ピチカート・ファイヴ「トゥイギー・トゥイギー」と映画『バーバレラ』と渋谷再開発💢のSOULな関係
この連載を、リアル・ノベル・エッセイとでも名付けましょうか。小説でもない、音楽論でもない、エッセイでもない。音楽業界歴50年の筆者が創作した全く新しいスタイルの読み物です。筆者は、70年代に洋楽ディレクターとしてクイーンを担当し、そのキャリアをスタートさせ、その後邦楽プロデューサーに転向。同世代の音楽ファンのみならず、新世代の音楽ファンにも楽しんでいただければ幸いです。Text11は、ピチカート・ファイヴ「トゥイギー・トゥイギー」と映画『バーバレラ』と渋谷再開発💢をめぐるユニークな内容です。
見出し画像は『バーバレラ』のジェーン・フォンダ
クイーンSOULブギウギ
― ある音楽プロデューサーの私記
Text.11
ピチカート・ファイヴ「トゥイギー・トゥイギー」と映画『バーバレラ』と渋谷再開発💢のSOULな関係
2020年某月某日。
夕方、小津安二郎の映画を見た帰り、まだ再開発の憂き目に会う前の渋谷の裏町をうろついていると、ある店の看板が目にとまった。
メタリックで重厚なドアに細いブルーのネオン管で作られた文字は『GROOVE TUBE』と読めた。懐かしいフリッパーズ・ギターの曲名だ。
コンクリート打ちっぱなしの外観の様子からは何の店かわからない。足を止めてしばらく佇んでいると、ドアが開き、若い女の子が二人手をつないで出てきた。開いたドアの隙間から店内の音楽が漏れ聞こえてくる。それは、ピチカート・ファイヴの「東京は夜の7時」だった。BARだろうか。喉も渇いていたし、ここで冷たいビールを飲むのも悪くない。
そこは、程よい広さの居心地良さそうな店だった。フロアには低めのテーブル席が4つ。椅子は一人がけのソファタイプ。テーブルも椅子もデザインを揃えていないところは、昨今のカフェ仕様である。右側の奥に大きめの窓があり、真っ赤なカーテンが半分ほど開いて弱い西陽が差し込んでいた。
テーブル席はすべて埋まっている。若い客が多いが、中には私のような世代の業界人ふうの者の姿も見受けられた。左側の壁の手前には長いカウンターがあり、その奥にはDJブース。髪を束ねてアロハ・シャツを着た女性がターンテーブルの前にいた。
白いシャツに黒いパンツを合わせたショートカットの女性が近づいてきて「お一人ですか?」と聞いた。私は黙って頷いたのだが、その時に彼女に不思議な印象を持った。どこかで見覚えのある面差しと雰囲気と声。その謎は彼女が自ら解き明かしてくれた。
「天平さんですよね。お久しぶりです。天野です」
彼女は、ちょっと照れたような笑顔を見せた。
「天野くん?」
彼女は大きく頷いた。私は思い出した。天野洋子だ。彼女は、私が勤めるプロダクションの宣伝部員だったのだ。あの頃は長い髪をソバージュにして快活な印象だったが、目の前の彼女は髪を切り、大人っぽく楚々とした雰囲気の美人に変身していた。こうして言葉を交わすのは何年ぶりだろうか。
「私、ここの店長をしているんです」
そう話す彼女に促されるままにフロアを進み、カウンターのストゥールに腰掛けた。私は、カウンターの中にいるドレッド・ヘアの女性が差し出したメニューに目をやり、ハイネケンを注文した。
次に私の視線が捉えたのは、カウンターの上に設置された、二つの映像モニターだった。カウンターの両端にそれぞれ天井から下げられている。カウンターに座った客が見やすいように、やや斜めに内側を向けられていた。私は、80年代に大流行したカフェ・バーにもこんなモニターが置かれていたことを思い出した。両モニターの映像は、どちらも同じで、今はピチカート・ファイヴをBGMに外国のファッション・ショー(おそらくパリコレ)の模様が映し出されていた。
ビールで喉を潤していると曲が変わった。TOKYO NO.1 SOUL SETの「黄昏’95〜太陽の季節〜」である。渋い選曲だ。次は小沢健二とスチャダラ・パーの「今夜はブギーバック」がかかる。続いてICEの「kozmic blue」だ。1990年代の知っている曲ばかりだ。しかも4曲続けて渋谷系の曲ではないか。どうやらここは渋谷系音楽に特化した店らしい。今どき、こんな店があるのかとしばらく感慨に耽った。こうして2020年に渋谷系の曲ばかりを受け止めていると、渋谷系の音楽が大きなブームとなったあの頃の自分を思い出す。

自分にとっての1990年代の渋谷は、HMVとともにあった。HMVとはイギリス資本の音楽・映像を扱う専門店のことで、1990年に渋谷の東急本店近くに第1号店がオープンした。(その後宇田川町に移転)当時はまだインターネットが普及していなかったので、情報を収集するには街に出て自分の足と目で確かめるしかなかった。渋谷に来れば必ずHMVを覗いたものである。そのHMVが店頭で積極的にアピールする新しいアーティストたちが、いつの間にか『渋谷系』と呼ばれるようになっていった。『渋谷系』は、1960年代の洋楽やカルチャーをモチーフに創作され、新しい日本のポップスの潮流を作った。そこには過去の音源のサンプリングや編集といった手法も取り入れられた。これが後にJ-Popと呼ばれる音楽の土台となるのである。
私は手を上げて天野洋子を呼んだ。
「ねえ、この店、渋谷系の曲しかかからないの?」
「そうですね。渋谷系しか、ということもないですけど、私も彼女も……」そう言ってドレッド・ヘアーの女性を指差した。
「彼女はパートナーなんです。二人とも同い年で、渋谷系が青春ど真ん中だったもので。こんなお店があってもいいんじゃないかと」
「なるほど。昭和歌謡ならぬ平成ポップだね」
私はこの店に入り浸るようになり、いつのまにか閉店後には天野洋子と落ち合い酒を飲み、時には一緒に彼女の部屋に帰る間柄になっていた。
この店で私はある映像を観て衝撃を受けた。それはピチカート・ファイヴの「トゥイギー・トゥイギー」のヴィデオ・クリップである。この店では、DJのパートが終了すると、2台のモニターで当時のヴィデオ・クリップを流す時間になる。
ある夜、遅い時間に一人、テーブル席でパソコンを開いて仕事をしているとその映像が流れた。思わずキーボードを打つ手が止まった。
もちろん「トゥイギー・トゥイギー」の曲は知っていたし、ピチカート・ファイヴのアルバムは揃えてあるし、小西康陽氏とは和田アキ子、深田恭子をはじめ何度も仕事をしてきた。しかし、不勉強ながら、この映像は知らなかった。思わず立ち上がってカウンター席に移動して食い入るように見つめた。いや、見とれたと言った方が良いかもしれない。店は空いていたので、天野洋子に頼んで、もう一度「トゥイギー・トゥイギー」の映像を再生してもらった。
「トゥイギー・トゥイギー」は、ピチカート・ファイヴ5作目のアルバム『女性上位時代』(1991)に収録された。野宮真貴を正式に3代目ヴォーカリストに迎えた最初のアルバムである。
1991年に制作されたその映像を2020年に観たわけだが、それは今観ても最高に新しく、楽しく、そして洗練されたクリップだった。メンバー3人がひたすら踊り続ける内容で、モノクロの画質の荒い映像なのだが、とにかく曲のビートに合わせた編集センスが抜群で、それがとんがったオルタナティヴ感を引き出すことに成功している。頻繁にインサートされる英語の文字もアクセントになって、お洒落感満載である。メイキング的な場面をわざと残してあるところにもセンスの良さを感じる。このクリップを観た後で、小西氏に確認すると、振り付けは3人で考案し、演出も彼自身が手がけたとのことだった。それは、クリップの制作にお金をかければ良いという業界の悪しき風潮に風穴を開けるような見事な一撃だった。この映像と楽曲が一体となったコンテンツの破壊力は相当なものだと、私は感じた。
そしてこの1991年の作品は、十分に現在進行形であり、これからのJ-Popの未来を示唆する何かを含んでいる。過去のコンテンツの中にこそ未来が見えてくることを教えてくれるのだ。
ピチカート・ファイヴの頭脳である小西康陽は、1960年代のカルチャー全般に造詣が深く、その深い知見をもとに音楽を創作。昭和の作詞・作曲・編曲家にはなかった非凡な才能を平成に爆発させた。今思えば、この映像こそがピチカート・ファイヴ大躍進の導火線だったように思う。
「トゥイギー・トゥイギー」は彼の作詞・作曲ではなく、以前佐藤奈々子によって野宮真貴のために書かれた作品のカヴァーである。それでも他のピチカート・ファイヴの作品同様に、あたかも小西康陽書き下ろしかのような印象を受けるところもすごい。この曲は2部構成になっており、後半はジェームス・ボンドへのオマージュのインスト・パートになるのだが、ここがまた60年代感覚を絶妙に咀嚼した編曲で、「渋谷系」らしさを醸し出している。
さて、タイトルにある「トゥイギー(Twiggy)」とは、60年代に『スウィンギング・ロンドン』と呼ばれた英国の若者文化のムーヴメントの「顔」となったモデルのことである。彼女はミニ・スカートを大流行させ「ミニの女王」との異名をとった。「Twiggy」とは小枝という意味である。この愛称からわかる通り、彼女は華奢で細い身体にショートカットを武器に人気を獲得し一世を風靡、それまでの女性の魅力のステレオタイプを一変させた。

「トゥイギー・トゥイギー」の歌詞には「トゥイギーみたいに痩せっぽちのわたし」というフレーズあるが、この曲自体がピチカート・ファイヴの新ヴォーカリストとなった野宮真貴の自己紹介を兼ねたような趣がある。クリップの中の彼女は、アップテンポの曲調に合わせた踊りの中に自然で生き生きとした動きと表情を見せて大変魅力的だ。
彼女をヴォーカリストに迎えたピチカート・ファイヴは、その評価も人気も大ブレイクして一躍『渋谷系』のアイコンとなり、海外でも人気を博した。
さて、先述した『スウィンギング・ロンドン』を象徴するMUSEとして、この二人を忘れてはいけない。女優のマリアンヌ・フェイスフルとアニタ・パレンバーグである。当時の二人は、同時に「ローリング・ストーンズの女」としても名を馳せた。マリアンヌ・フェイスフルはミックジャガーの恋人で歌手活動でも知られ、ミック・ジャガーとキース・リチャーズが書いた「As Tears Go By」(1964)をヒットさせた。アニタ・パレンバーグはブライアン・ジョーンズからキース・リチャーズへと男性遍歴を重ねた恋多き女。
彼女たちは、『スウィンギング・ロンドン』を舞台に、共に時代を切り開いたファッション・アイコンとしても認知され、ファッション面でも精神面においてもローリング・ストーンズのメンバーに大きな影響を与えたとされている。
私は、SFエロティック映画『バーバレラ』(1968)を観て、アニタ・パレンバーグに魅せられた。元々は主演のジェーン・フォンダのファンだったのでロードショー公開されるとすぐに観に行ったのだが、敵役の「黒の女王」
アニタ・パレンバーグをひと目見て、その不良っぽい色気の虜になった。特に、床に寝た盲目の天使役のジョン・フィリップ・ローに馬乗りになり、自分の胸を触らせる彼女の姿は中学3年生の自分には限りなく刺激的だった。
この映画にあふれるファンタジックなSEXの匂いには感動すら覚えた。そこには単なる官能的な映画にはない芸術性も感じられた。それはこの映画の監督、鬼才ロジェ・ヴァディムの手腕によるものだろう。その後、私は黒の女王に会うために何度も劇場に足を運んだのは言うまでもない。

私が『バーバレラ』を観た渋谷パンテオンはもうない。パンテオンと渋谷東急と東急名画座が入っていた東急文化会館は今ではヒカリエになっている。高校時代、学校の帰りには週に3回は東急名画座に寄っていた。『卒業』を3回目に観たのも『いつも二人で』を2回目に観たのも東急名画座だった。昔、映画はほとんど渋谷で観たものだ。渋谷東宝も渋谷宝塚も全線座もなくなった。
2024年の今、私は渋谷のスターバックス・コーヒーでこの原稿を書いている。最近最も悲しいこと、それは渋谷の再開発による変貌というか凋落ぶりである。道玄坂のYAMAHAも今はない。中学、高校、大学時代、輸入盤はほとんど道玄坂のYAMAHAで購入していた。デビューしたばかりのフォーク・グループGAROのミニ・ライヴもYAMAHAで見た記憶がある。
本を購入するのは東急プラザの紀伊国屋書店と決めていた。東横線渋谷駅の佇まいこそ渋谷のランドマークだったのではないか。東横線の始発だった渋谷駅。1番線から4番線までずらりと並んだホームと改札口が懐かしい。そのゆく先には自由が丘と桜木町があった。今は渋谷から東横線に乗る気がしない。
社会人になり、仕事の打合せによく使った桜ヶ丘の喫茶店「マックスロード」もなくなった。東急ハンズの向かいにはスパゲッティの「壁の穴」があった。
高校3年の2学期の期末試験が終わった日の午後、渋谷スカラ座でサマンサ・エッガー主演の『殺意の週末』という映画を観た。映画館を出て見上げると道玄坂の上には目に痛いくらいの青空が広がっていた。その期末試験は大学にエスカレーター式に進学できるか否かを決める大事な試験だった。試験の出来は芳しくなく、気持ちは沈んでいたのだが、あの空の青さに守られているようで不思議と幸せな気持ちになれた。渋谷はいつでも私の味方だったのだ。
幼い頃から庭のように歩き回り、過ごしてきた渋谷の街は様々な文化を教えてくれた。堤清二が率いるセゾン・グループは、西武デパートやパルコなどを通じ渋谷に独特の文化を産み落とした。70年代初めには西武デパートの地下に「BE-IN」という輸入盤専門店があり、ここでエマーソン・レイク&パーマーの『タルカス』を買った。
洋楽ディレクターになり、私が担当していたトム・ウエイツは2年続けて来日し、パルコ劇場でコンサートを行なった。3年前にリニューアルされたパルコからは書店が消えた。東急本店も丸善ジュンク堂もBunkamuraもなくなった。今の渋谷にもう文化の香りはない。私はどこへいけば良いのか。
今夜は懐かしい台湾料理の老舗「麗郷」(昭和30年創業)にでも寄って名物のチョウヅメとシジミを肴にビールを飲むことにしよう。


