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オクタゴン本棚(ちょうどいいおじさん)

人は話の中身より背景を先に信じることがある。
本棚は知性を、金網は強さを、勝手に増幅する。
私はその両方にかなり近い場所で生活していた。


今日の弁当

- モモ
- 紫玉ねぎのアチャール
- ゆで卵の麹漬け
- かぶのタルカリ

見た目は餃子とカレーの副菜のようにみえるが、一応全部ネパール料理だ。在日のネパールの方は、皆インドカレー屋の看板を掲げているため、ネパール料理の専門店は少ない。ティンブールというスパイスがよく使われているのがネパール料理の特徴だ。

見た目だけでは分からない。食べてみないと分からない。


オクタゴン本棚


ここ数年、ビデオポッドキャストというものが増えた。

有名人や学者や政治家が、薄暗いスタジオで一時間、長いと三時間くらい話す。火付け役の一つは、アメリカの「The Joe Rogan Experience」だと思う。前回の大統領選では、候補者の出演がニュースになった。日本でも似た番組が増え、誰もが低い椅子に深く腰かけている。

番組が増えるほど、背景は豪華になった。

間接照明。革張りのソファ。酒瓶の並んだ棚。意味ありげな観葉植物。巨大な本棚。出演者がまだ何も言っていないのに、部屋だけが先に「ここでは浅い話はしません」と宣言している。

しかし、話は長くなればなるほど、当然ながら薄い時間も増える。そもそも専門家は、必ずしも話す専門家ではない。研究は面白いのに、雑談になると校長先生の挨拶くらいの温度になる人もいる。

それでも画面は賢そうである。

私はだんだん、みんな話ではなく背景を見ているのではないか、と思うようになった。

その疑いが強くなるのは、私の好きなものが扱われたときだ。本と格闘技である。


本棚は祭壇

私が通っている格闘技ジムは、動画撮影の場所として人気がある。新しくてきれいで、話題の選手もいる。何より、金網がある。

総合格闘技用の金網は、置くにも直すにも金がかかる。練習にも使うが、対談動画の背景として働く時間も長い。金網の前に座ると、人は少し強く見える。試合経験がなくても、昔の武勇伝を低い声で話せば、何かを背負ってリングから帰ってきた人のようになる。

本棚にも、ほぼ同じ効果がある。

本棚の前に座ると、人は少し賢く見える。読み終えた本が三冊でも、背表紙が三百冊あれば、残りの二百九十七冊が黙って補足してくれる。知性の連帯保証人である。

最近は、本を読めること自体が、少し特別な技能として語られる。年間百冊、月に十冊。読書が腕立て伏せの回数のように数えられ、積んだ本の高さが精神の標高になる。速読も積読も悪くない。

けれど冊数だけが目的になると、本は知識ではなく戦利品になる。何年もかけて書かれた一冊を、表紙だけ撮って「今年百冊目」と投稿する。作者の人生を、駅伝の給水所くらいの速度で通過していく。

格闘技も読書も、本来はかなり泥臭い積み重ねの趣味である。その泥を避けた結果、泥のついた靴だけが流行している。

試しに、背景を交換してみよう。

金網の中で本のレビューをすれば、刑務所で更生に励む模範囚に見える。本棚の前で昔の喧嘩を語れば、先週読んだ不良漫画に感情移入しすぎてしまった人に見える。

本棚で周りを八角形に囲み、その中で戦ってみるのはどうだろうか? きっとお互い途中から戦う事の意味について考えることだろう。

音楽フェスの対談も、少し怪しい。

フジロックのフライヤーと音響に囲まれ、「オルタナティブ」と「カウンターカルチャー」を交互に言えば、例えば、途中で対談者がパペットスンスンと小泉進次郎に替わっても、数分は気づかれない気がする。その二人の対談は、ちょっと興味がある。

背景とは、ずいぶん働き者である。

ここまで他人事のように書いたが、実は私の背後の本棚はこうなっている。

面置きするためだけにスタンドを自作する。


読んで頂いている方は、今きっとこう思ったはずだ。

「お前が一番やってんじゃねーか」と

コロナ禍に、自宅をブックカフェのようにしたくて全部DIYした。言い訳になってしまうが、並んでいる本は全部読み、今でも読み返す。電子書籍へうまく移れず、本に囲まれた生活への憧れも捨てられなかった。

ただの自己満足と、賢く見られたい気持ちの境界は薄い。本棚への信仰は、私の中にもきちんとある。

だから私は背景を笑いながら、背景の効力をよく知っている。


ちょうどいいおじさん

前職で、幼児向け玩具の機構設計をしていた。大手メーカーへ企画を出し、採用されれば、開発から製造までこちらで進めるOEMの仕事だった。

ある年、某・顔が菓子パンのヒーローを模したゲームコントローラーが採用された。テレビにつなぎ、形の異なるボタンやレバーで操作する素直な玩具である。ところが企画が進むうちに、それは「脳の発達に役立つ知育玩具」になった。

誰が最初に脳を持ち込んだのかは分からない。作っている私自身、どの部分がどう脳へ良いのか全く知らなかった。設計図を見返したが、そんな部品を実装した記憶は無い。

ただ、これには理由がある。毎年開催される東京おもちゃショーには教育系の賞がある。知育玩具なら、その部門へ応募できる。先に応募先が決まり、あとから商品の肩書が育っていった。

賞の審査に間に合わせるため、納期は急に縮んだ。

筐体もゲームも作る。ボタンの重さを決め、幼児の指が挟まらない隙間を確保し、落として割れないかを調べる。保育園で実際に遊んでもらい、子どもの反応を見る。保育士さんにも話を聞く。突貫工事だが何とか形にし、残るは承認とパッケージだけになった。

そこで判明した。知育玩具として売るための、専門家の推薦文がない。

私は耳を疑った。普通は根拠があって、それをもとに商品を作るのではないか? 完成した商品を脳科学の教授の前へ運び、「これが脳に良い理由を、今から見つけてください」と頼むのは、医師に完成済みのレントゲンを見せて、「これから骨折する場所を決めてください」と相談するようなものである。

さらにパッケージには、教授の顔写真も必要だった。
そして他の製品を見ると、教授の背景は、それらしい本棚が並んでいた。

アポを忘れた客先の若い企画担当者は、打ち合わせ中に泣き出した。同席していた営業のIさんは場を和ませようとして言った。

「もうこうなったらさ、うちの方でちょうどいいおじさんとちょうどいい本棚を見繕ってみるのはどうだろうね? うちの顧問のAさん、あの人凄い教授っぽいじゃん。いつも波形みたいの(オシロスコープ)みてたし」

気遣いなのは分かるが、この状況でなんてことを言い出すんだ、と思った。

私の辞書に「ちょうどいいおじさんを見繕う」という、今後使う予定の絶対無さそうな日本語が記録された。

Iさんは気さくな良い人だが、たまにとんでもないイリュージョンが飛び出す。

静岡への出張で新幹線が三島駅で三分停車するたび、「降りてホームの立ち食いそばを食べて戻れないかな」と作戦を立てる人だった。蕎麦を三十秒で茹で、三十秒で食べれば間に合うという。ただし作戦には何故か毎回、蕎麦屋が事情を察して全力で協力する工程が入っていた。

そういう人なので、本棚と顧問で教授を生成する案も、本人の中では立ち食いそばと同程度に現実的だったのかもしれない。

最終的にはギリギリ本物の専門家のアポがとれ、推薦文は間に合った。

マチアプのサムネのように微笑む、知らない教授の顔写真の下に一言、「注意力、判断力、思考力を育てます」と添えられていた。

私は、つい思ってしまった。
それだけ?

積み木でもパズルでも、たいていの玩具は当てはまりそうである。だが教授に罪はない。きっと突然知らない玩具を見せられ、脳への効能を求められ、自分の顔まで箱に載る。どちらかと言うと芸人のモノボケや大喜利に近い。よくぞ捻出してくれたと思う。

商品はその年、賞を取った。そして幸い、そこそこ売れた。

賞のおかげか、推薦文のおかげか、子どもが普通に面白がってくれたからかは分からない。

ただ、私がいちばん信頼できたのは、開発途中で聞いた保育士さんの言葉だった。どこで手が止まるか。何度も触るのはどこか。飽きた子が、もう一度戻ってくるか。そこには本棚も肩書もなかったが、商品をよくするための確かな現場知があった。

専門性は大切である。でも専門家という看板が、専門そのものより先に歩き始めることがある。強さも知性も、本来は長い反復の中にある。殴られながら直した構えや、一冊を何度も戻って読んだ時間は、動画の背景には映りにくい。

だから人は、金網と本棚を置く。見えない時間を、見える家具で説明するために。

そして私は今日も、自作の本棚の前でこの文章を書いている。

背景だけは、強い。




※弁当とエッセイをまとめた「弁当記録」というマガジンがあります。
今回の文章が気に入った方は、自己紹介と合わせてのぞいていただけたらうれしいです。

自己紹介エッセイ

マガジン|弁当記録

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