(昭和50年)に、前で述べた公団建設の浜原駅までの区間が開業するまでの間、口羽駅は途切れた線路の終着点でした。
口羽の地名の由来は、この地で江の川と合流する出羽川の下流の口というところから。
この地は、出雲・石見(島根県)と、安芸(広島県)をつなぐ、国境の最大の要衝。
やがて、毛利元就がこの地域を支配下に置いた際、一族の有力な武将である志道通良という人物を、この地に配置しました。
この人物が口羽通良を名乗り、この地を治めた歴史が残っています。
口羽周辺は、かつて「口羽木炭」の一大生産地で、貨物輸送によるさらなる増産が期待されていました。
しかし、エネルギー革命によって木炭の需要は急速に減少し、三江線が全線開通したころには、その期待はすでに失われていました。
結局ここに貨物列車が走ることはありませんでした。
12年間、鉄路の終点だった口羽駅。
国境の関所だったこの駅の先で、昭和のエンジニアたちは山をブチ抜く空中回廊を建設し、ついに山陰と山陽を1つのレールで結びました。
いまも上空から見ると、終着駅として整備された広い構内が、この駅に託されていた期待の大きさを静かに物語っています。
編集室からのあとがき
この動画のサムネイルに、「おぼえていますか?」のひとことを添えています。
わたし自身、広島県在住ということもあり、動画の制作に入る前から、三江線のことは身近に感じるところもありました。
廃線が決まってから、広島の地元のニュースのみならず、全国ニュースでもたびたび取り上げられ、廃線を惜しむ鉄道ファンが三江線に集まってきていたことを思い出します。
でもね、動画をつくり、そしてこの記事を書きあげて、よくわかりました。
覚えていたことよりも、知らなかったことのほうが、はるかにたくさんあったということを。
近いうちに、石見銀山と周辺の街へ行ってみたいと強く思っています。
少なくともわたしは、「がっかり世界遺産」という感想は出てこないでしょうね。
とても楽しみにしています。
