Örlög 第十四話 鏡台の神託
『愛しい殿下へ
ヴィグボルグは、聖人前夜祭も終わり、冬の色が濃くなっていきます。
私とあなたの大好きなあの中庭に咲く花は、今はありません。
愚かな私は、前夜祭の蝋燭の火が灯される、その瞬間まで、殿下の乗る馬の蹄の音を待っておりました。
ごめんなさい、殿下は大切な勉学の真っ最中。
頭では分かっていても、心はあなたを待ってしまいます。
クリスマスには?新年の祝いには?
せめてお言葉をください。
フィー』
『我が愛しのフィーへ
この聖人前夜祭は帰らぬことにした。
出来ることなら、今、すぐにでも、馬を飛ばして君のところへ帰りたい。
だが、私の心には一つの疑問が巣食っている。
この疑問を抱え、鬱々としながら、ヴィグボルグの城門を潜る訳にはいかないだろう。
ましてや、君に不甲斐ない今の私の顔を見せたくはないのだ。
だが、安心してくれ。
君への愛は寸分たりと、変わってはいない。
今は、もう少し、自分が何者か見極めたい。
春を待っていてくれ。
そして、この手紙に書いたことは、くれぐれも君の胸にしまっておくように。
ハムレット』
恋人たちがしたためた手紙は、どちらも想い人の手には届かなかった。
一通は父、もう一通は侍従長の手によって、同じ暖炉の火に焚べられた。
炎が手紙を呑み込み、黒く縮れて消えていくのを見る度に、ズェルヴァンは自分の無力を思い知った。
オフェリアは、ハムレットを待っていた。
そして、ハムレットは、自分の心には疼く影がある、このことを、せめて恋人には知ってもらえたと信じていた。
あの秋の日、曾祖母から投げられた知らない名前。それは亡霊のように、ハムレットの自己認識を足元から脅かしていた。
「そんなに私は、ハルドレク・ヴァルンに似ていますか?」
思い切って、一人の男の名を挙げ、祖母に問うた時、彼女は落ち着いた声でこう答えた。
「ヴァルン…?前の国王陛下ですか?…あなたのお父上に敗れて、失脚した…」
「ええ、その男です…」
「私はお会いしたことはないですが、なぜあなたがその男に?」
「…曾祖母様が、私を…涙ながらに…」
ハムレットが口ごもると、彼女は言った。
「曾祖母様ほど長く生きておられると、いろんなお悲しみが一瞬に甦るものです。それだけのことではありませんか?」
一方、オフェリアは、ハムレットからの返事がないことの不安を胸に仕舞い、祈るように機を仕上げていった。
クラァラは、クリスマスに向け、ますます宮廷の仕事に追われるようになり、暁の塔に来る時間も限られたが、難しい部分以外はオフェリアが丁寧に織っていたので、安心していた。
この日も、オフェリアは一人で織っていた。
ー カタン、カタン、シューーー、トントン ー
その音は、傍の者が聞けば、織手がクラァラでもオフェリアでも、充分、同じに聞こえるようになっていた。
そして、その音に誘われるように、一人の女が塔を登って来た。
「精が出ますね。」
その声にオフェリアは驚いて、手を止め、即座に立ち上がった。
後ろから声をかけたのは、王妃テオドラだったのだ。
「…王妃様、どうしてこのようなところに…」
まずは小さく可愛らしいお辞儀をすると、オフェリアはおどおどしながら尋ねた。テオドラは、自分の娘を見るように優しく微笑んだ。ただそれだけで、塔の一室が光に包まれたように、オフェリアは感じた。
「クラァラからここで織っていることを聞きました。かなり、腕を上げたようですね。」
「…いえ、とんでもない…まだまだでございます。」
オフェリアは母を知らない。なので、王妃というよりは、母のようなその温かい眼差しに心臓が高鳴っていた。
「今、何を織っているのです?」
テオドラはそばに寄って来た。そして、織機の柱に手をかけて、ゆっくりと撫でた。
「ここはね、夜なべが出来る貴重な部屋なの。ホルム卿が出立する時も、クラァラはここに籠もって、贈り物を間に合わせてくれました。」
「深緑の胴着でしょうか?」
オフェリアは思わず、聞き返した。
「ええ、そうです。よく知っているわね。」
「はい、織地が残っていたものですから…。今、私は、本の挿絵を写して、織っております…」
オフェリアは、それ以上は口にしなかった。
ー婚礼の図、しかも自分とハムレットの婚礼の図と言うのは、さすがに憚られたからだ。
厳粛な儀式の様子は、縦糸が張られた状態ではあるが、もう大半が姿を現していた。
ただ、最も難しい、顔の部分はまだだった。
「なんでしょう、何かの儀式かしら…」
そう言って、織物を覗き込んだテオドラであったが、その後の言葉は続かなかった。
織は見事だった。婚礼の図ということは、一目で分かった。花嫁の顔はまだないが、驚くほど長い裾、胸元の三連の首飾り、袖口の広がりかた、ヴェールのひらめき、その留め金。それは、雷のようにテオドラの辛い記憶を呼び起こさせた。
言葉を失くす王妃を、オフェリアは心配そうに覗き込んだ。王妃の顔色からは、つい先ほどまでの輝かしさは失われていた。
「どうなさいました?お加減でも…?」
オフェリアがそう言い終えるのを待たず、テオドラは聞き返した。
「どこで、この絵を?…この挿絵はどこから?」オフェリアは言った。
「ノルド語の古いご本でございます。ハムレット殿下がノルウェーから持ち帰られた…」
「その本を…、私に見せてください…。」
テオドラがオフェリアから本を受け取ったのは、主塔の自室であった。本を見せるようにと言われ、オフェリアは小鳥のように住まいに戻り、王妃の居室に届けた。だが、テオドラには会えず、イングリドでもクラァラでもない侍女に手渡した。
『何か、いけないものをお見せしたのだろうか…自分が選んで、書き写したあの挿絵が…』
オフェリアは不安に怯え、肩を落として帰って行った。
「王妃様、今、オフェリア様がこのご本をお持ちになりました。」
ベッドに身を横たえていたテオドラに、侍女が淡々と伝えた。
「鏡台の上に置いておいて。」
侍女は分厚いその本を、そっと置いて出て行った。
そして、扉が閉まる音を聞くと、テオドラは急いで身を起こし、鏡の前に駆け寄った。
色褪せた革表紙の本ー表紙の刻印は褪せて、タイトルは読みづらい。
ー r ög
数文字だけが、かろうじて読み取れる。
テオドラは指を震わせながら、表紙を捲った。
かび臭いにおいが鼻を突いた。
だが、中の頁は羊皮紙で、クリーム色が輝くように美しく、どの頁もパリッとしているが、テオドラの指先が何度も触れたくなるほどに滑らかだった。
だが、肝心の文章はほとんど意味が分からなかった。たぶん古ノルド語であった。
文章の間に挟み込まれた彩色画が、ルーン文字の示す単語を、テオドラに想像させた。
彼女は、挿絵だけを追って頁を捲った。まるで神話に出てくるような北の国の景色、王と甲冑姿の勇者、激しい戦い…。
実は、テオドラはほんの少しだけ、古ノルドの単語が分かる。彼女の若き日の最愛の人は、その言葉を読み聞かせてくれたことがあったから。
今でも「その勇ましき男」、「熱い想い」という意味の文字たちは、テオドラの胸を高鳴らせた。
そして、次つぎと頁を捲って飛び込んで来たのは、塔で見たあの婚礼の図だった。頁の半分も使った大きな絵だった。
壮麗な広間、驚くほど長い裾、胸元の三連の首飾り、袖口の広がりかた、ヴェールのひらめき、その留め金。花嫁はうつむき、手を差し伸べる花婿の元へ歩みを進める。
一見、幸せそうな光景だが、花嫁の美しい顔は哀しげだった。
それにー その衣装をはじめ、何もかもが、テオドラ自身の婚儀と一致していたのだ。
テオドラは呆然とした。
『なぜ、こんな古い本に…』
単なる偶然かとも思った。が、それはあまりにも、昔のあの日を鮮やかに再現していた。
テオドラは、挿絵の下の流れるようなライン装飾に目を留める。そして、ふと鏡を見ると、そこではそれがルーン文字のように浮かび上がっていることに気がついた。まるで目の錯覚のようだった。彼女はすぐそばにあった手鏡を取り、それを挿絵の頁に押し当てた。
すると、手鏡に浮かび上がったのは、
『Blóð velr, hjarta þegir』※
意味は分からなかったが、不気味な戦慄が走った。
鏡台の上には、きらびやかな宝飾品が出しっぱなしになっていた。首飾り、指輪、ブレスレット、昨夜の晩餐で身につけた宝石の数々である。
人が見れば、羨ましい限りの高価な品々だが、今、このノルド語の古書は、まるでそれを嘲笑っているかのように思えた。
※血が選び、心は黙る
