Örlög 第二話 赤い胸の鳥
--二年前。この城は、降り注ぐ陽光に包まれていた。強い王に導かれ、兵士は誇り高く、男どもは藁を積み、馬を世話する。女どもは衣食住を整え、機を織る。城のそこかしこに生命力が溢れかえっていた。
王子ハムレットは、国外の大学で学び、久方ぶりに故郷デンマークの城へ戻って来た。
馬を侍従に預けると、彼は、父でもなく、母でもなく、真っ先に愛おしい女のもとへ急いだ。彼女の居室は城の主塔の中にある。幼馴染でもある彼が、子どもの頃から何度も生き来した場所であった。
少しでも早く会いたいーそのために彼は近道を選んだ。城の中には、無数の隠し扉とそれにつながる通路がある。湿っぽく薄暗い通路に靴音を響かせながら、重い扉を開けると、いきなり光眩しい初夏の中庭が目の前に広がった。
しかもー
居室までさらに足を運ぶまでもなく、その人はそこにいた。
重臣ズェルヴァンの娘、ハムレットの幼馴染、そして今はハムレットの恋人。レースを施したベルスリーブから出るしなやかな腕を一心に伸ばし、駒鳥に餌を与え、戯れていた。
ハムレットはそっと近づいて、後ろからその細い肩を優しく抱いた。
驚いた彼女が声をあげる。駒鳥たちは一斉に飛び去った。
ただ一羽だけは鳴き声もあげず、羽ばたきもせずに、なぜかじっと二人を見ていた。その胸の赤にふと気を取られながら、ハムレットは彼女の耳に口づけて言った。
「オフェリア、見つけたぞ。」
オフェリアの顔が、驚きからみるみると喜びに変わる。
「まあ、お着きになるのは明日と聞いていましたのに。」
「そなたに早く会いたいと願ったら、海上の風向きも変わった。」
「まあ…。」
ハムレット十九歳、オフェリア十七歳。彼が旅立った時よりも、オフェリアは大人び、たおやかさを増していた。少しほつれて肩に落ちた亜麻色の髪は、光を受けて輝く。
ニワトコの咲き乱れる中庭で、二人は口づけした。
ハムレットは彼女の手を引いて、東屋に入った。ここにもニワトコが枝を伸ばし、白い小さな花弁を東屋の床に敷き詰めていた。
「これはそなたに土産だ。北で手に入れた。」
ハムレットは一冊の革装丁の古い本を、ポシェットから取り出し、テーブルの上に置いた。
「まあ、立派なご本!」
本好きの彼女は目を輝かせて、手に取った。中は上等な羊皮紙が使われ、古びた文字がびっしり詰まっている。すぐに読むのは到底、困難であったが、文字装飾や色が施された挿絵を眺めるだけでも楽しめそうに思えた。
「これ何語ですの?」
「ノルド語だ。うんと古いノルウェーの言葉だ。読み解いてみようと何度か挑戦したが、さっぱり分からなかった。」
オフェリアは次々と頁をめくったが、意味の分かりそうな部分はなかった。かなりの頁数だが、なぜか白紙の部分も多かった。オフェリアが日の射す方へ本を向けてみると、かすかに何かが浮かぶようにも見えた。
「不思議なご本ですわね。確かに読めないのですが、なぜか惹きつけられます。どこでこれを?」「北の城の図書室だ。」
ハムレットは声を潜めて言った。
「友人の導きでな。素晴らしい書物の…まさしく森であった。」
『あの国と我が国との諍いは避けられなかったのか? 』
ハムレットは心の中で呟いた。
この城では誰も、あの戦の話をしたがらないのが不可解だった。
愛しいオフェリアとの会瀬を終えた後、ハムレットはもうひとり、懐かしい人物のもとへ足を運んだ。これだけ広大な城である。誰がどこで何をしているかなど、知るのは容易ではない。
だが、ハムレットの思った通り、その男は厩にいた。独特の臭いのするこの場所で、その男は大抵見つかる。この時も、愛馬のたてがみを撫でながら、馬の耳に口を近づけ、何か囁いていた。
この城の重臣エイリク・オーラヴソン、通称ホルム卿またはHesteklapper(馬撫で)である。
「エイリク、ひさしぶりだな。」
エイリクよりも先に馬、トルデンがハムレットを見て小さく嘶いた。
「失礼、エイリクではなく、ホルム卿と呼ばねばな。子どもの頃からの癖だ…」
エイリクは、困ったように首を振り、藁にまみれた衣服を軽く払うとこう言った。
「エイリクとお呼びくだされ、殿下。卿(ナイト)など、こそばゆい限り。」
エイリクの風貌も物言いも、ハムレットに剣術を教えていた頃と全く変わっていなかった。
ただ、こめかみにー愛馬の毛色ともよく釣り合う、黒に近い栗色に、数本、白髪が混ざっていた。
「城内では、まだ“馬撫で”と呼んでくださるお人もおありです。……それより殿下、勉学の方はいかがでしたか?」
エイリクにやっと笑顔が浮かんだ。
「面白かったぞ。毎日、ずいぶんと本を読んだが、それ以上に、あちこちの川を見て参った。」「よいことですな。剣も水も、本だけでは学べませぬ。」
すると、ハムレットはおもむろに袖をまくって、二の腕を見せた。
「かなり太くなったであろう?向こうでは人足とともに石運びもやってみたからな。」
国を出る前に比べ、たくましさとともに快活さも身に付いたように、師は青年を見て思った。何せ、剣の手解きをしていた頃の王子は、神経質で気難しく、うまく出来なければすぐに癇癪を起こす、そんなところがあった。平穏が続く中、未来の国王に剣の達人になることを求めるものでもなかったが、王子のこの気の短さが将来の統治に影響しまいか、ずっと気になっていた。
しかし、遥か南の地ボローニャで、新しい学問を修めたこの青年は、もはやエイリクが知っているあの少年ではない。師は眩しい思いで、弟子の笑顔と二の腕を眺めた。
「しかしな、エイリク。向こうで、オフェリアのことを思わぬ日はなかった。あれを置いて来ていなければ、まだまだボローニャで学びたかった。」
「まだ殿下も、もちろん、オフェリア殿もお若い。そのうちに嫌というほど一緒にいられるではありませんか。」
「それはそうだが、そうなのだが…何度、ボローニャの街からこの城まで、心が飛んで戻って来たことか…。エイリク、そちにだってそのようなおなごがおったであろう?」
厩舎を出て、中庭へ戻る道を歩きながら、ハムレットは小声で尋ねた。
「おりませぬ。」
エイリクはきっぱりと言い切った。
「嘘を申すな。我より二十も年上で、好きなおなごの一人もいなかったと申すか?」
「おりませぬ。」
エイリクは苦虫を噛み潰したように繰り返した。「戦いに次ぐ戦い、そのような浮わついたことなど、考える暇はございませんでした。私には剣あるのみ。」
「もったいないぞ。その方の馬を駆る姿に、心寄せる侍女もおると聞いたが。」
ハムレットはもはやいたずら坊主であった。だが、言っていることに嘘はなく、長身で精悍な面立ちのエイリクには確かに、魅力があった。染みついた厩の臭いを除けばであったが。
「愚にもつかぬことを。」
「しかし、もう剣だけの時代でも……」
そう言いかけたハムレットは、ますます師匠の機嫌を損なうであろうことを察し、肩をすくめた。そして、「母上の居室に参るよう言われておった。」と、思い出したように呟き、その場を去った。
中庭で一人になったエイリクは、回廊を進んでいくハムレットの後ろ姿を眺めながら、ふっと、笑いをこぼし、花壇の隅に腰をおろした。
今、青年は恋に落ちている。なぜ女を愛さずにいられるのか、魔法にかかった彼には不思議に思えてならないのであろう。
ハムレットに語ったことは嘘ではない。戦いで勝利すること、剣の扱いが上達すること、それがエイリクの生きる意味であった。
もちろん、女を知らぬ訳ではない。戦いの間の享楽として、商売女を抱くことはあったが、「恋」などとは無縁だった。面倒だし、よくわからなかったのだ。
エイリクは、長い戦いの歴史と、目の前に広がる初夏の中庭の不釣り合いな光景に、少し肩を落とした。「もう剣だけの時代では…」というハムレットの言葉が刺さっていた。
エイリクはぼんやりと空を見上げた。戦いのために風向きをみるのではなく、日の高さが戦陣に及ぼす影響を考えるのでもない、ただ眺めてみた。
中庭の少し先には、野の花が咲き乱れている。薬効があるその草花は、エイリクの鼻にも甘く爽やかな香りを届けてくれた。
そこでは、一人の女が黙々と摘んだ草花を籠に入れていた。城内で見たことがあるような、ないような…、記憶は曖昧であったが、白いボンネットをつけ、薬草の知識があるのか、真剣な眼差しで葉を摘み取る横顔は凛としていた。
「…美しい」
エイリクのため息が漏れた。この年になるまで、清い女を腕に抱いたことはない。日々の生活を支え、ともに笑い、ともに歩く、そんな女があってもよいのかと、花の匂いとのどかな日差しの中で思った。
すると、遠くからその女に声をかける初老の婦人がいた。ハムレットの元乳母、王妃付きの女官長であった。
「クラァラ、急ぎなさい!王妃様がお呼びですよ!」
