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Örlög 第八話 ロランの角笛

ハムレットの出立は明日に迫った。
テオドラは、2度目の王子の留学を重臣たちに祝わせるため、この夜、大広間で壮行会を催すことにしていた。
イタリア留学から戻ったばかりだというのに、すぐまた国を離れるとなると、妙な噂が立たぬでもない。平穏な今だからこそ、よからぬ陰謀や野心が蠢いているやも知れぬ。
王子は水利学をさらに究め、この国を発展させる、新しい時代の国王になる、それを印象づけたかった。
そしてーもはや、疑念は拭い切れないとはいえ、王がハムレットを自分の息子とせざるを゙得ないよう、外堀を固めたかった。
「テオドラ様、酒の種類でありますが、これでいかがかと。」
料理長がリストを持って現れた。厨房では、料理人が慌ただしく、立ち働いていた。
「種類は任せます。それより、くれぐれも切れることのないように。」
重臣、騎士、武官、文官…総勢八十名はいるであろう。酒は浴びるように飲み干され、空っぽの樽がいくつも転がるさまが目に浮かぶ。
手の込んだ料理も無用、口に入りさえすればよい、テオドラはそう思っていた。
ただ、最初の乾杯だけは違う。格式の高いものでなければならない、テオドラの頭の中には、すべての重臣に祝福される凛々しいハムレットの姿があった。そのためには、国王と次期国王に相応しい盃も必要だった。
『そうだ、あの盃にしよう…』

テオドラは、居室から自分が所有する古い盃を持って、厨房に戻って来た。神話の王のモチーフ、美しく光に揺れるガラス装飾、本物の王に相応しい盃、テオドラはそう信じていた。
盃は、厨房の中の火を受けて、また色を変えた。
「テオドラ様、こんなところで何か御用でしょうか?」
いつの間にか、ズェルヴァンが横にいた。調理の進み具合を確認しに来ていたのだ。
「乾杯の時には、陛下と殿下にこの盃を使ってもらいます。」
ズェルヴァンは王妃の手にしている盃を見て、目を見張った。
「これは見事ですな!」
物知りの彼は目利きでもある。テオドラが機嫌よく、それを手に取らせると、覗いたり、透かしたりして、盃の美しさを堪能した。
しかしーズェルヴァンは続けた。
「祝杯には、少々、縁起が悪うございますな。盃としては素晴らしいのですが、このモチーフ、トラーキアのリュクルーゴスでございます。」
自分の知識に満足しているのであろう、ズェルヴァンはふふんと鼻を鳴らした。
テオドラは、怪訝そうに片眉を吊り上げ、聞き返した。
「と云うと?」
「まあ、簡単に申せば、神の怒りを買い、正気を失い、自分の息子を“葡萄の木”だと思って斧で切り殺す、哀れな王でございます。ギリシアの神話ですが。」
テオドラは、顔から血の気が引いた。
『血は隠せぬな』ーそう言って、王が刺すような視線をテオドラに送った夜も、この盃で酒を勧めていたのだ。
「気味の悪い…。」
テオドラは震える声で呟いた。
「…テオドラ様、単なる寓話に過ぎませぬ。」
珍しくズェルヴァンが慌てて、テオドラを気遣った。
「…この盃、処分しなさい。」
「は?なんと仰せで?」
ズェルヴァンが驚いて聞き返すと、テオドラはさらに命令口調で、「処分なさい!」と言い放ち、踵を返して、厨房を後にした。

宴は定刻に始まった。重臣たちは全員、席に着き、国王一家のお出ましを待った。
王の席から見てすぐ右側のテーブルには、ホルムも座っていた。同格の者が同じテーブルに着くが、重臣のほとんどは、ホルムより十ほど歳上なので、くすんだ空気の中、ホルムの男盛りは際立っていた。しかも、今夜は髪もきちんと撫でつけられている。ーもっともそれは、以前の女官長の『言いつけ』に従ったまでであるが。

すべてのテーブルで、金の燭台に蝋燭が灯されている。八十人分の金の盃がその灯火を受け、揺らめき光る。実にまばゆく荘厳な光景であった。王の席の頭上、ボックス席には楽師が控えている。宴もたけなわになれば、誰も聞いてはいないし、聞こえもしないのだが、彼らは今宵も一心不乱に奏でるつもりだった。
こうして、あとは国王一家を迎えるのみであった。

だが、一家の控えの間では、またハムレットの髪が波紋を呼んでいた。
「いかがした、その髪は?」
父王は、ハムレットが入って来るなり、眉間に皺を寄せた。彼の右側の髪は、極端に短く、首すじが露わになっていた。一方、左側 は以前のままである。
実に奇妙な髪型だった。
「おかしいですか?」
ハムレットはかすかな笑みを浮かべて、聞き返した。
「今宵の催しをなんと心得ていますか?そなたの壮行のために!」
テオドラは、息子の自覚のない態度に、声を張り上げた。むしろ、落ち着いていたのは、王の方だった。目は冷ややかだが、声音は落ち着いていた。
「何があってのことだ?」
「愛する女に捧げました。」
ハムレットは毅然として答えた。ホルムの前で見せたうぶな態度は微塵もなかった。
「オフェリアですね?」
「もちろん。」
その答えを聞いた時、テオドラの胸がカッと熱くなった。怒りというより複雑な、嫉妬に近い気持ちだった。この美しい麦色の髪の房が、あの娘の手に。
自分だって、かつて…、そんな思いに駆られ、言葉が続かなくなった。そして、王はそんな妃の顔をじっと見ていた。
「戦に出る時でさえ、そこまでせぬぞ。たった一年、離れるだけで、なんと女々しい。それで国が治められるとでも思っておるのか?」
続けて吐かれた王の言葉は辛辣だった。
ハムレットは顔を真っ赤にして言い返そうとした。
「私にとっては、」
「お止めなさい!」
テオドラが制した。これ以上、喋らせたら、何を言い出すか分からない。息子はそういう子だ、わざとこの頭でここへやって来たのだ、そう思った。そして、テオドラの脳裏には、遠い日の面影が甦っていた。
「鋏をこれに!」
王妃は、そばにいた侍従にそう申し付けた。

やっと国王一家は、お出ましになった。
出席者は、首を長くしていた。王のご尊顔というより、目の前の金の盃が満たされる瞬間を、であったが。
ハムレットの姿をーその髪を見るなり、ホルムの隣にいた重臣のひとりが言った。
「殿下は、勇ましいお姿ですなあ。」
ホルムはどこか誇らしげに答えた。
「御決意の表れでしょう…」
給仕が一斉に、盃に酒を注ぎ始めた。王と王妃は何事もなかったかのように、にこやかに振る舞っていた。
宰相が、盃を高々と掲げ、号令をかける。
「皆の者、ハムレット殿下のご健勝を祈って、乾杯!」
家臣たちも口々に大きな声を挙げた。
「殿下に!」
「ヴィグボルグ城に!」

時が過ぎ、酒が進み、どんどん崩れていく広間の中をハムレットは黙って見ていた。湧き立つ笑い声は遠く響いていた。
近づいて来る臣下に、激励されたり、忠誠を誓われたりで、それには卒なく礼を言ったが、それ以上、会話が続くことはなかった。王は席を立ち、臣下に言葉を掛け、大声で笑っていた。王妃は、その美しい微笑みで、声をかけた者の心をとろけさせていた。
ハムレットは助けが欲しくて、思わず、ホルムの姿を目で追ったが、彼ですら、顔を赤くし、屈託なく笑いながら、酒を汲み交わしていた。ホルムを社交性のない男のように思っていたが、こうして見ると、実際は周囲から慕われ、可愛がられている人物なのがよく分かった。
ハムレットは、自分だけがとてつもなく違う世界に住んでいるように思った。

一方、この会の出席者でありながら、馴染めないでいるもう一人の男が厨房に立っていた。ズェルヴァンであった。
彼は、数時間前に王妃から処分を押し付けられた二つの盃を眺めていた。箱に納められたそれは、シルクの生地で丁寧にくるまれ、取り出した途端、怪しく光った。確かに、モチーフの由来は悲劇的ではあるが、工芸品の芸術性を高めてもいる。
『処分するなど、あまりに惜しい…』
ズェルヴァンは、自分の住まいに持ち帰ろうかとも思ったが、王妃がいつ気を変えぬとも限らない。拝領したわけではないのに、持ち帰るのもためらわれた。
考え倦ねた末、ズェルヴァンはもう一度、盃を丁寧に箱に納め直し、国王一家専用の食器棚の奥の奥に仕舞い込んだ。
棚には錠が架かる。開けられるのは、料理長と自分くらいである。戸を閉めながら、ズェルヴァンは誇らしげに微笑んだ。

次の朝ーハムレットを乗せる馬車が予定どおり、城の東門に用意された。夜が明けた直後というのに、昨晩、呑んだくれていた者のほとんどがそこに集まっていた。もちろん、ホルム卿の姿もある。
王妃も女官長に付き添われ、見送りの先頭に立っていた。
だがー国王の姿はなかった。
昨夜の生意気な態度を、青年は少し後悔した。見送りの人々を見ながら、この者たちの期待に応えられる日など、到底、来ないように思った。
馬車に乗り込もうとするハムレットに、ホルムが駆け寄って来た。
「殿下、暁の塔をご覧なさいませ。二階の見張り窓を。」
ハムレットが言われるがまま、視線を走らせると、そこには、風に、あの亜麻色の髪がなびいていた。
表情まではよく分からないが、間違いなくオフェリアであった。
ハムレットはじっと彼女をただ見つめ返した。言葉は届かない。
その時、朝を告げる城の角笛が鳴り響いた。
「ホルム、世話になった。そちも気をつけて参れ。」
「御意。殿下もくれぐれもお気をつけを。」
ハムレットは鳴り響く、角笛の音に耳を傾け、ホルムに言った。
「その方は…、引き返す折を、見失わずにおれるか?」
「は?どういう意味でございますか?」
ハムレットの謎なぞを、ホルムは理解しがたかった。
「その方の愛読書の話だ…、ではな。」
そう言い残すと、ハムレットは静かに車上の人となった。
ホルムは、一礼し、王子の馬車を見送った。暁の塔を見上げると、そこにはオフェリアの姿もまだあった。
結局、ハムレットの問いの意味は、分からないままだったが、この青年が王に君臨するには、あまりに繊細で迷いの多い人物であることだけは、ホルムにも分かっていた。

そして、二週間後ー
今度は、ホルムが旅立つ朝であった。
ハムレットと同じ、暁の塔が見下ろす東門。時刻も同じ。違うのは、見送る者が誰もないことであった。と言うのも、彼は出立の日がいつなのかすら、誰にも告げていなかった。黙って消えたかった。
ホルムはしばらく、馬上から暁の塔を見上げていた。
するとー「ホルム殿!」と叫ぶ女の声がした。
見ると、塔の向こうから、女が三人、先頭で声を張り上げたのは、女官長だった。ホルムは馬の向きを変えると、女たちの方へ戻った。
女官長は、すでに息が切れ、言葉が出ないのか、スカートの裾を摘まんでいるのとは反対の手を、大きく振って近づいて来た。その後ろは、何かの箱を抱えた侍女、そしてその後ろには、かなり離れてゆっくり歩く王妃テオドラの姿があった。
ハムレットの見送りの時とは異なり、ガウン姿で、髪も簡単に束ねただけであったが、それが余計にホルムとの親しさを感じさせた。
ホルムは、テオドラのそばまで来ると、馬を降り、跪いた。
「そちを見送りに参りました。」
王妃は優しく微笑んだ。
「もったいのうございます…私のような者のために…このような時間に…」
夜は明けたばかりである。
「何を申すか。そなたの出立の門出、見送らずにおれましょうか。三年も会えないのですか?」
「はい、その覚悟でございます。」
「体に気をつけるのですよ。まあ、その方なら心配はいらぬとは思いますが。」
王妃は背後の侍女を前に呼び、大きな箱を差し出させた。
曙の日の光に照らされたその顔は、以前、確かにどこかで見た顔であった。
テオドラは言った。
「その方のために、ベストを織らせました。どうか身に着けてやって下さい。このクラァラは、織物の達人なのです。とてもよい仕上がりになっていますよ。」
テオドラの言葉にクラァラは、恥ずかしそうにうつむいて言った。
「私の仕事が遅いので、このような時間にホルム様にお渡しすることに…申し訳ございません。」
ホルムはにっこりと微笑んで箱を受け取ったが、
目は、その侍女ークラァラの顔から逸らすことが出来なかった。
「かたじけない…。」
ようやく、礼の言葉を口にしたが、それで彼女を余計にうつむかせてしまった。
「向こうで戦いに出ることは、ないですよね?」
女官長イングリドが横から尋ねた。
「…、ああ、ない、それはないであろう…」
ホルムはようやく、我に返ったようにそう答えて、イングリドを見ると、彼女は指で目頭を抑えていた。家族のように思ってくれる人がいるーこの城はホルムにとって、まさしく「故郷」であった。
「では、そろそろ参ります。ありがとうございました。」
もう泣くなとばかりに、ホルムはイングリドの肩に手を置き、貰った箱を馬に積むと、馬上に戻った。そして、深々と頭を垂れると、歩みを進めた。
だが、手綱を握りながらも、先ほどの侍女の顔が脳裏に浮かんだ。朝の光りに相応しい、優しく清らかな顔であった。
ホルムは、しばし迷い、それでも心引かれるように後ろを振り返った。
すると、王妃とイングリドはすでに後ろ姿であったが、侍女はまだホルムを見送って立ち尽くしていた。
思わず、手綱を引き、馬を止めそうになったが、そんな訳にもいかず、ホルムは改めて小さく会釈した。クラァラは深々とお辞儀を返した。
その時ー 暁の塔の上で、番兵が朝の角笛を鳴らした。低く深い音色は、ホルムにハムレットが残した謎を思い出させた。あの時の言葉が、不意に胸をよぎった。
『引き返す折を、見失わずにおれるか?』

ホルムが進む先の空には、朝焼けに染まった紫色の雲が横たわっていた。

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