山の記録|山犬様挽歌、三峯神社と妙法ヶ岳
オオカミのいない山で、身体と信仰と生態の三層から、大神の声の残響を聞く話
◇Canis lupus hodophilaxの消失
ニホンオオカミは、どんな生き物だったのだろうか。島嶼効果により小型化した日本固有の社会性肉食動物で、北海道を除く日本列島において生態系の頂点として君臨していたが、1905(明治38)年に、奈良県吉野郡鷲家口で捕獲された個体を最後に絶滅したとされる。もはやオオカミは日本に存在しない。
それでも各地には、オオカミを眷属として祀る信仰が残っている。獣害除けや火防を願い「山犬様」を拝借して軒下に迎える文化である。信仰は各地にある。その総本山が秩父の山深く、三峯神社にあることは疑う余地はない。オオカミとは本来「大神」を意味する。
山犬信仰を辿る身として、そして、変わり狛犬ファンとして、三峯神社には是非行かねばならぬ。雲取、白石と並ぶ奥秩父・三峰山の一、三峯神社の奥社にあたる妙法ヶ岳とともに、消えた日本のオオカミの気配を探すことにした。
◇奥宮礼拝
三峯神社のバス停に降り立つと、雨とも晴れとも付かぬ微妙な天気であった。それはまるで奥秩父の深遠を、よそ者などには見せないかのようであった。
白い霧が視界を覆う中、細い尾根を進む。道の両側には天衝くスギ並木。根元にはシカ害除けの防獣ネットが続く。もはや眷属も形無しだな、そう軽口を叩くと、途端に雨脚が強くなった。ひとり取り残された気がして心細い。腰に下げた鈴の音もどうにも頼りない。行き逢った登山者と自然と歩調が合う。
霧の中で、時間の経過が曖昧になっていた。どこにいるのか、いつからいるのか、どうしてここにいるのか、そういったものが次第に判然としなくなっていった。
僅かに変成を受けているのか、ずたずたに砕かれた堆積岩の峰を幾度か慎重に越すと、奥社はひときわ高い岩峰の頂に坐していた。最後の石階段は恐ろしく急で、あたかも人々の行く手を阻むかのようであった。
風の音が、獣の息遣いのように聞こえた。
いや、阻んではいない。
我は拒まぬ。来るならば来い。
然れど──貴様はその覚悟を持つや。
それは山の意志であり、大神の唸りであった。
その無言の圧力に、ただ低頭し、前肢も使って這うようによじ登る。山がひとたび、わたしの内側をそっと撫でた。
ここは異界。ヒトガタを剥ぎ取る場所。結界の中で人はただ獣に戻る。いや、獣であることをただ思い出す。
四周は霧に沈み、半ば風化した眷属の依り代とともに、わたしはただ風に吹かれていた。
座り込んだ目の前のカバノキ属の落葉高木が、オノオレカンバなのか、秩父特産のチチブミネバリなのか、確かめる術がないことが心残りであった。
その執着の一点で、わたしは里へ回帰した。
俗世への階梯を下る。いや、四つ足で降りた。

◇里宮礼拝
随神門をくぐり深閑とした境内に入る。
境内には「桧苗木を寄進した」記念碑が所狭しと立っている。森の神への供物として、これほど相応しいものもあるまい。
門前の狛犬(いや狛狼)は、いかにも強い大陸の狼であった。対して石段前の子は筋骨隆々としたテリアのよう。拝殿前の子は少し拗ね気味の家庭犬のようでもあった。奥社を守る歴代の子たちに至っては、狐にも狸にも見えた。オオカミと野生犬、さらにはそれらの混血個体などが、渾然一体となって眷属とされてきたのだろう。
併設された博物館で、ニホンオオカミの毛皮を見た。
薄暗く調整された室内、ガラスケースに横たわるように陳列されたそれは、もはや山野を駆けていた生の獣ではなかった。
オオカミは日本にいないのだ。三峯神社の眷属信仰は、絶滅したオオカミをなお神として祀り続ける文化的残響である。生態系が崩れ、山々は草食動物に食い荒らされている。それが三峯の足元にも及んでいるとは、何たる皮肉であろうか。山犬様も「知らんがな」と呆れ顔のことだろう。
奥社遥拝殿に上がると、先ほどまで四肢で立っていた奥社は、深い峡谷を隔てて厚い雲の中にある。しかし、山頂であろう方を向き、畏れ多い所作で礼拝する参拝者を見て、胸の奥がわずかにざわついた。信仰の根源は、一体どこにあるのか。
知性を持った野生動物の気配などもうどこにもないのに、谷の底から遠吠えのような響きがこだました。その空耳こそが、山犬信仰の残響なのであろう。





(山行記録:2026年7月3日)
山名:三峯神社・妙法ヶ岳(埼玉県秩父市)
形態:三峯神社バス停を起点に往復、ソロ登山、約2時間30分(休憩30分)
天候:くもり時々雨(霧)
水分:1.2L持参→0.3L消費
昼食:パン、おにぎり
植生:スギ、ヒノキ人工林、落葉広葉樹林
(初出2026年7月22日)
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▼より詳しいフィールドノートはこちらから。
https://yamap.com/activities/49429182
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