半透明
母からの仕送りの中に、親戚の畑からお裾分けで貰った野菜が入っていた。しかしそれは今回の主役ではなく、それが入れられていたビニール袋、そちらに意識は向けられる。
普段使っているビニール袋とは比べ物にならないくらいに生地が厚くゴワゴワとしてコシがある。仕送りのお礼がてら母に尋ねると、祖母宅の物置から大量に出てきたので最近はそこから使っていると言う。はっきりとはしないが九十年代頃のものじゃないか、ということだた。
買い物袋が有料になり、勿体ないので徳用のものをまとめ買いして普段使いしている。意識したつもりはないのに、毎日買い物袋に、挙句にはゴミ袋にと触れていると、不思議と今の時代のビニール袋の品質が手触りに、感覚に染み付いているものだ。三十年ほど昔に当たり前のように無料だったビニール袋は、今では服屋などで貰えるしっかりとしたものでも敵わない、たしかな品質だった。手にした瞬間から違和感として明確に違いがわかるほどに。そして普段使っているビニール袋がいかに頼りなく、けれどそんな頼りないものを頼りにして持ち運びしていたのかと驚かされる。
経済学などの長期的な見地からすれば、物価高騰やそれに追い付けなくなった社会など、「失われた価値」というかもしれない。けれどいまを生きる日々の生活者からすれば「後から生まれてきた価値」ともいえる。
「失われた価値」として見れば、この古いビニール袋は現代では成立し得ぬ、存在しないものとなり、「後から生まれてきた価値」として見れば思いがけぬ逸品として確として存在する。
何にせよ買い込んだ時、食品の包装の角や豆腐の容器などで裂けるのを微塵も懸念することなく詰め込めるのは何と爽快なのだろう、とすっかり貧しく飼い慣らされていた自分の感性を自覚したのはひとつの収穫だった。これも後から生まれてきた価値だろう。おかげで「足らぬを知れど高楊枝」程度の気概は取り戻すことが出来た。それが幸か不幸かは分からないけれど。
