Örlög 第七話 無言の約束
一週間後、ホルムはベルギー行きの準備を始めていた。
彼の住まいは城の主塔から見下ろせる、騎士館の狭い一室であった。二階建てで、派手さはなく、こじんまりとしているが、戦禍の際には、軍の拠点にもなった頑健な建物である。
平和な時代に入ってからは、裏手の高い石壁の一部が取り崩され、陽当たりのいい場所に菜園が作られるようになった。
今の季節は、一面にキャベツが無造作に葉を広げていて、畑の脇ではエンドウ豆がまだつるを伸ばしている。
いかめしい騎士館という建物が、生命の息吹を内に隠して守っているようにも見えた。
ここを住まいとしている騎士は、少なくないが、まだ所帯を持たぬ若い騎士ばかりで、暇があればホールで飲み語らい、ゲームに興じる毎日だった。
その中でホルムは、唯一、卿の位を持つ者、いまだにここに住まっているのは、異例中の異例であった。
ただ、ホルムに言わせれば、理由は「建物の隅に鍛冶屋がいるから、そして厩舎に近いから」である。
部屋にいる時は、寝台に寝そべって、鍛冶屋が鉄を叩く音に耳を傾け、愛読書の--と言っても、彼が所有している本は一冊こっきりであったが--その頁をめくるひとときを楽しんだ。
だが、この住まいを離れる時は来ていた。
この日も、ホルムは寝台で、愛読書と槌音を楽しんでいた。
そこに不意の来客が訪れた。
扉を開けると、そこに立っていたのは、ハムレットであった。
「厩舎に行ったのだぞ!」
青年はひどく不機嫌に、ホルムの顔を見るなり、突っかかった。
「私だって、人並みの生活はしております。それより、いかがなされましたか、殿下?」
昔は、よくこんな顔でこんな口を聞かれたものだ、とホルムは思った。
ハムレットはズカズカと靴音を立て、中に入るや、興奮気味にまくし立てた。
「急だ、急過ぎる!また国外へ行けなどと!」
ホルムは黙っていた。
「その方、驚かぬのだな?知っておるのか?」
「ハンブルクのお話でしたら、少し耳にいたしました。」
「寄ってたかって!」
ハムレットはさらにいきり立った。
ホルムにとって、この怒りの根源が何かは聞くまでもなかった。
「オフェリア殿でございますな?」
ハムレットは返事をしなかった。だが、それがどうしたとばかりに、ホルムを睨みつけた。
「まあ、お座りくだされ、殿下。」
ホルムは、二脚しかない椅子の、一脚をハムレットに差し向け、自分も向かい合うように腰を下ろした。古ぼけた椅子は、ハムレットが乱暴に座ると、不満気に軋んだ。
「前にも申しましたが、殿下。殿下もオフェリア殿もまだお若い。そんなに焦らなくとも…」
「それは分かっておる。…分かってはいるが、フィー(オフェリア)の顔を見ていないと不安だ。それに…」
「それに?」
「何かがおかしい…噛み合わぬ…」
そう言うと、ハムレットは急に言葉を選び始めた。
「ここに帰って来てからというもの、父上も母上も様子がおかしい、よそよそしいのだ。」
「…それは、気のせいではありませぬか?」
そう言いながらも、ホルムは、西の間でのテオドラの、ひどく沈んだ様子を思い出していた。
「特に父上は、私を避けておられるような。…私は…この城に帰って来てはいけなかったのかも…だから…」
「理由がありませぬ。」
ホルムはきっぱりと言い切った。
「それに、テオドラ様は、殿下に立派な国王におなりいただきたいと…、そのために学問が必要だと仰せでした。」
沈黙が続いた。若者の疑念は簡単には晴れそうになかった。
「此度の件、殿下は何とお答えで?」
「行かぬという選択肢はないと…これは国王の命でもあると…母上が。」
「ご出立はいつにございますか?」
「来週の今日。」
「何と...」
決して言葉にはしないが、ホルムにも思うところはまだあった。猟場での王のつぶやきである。
この城の中で、確かに何かが軋み始めていた。
半時ほど経つと、若者は次第に落ち着きを見せ始めた。そして、『一年、たったの一年』とつぶやき始めた。
「決心がおつきのようですな。」
ホルムが尋ねると、ハムレットは答えた。
「決心はついたが、フィーの顔は見れぬ。泣くであろう…、そして、私の心は鈍る。」
そういうものか、とホルムは思った。道を誤らせるほどの女になど、彼は会ったことがなかった。
「フィーに手紙を書く。一年、待っていてくれと。そして、会わずに立たせてくれと。…ホルム、その手紙をフィーに届けてはくれまいか?」
「御意」
ホルムは床に膝を付き、頭を下げた。
決心が鈍るのを恐れたのか、ハムレットはそのまま、ホルムの部屋でペンを走らせた。
王家の紋章などもちろんない、少しざらつきのある、武骨な十字の透かしが入った便箋だった。
ホルムが所持していたその大半を無駄にしてしまうほど、青年は自分の思いと格闘し、ようやく仕上げた。
「お済みでございますか?」
窓から覗く日が、だいぶ西に動いたのを眺めながら、ホルムが尋ねた。
「ああ…、言葉は尽きぬが、切りがない…」
ハムレットは苦笑いし、手早く封に収めた。
「…、もうひとつ、頼みがある…」
「なんでしょう?」
「フィーの…髪を一房、もらってきてはくれぬか?」
青年は、うつむいて言った。耳まで赤く染まっていた。
「御意…」
まだ子どもだ、とホルムは思い、口元が緩んだ。
ハムレットは照れ隠しもあるのか、急に、ホルムの寝台に置かれた本に目を留めた。
「そちの好きな本か?」
「はい、見習い時代に戴いたものでございます。」
だいぶくたびれてはいるが、作りのしっかりとした写本であった。
「ロランの歌…読んだことがあるぞ。」
ハムレットは頁をめくり始めた。ホルムの好きそうな騎士物語であった。
「殿下、では、オフェリア殿のところへ行って参りますぞ。」
ホルムは懐に手紙を大事にしまい、部屋を出ていった。
ハムレットは部屋でひとり、気を落ち着かせるように、ホルムの本を見ていた。だが、単語はひとつとして頭に入ってこなかった。
ふと裏表紙を見ると、インクのかすれた文字があることに気づいた。
四半世紀も前の日付。そしてー
『未来の勇敢な騎士エイリクへ
従士長ビャルネ』
日付からすると、ホルムが14か15の時であろう。
よくよく見ると、頁の折れや痛みは、本の一部分に偏っていたー主人公ロランが最後まで踏みとどまって戦う場面、包囲される、仲間が倒れ、それでも退かず、剣を振るい続けるー
ハムレットは、そこに、エイリク・オーラヴソンの姿を見た。
一方、ホルムは人目を避けるようにして、オフェリアの居室の真下までやって来た。幸い、窓辺に彼女の姿が見えたので、彼は小さな石ころを拾い、軽く窓に当てた。
気づいたオフェリアが顔を出し、目を丸くした。
「突然、失礼仕る。殿下の使いで参りました。」
降りてきたオフェリアに、ホルムは一礼した。小さな裏庭で誰も見る者はない。
「よろしくてよ、ホルム様。でも…こんな呼び出し方。殿下がいらしたのかと思いましたわ。」
オフェリアは揶揄うように言った。
「…、はあ、確かに。」
ホルムは照れ笑いをした。昔、何かの本で見たような気がした。
「殿下からお手紙を預かっております。」
「手紙?」
オフェリアの顔から笑顔が消えた。
ホルムが懐から出す武骨な封筒を受け取る指に、ためらいが見えた。
「よい知らせ?それとも…」
ホルムは諭すように言った。
「よい知らせでございます。…長い目で見れば…」
だが、手紙を読んだオフェリアは、泣きじゃくった。ハムレットが予想した通りであった。
「お泣きになってはなりませぬ。たったの一年、あっという間にございます。それに…、」
ホルムは続けた。
「殿下は国王になられるお方です。あなた様も、いつかそのお方のお妃になられるのでしょう?しっかりなさいませ。」
「私…、なれますでしょうか?」
自信なさげにホルムを見上げたオフェリアの顔は、涙でぐっしょり濡れていた。
ホルムは優しく、こう付け加えた。
「泣き虫さえ、治されれば。」
ホルムがもう一つの伝言をオフェリアに伝えると、彼女はいったん居室に戻り、すぐまたホルムのもとへ戻って来た。
髪は下ろされ、左の頬にかかる部分だけが、極端に短くなっていた。ホルムに差し出されたリネンの小袋には、彼女の亜麻色の髪、そして、つい先ほどまで髪に結んであった薄紅色のリボンで、切り取った髪をくくっていた。
「これは独り言でございますが…」
宝物を受け取ると、ホルムは木々を見上げて言った。
「殿下のご出立は、来週の今日。朝の角笛とともに出られます。」
オフェリアはやっと笑顔を見せた。そして、ホルムにすがるように言った。
「私にも殿下の御髪を!」
騎士館に戻ると、部屋にはまだハムレットがいた。
「いかがであったか?」
彼の問いに、ホルムはまず黙ってリネンの袋を差し出した。ハムレットの手の中には、輝く、柔らかな金の糸のような髪が広がった。それを彼は、指でそっと撫でた。
次の瞬間ー
「殿下、動いてはなりませぬぞ。」
ホルムはそう言うや、ハムレットの肩に届く麦色の髪を一房、鋏で切り落とした。
