Örlög 第三十四話 誰でもない男
その夜、エイリクとイングリドは、夜を徹して話さねばならなくなった。二人が最後に会ったのは、エイリクがベルギーに旅立つ朝、暁の塔の前までテオドラと一緒に見送りに来てくれた時だった。
あの時も、イングリドは泣いていた。
「三年経ったら、戻って来る」
そう約束した。
そして、今、厳密にはまだ三年経っていないのに、二人はこうして膝を付き合わせるようにして、話し込んでいる。何もかもがあまりに変わり過ぎていた。二人は、それぞれが知っていることを伝えあった。
しかもエイリクは、イングリドにとって、もっとも辛いことを伝えなければならなかった。
暁の塔での最後のこと-テオドラの亡骸を、暴徒の手に渡らぬよう、エイリクが火を放ったことを。
イングリドは、エイリクにすがりつき、声を上げて泣いた。小さな声で何度も、「ありがとう」と呟いていた。エイリクは、そんな彼女が落ち着くまで膝の上で抱きしめた。
そして、もう一つの話しも切り出した。
クラァラのことである。彼女は、ハムレットの子どもを産み落とし、今、母子は一緒に教会施設にいる、そう話した。
イングリドは驚きのあまりに、涙もまだ乾き切っていない顔で、なぜ?と問いかけた。
「いきさつは分かりません。ただ、クラァラ殿もハムレット様を思ってのことだったのでしょう。とても美しい赤子ですよ。テオドラ様も、愛おしそうになさっていました。」
エイリクは、イングリドを安心させるために、微笑みを浮かべながら話した。だが、イングリドの顔から怪訝の色は消えず、「だって、あの子は…」と言いかけて、黙った。
『あの子は、エイリクのことを慕っていたはず』だが、ベルギーから帰って来ないことが、クラァラを諦めさせてしまったのだろう、イングリドはそう察した。
「ただ、クラァラ殿と赤子のことは、ハムレット様には話さないでください。」
エイリクは声を落として、そう、つけ足した。「どうしてです?」
「その当時は、陛下は陛下ではなかったようで…、ご記憶にないだろう、とテオドラ様から聞いております。」
「なんということ…」
イングリドはまた、涙を溢した。
「ですが、イングリド…」
エイリクは彼女の肩に手をかけ、顔を覗き込むようにして言った。
「いきさつはどうであれ、私たちは、あの美しい姫を授かったのです。テオドラ様は暁の塔で、私にこう仰せになりました。“この子だけが、私たちに残された希望“だと。そして、私に姫を託されたのです。ここからは、私からのお願いですが、ここで一緒に、陛下と姫のために、私を助けていただけませんか?」
それを聞いたイングリドの目に、光が戻った。
こうして、エイリクとハムレットの生活に、イングリドが加わったことで、祈りと静寂の館の空気が少し変わった。
ヴィグボルグ城でも何より規律を重んじてきたイングリド・ソルヴェイグである。いつまでも寝床から出て来ないハムレットを引っ張り出し、手探りでも館の中を歩けるよう、訓練を始めた。食事の準備、片付け物、逆に手間がかかっても手伝わせた。
ハムレットも、元乳母の言うことに、素直に従った。
もう「国王ハムレット」はどこにもいない。三人は相談し、ハムレットの名も変えることにした。いつなんどき、村人と接触するか分からない。そんな時、自然に振る舞えるよう、別の名前が必要だった。
「名は、レイフでよい。」
ハムレットがポツリと言った。
「何か訳でも?」
イングリドは茹で上げた豆をテーブルに置き、一つ摘んで、聞き返した。
「昔の冒険家の名前だ…。」
イングリドの問いに、彼は短く答えた。
「…では、レイフ・オーラヴソンだな。」
エイリクも豆に手を伸ばすと、苗字を授けた。
主従ではない、家族なのだった。
「おあがりなさい、レイフ…。」
元国王の新しい名は、こうしてあっさりと決まった。
レイフ・オーラヴソン、ハムレットは、この名を何度も心の中で呟いた。
エイリクは近々、街に出かけることにしていた。前から考えていたことを実行に移すためだった。台所に立っていたイングリドを、自室に呼んだ。「見て欲しいものがある。」
エイリクは、寝台の下から、頑丈な木箱を引きずり出し、イングリドの前で蓋を開けた。リネンの布に包まった二つの丸い物を取り出し、そっと布を外した。
「これは!」
イングリドは目を丸くし、両手で口を押さえた。エイリクが手にしていたのは、零れ落ちそうなほどの宝石−ダイヤ、ルビー、サファイア、真珠に彩られた宝冠であった。
今、目の前に現れたのは、ケアリゲンス・クローネ、王妃テオドラのもの。まだ布に包まっているのはセイレンス・クローネ、国王のものなのだ。イングリドもヴィグボルグ城で何度も目にした。冠の下に施された白テンの毛皮が、テオドラの髪に沈むのを整えたりもした。
あの宝冠に、こんな質素な館で再会するとは思わなかった。燭台の火も小さく、ぼんやりとしか照らさなかったが、途方もなく高価な石たちは、自らの意志で光を放っていた。
「この二つの王冠は、暁の塔から、陛下と一緒に救出しました。ここから、宝石を一つだけ外して、近々、売りに行こうと思います。」
エイリクは静かに言った。
彼の双肩には、ハムレット、アストリッド、クラァラの生活がかかっていた。しかも、命を狙われるかもしれない不安もある。将来はあまりに不透明だった。
「場合によっては、国外に出ることも考えなくてはなりますまい。ただしばらくは、様子見かと…。」
イングリドは、エイリクの手を取った。
「あなたが居てくれて、本当によかった。テオドラ様も、さぞ、ほっとなさっていますよ。あなたが考えた通りに、お使いなさい。」
しかし、エイリクは困ったように首を振った。「ただ、売るにしても、用心しなくてはなりません。これだけ高価な石です。たとえたった一つでも、信頼できる者に話を持ちかけねば、我々に足がつきます。」
イングリドには、エイリクの心配がよくわかった。王室に出入りしていた商人でさえ、影では王室を利用しようと良からぬことを考えていたりする。
エイリクがいきなり街に出て、それを安全に金に変えられるとは思えなかった。
しばし、沈黙が続いた。
そして、イングリドはパッと目を見開くと、こう言った。
「リスベリ商館…。」
その名は、エイリクの記憶にもあった。だが、この家の一人息子であり、ハムレットの無二の親友でもあるヨアン・リスベリは、エイリクの不在の間に、ヴィグボルグと大きな関わり持った。
「ヨアン様なら信頼できます。今は、コペンハーゲンにおられます。」
つい最近までコペンハーゲンにいたイングリドは、一度、ばったりと彼に出会っていたのだ。「よろしい。では、まずは連絡を取っていただけますか?それと、…」
エイリクは言った。
「ここから、どの宝冠を手放すか、一つ、選んでください。私には、さっぱり分からない。」
そう促され、イングリドは、まるでテオドラを見るような眼差しで宝冠を眺めた後、台座の中央に光る小ぶりのブルーサファイアを指さした。「テオドラ様は、本当はこのサファイアのように静かで深い御心をお持ちの方でした。この石なら、きっと、坊ちゃまや姫様を御守りくださいます。
