Örlög 第二十三話 沈黙の庭
三月になった。ほんの少し寒さは緩んだが、水はまだ冷たかった。
テオドラの朝の身支度のために、クラァラは誰より早く起きて、まずは湯を沸かす。湯気が白く立ちのぼった桶を、こぼさぬように石造りの室内に運び込むのが、毎日の始まりだった。そして、洗顔のお手伝い、御髪の整え、お衣装の準備、朝のお茶と、毎日の日課は細々と決められている。
それらを何も考えず、ただ粛々とこなすことが、今のクラァラを支えていた。
イングリドも、職務を全うしていた。
二人が顔を合わせても、オフェリアの名を口にすることは、もうなかった。
だが、そうはできない人間もいた。
一人は、ズェルヴァン。
彼はもう侍従長ではなかった。娘の死を、単なる事故と割り切れない彼は、侍従長という重職を続けることができなくなっていた。自ら、職を降り、新しい侍従長の配下で務めることになった。
そしてもう一人は、王太子ハムレット。
残念ながら、彼の場合、簡単にその座を降りるという訳にはいかない。
なのに、彼自身は以前にも増して、彼の住む世界に、疑念と不信を募らせていた。
オフェリアの葬儀の後、ハンブルクには戻らず、ほとんど誰とも口を聞かず、ヴィグボルグ城で野良犬のように暮らした。
最初の数日間は、毎日、オフェリアの墓の前に長い時間、座っていた。
『オフェリア・ハルヴェルク
王家の庭に咲きし者
鳥たちの声とともにここに眠る』
ハムレットは墓碑の前で、たとえ一時でも、彼女の心変わりを疑った自分を恥じた。
イタリア留学から戻った時、彼は中庭で彼女を見つけた。そして、その腕でつかまえた。
だが、今度は間に合わなかった。
もう少し早く、戻って来ることができたら、今頃は?事実、冬鳥たちはすっかり姿を消し、もっと北の地へ、向かっているではないか?
こんなハムレットの様子に、城内を監視する衛兵たちも気づいていた。
「お労しい…」
「殿下は、大丈夫であろうか?」
ハムレットを案じる彼らの声は、イングリドを通じ、テオドラの耳にも届いた。
「…見守りましょう。癒せるのは、時間だけです。」
テオドラはそう言うと、哀しげに目を伏せた。
そして、このすぐ後、彼は何を思ったのか、ぱったりと墓地には姿を見せなくなった。
暫くして、ヴィグボルグ城にハムレットを訪ねる者がいた。
ヨアン・リスベリであった。馬車に荷物を積み、旅の身支度で城に現れた。
通されたのは、謁見の間ではなく、ハムレットの自室だった。二年ぶりの再会であった。
部屋に通されたヨアンは、彼の変わり果てた姿に驚きを隠せなかった。
ぼさぼさ頭、無精髭、寝間着のまま、だらしなく椅子に腰掛けていた。しかも裸足だった。
ヨアンの知っているハムレットは、王太子であるということを抜きにしても、その神経質さから、人前で身なりを崩すことなどなかった。
その彼が、今、目の前で壊れていた。もちろん、その理由は―正確に云えば、理由の一つだが ―ヨアンにも分かっていたので、心苦しく、いたたまれなかった。
「…殿下、おひさしぶりです。…オフェリア殿のこと…、あのようなことになってしまい、誠に申し訳ありませんでした。」
すると、ハムレットはその言葉には不釣り合いな明るい声で、ヨアンとの再会を喜んでみせた。「本当にひさしぶりだな、ヨアン!ヨアンだ、間違いなく、洒落者のヨアンだ!」
ヨアンは豪商の息子らしく、昔から小洒落た物を身につける粋人だった。王太子のハムレットですら、彼に当世風の流行りを教示してもらうことがよくあった。
「まあ、座れ。それより、遠出でもするのか?」旅の身なりから、ハムレットは察していた。
「はあ…。他国にある商館を任されることになりまして…。」
「そうか…。いいな、お前は…。」
「修行中の身に過ぎません。上手くやれるかどうかは、わかりませんよ。」
「お前なら、やれる。…それに、やるべき道が決まっていることが羨ましい。」
ハムレットは、寂しそうに笑みを浮かべた。ヨアンには、言葉の意味するところがまったく分からなかった。
「王太子様のお言葉とは思えませんね。この国を継がれる方が何をおっしゃいますか?」
「継ぐ?私がか?」
「もちろんです。」
ヨアンは毅然と返したが、ハムレットの顔からは笑みが消えた。
「オフェリアを殺したこの世界の、その頂点に私が立つのか?」
「…オフェリア殿のことは不幸な事故です。私の算段が甘うございました。」
ヨアンは少しだけ、ハムレットの言う意味が分かっていた。手紙が届いていなかったこと、見えない力が働いていたのは確かだった。
「お前はいいヤツだな。昔から…。だが、オフェリアを死なせたのは、あの事故ではない。この王宮の思惑や裏切りや…そして、私自身なのだ。」
その後の会話は、堂々巡りに過ぎなかった。
ハムレットは曖昧で悲観的なことしか口にしないし、ヨアンはヨアンで、王室の内部のことに突っ込んだ質問をすることはできない。
せめて、ハムレットの気分を変えてやりたいと、話題を逸らしてみたが、ハムレットは言葉少なに微笑むだけだった。
ヨアンが知っている、少し気難しいが、誇り高く、知性ある青年ハムレットは、姿を潜めていた。
ヨアンは、部屋を出る際に、くれぐれも気を強く持って過ごすこと、この国がハムレットを必要とするであろうことを、諭すように伝えた。
ぼさぼさ頭の男は、力なくヨアンを抱きしめた。
ヴィグボルグの主塔を出たヨアンは、ハムレットのことを案じながらも、もう一人、どうしても会わなくてはならない人を探して、城内を歩き回った。
王妃付きの侍女ならば、むしろ主塔にいた方が出会えたかも、それに気づくまで、半時はかかっていた。
今一度、主塔に向かって歩き始めると、向かいから、数人の侍女たちが銘々に手籠を下げて歩いて来た。その中に、クラァラの姿があった。
ヨアンは深々と礼をし、話しがあることをクラァラに目で訴えた。
「あなたたち、先に行って、進めておいてちょうだい。」
クラァラの出した指示に、若い侍女たちは、ヨアンとクラァラを見て、口元を緩ませながら、去って行った。
「すみません、急にお呼びして。」
ひと目の少ない、薪置き場の隅まで来ると、ヨアンは不躾を詫びた。
「いえ…、私も一度、お目にかかって、ご迷惑をおかけしたことをお詫びしたかったのです。」
ヨアンは、ハッとした。あのことを詫びたかったのは、自分の方だったからだ。
「とんでもない。残念な結果になったこと、申し訳ない…。」
ヨアンは言葉に詰まり、クラァラは首を振るのが精いっぱいで、二人の間に無言が続いた。たまたま通りかかった中年の従者が、二人を横目で見ながら、過ぎ去った。
「実は、他国に行くことになりまして。そのご挨拶もあって、参ったのです。」
「外国へ?」
驚くクラァラを安心させるように、ヨアンは明るく言った。
「父の意向で、うちが国外に出している商館を任されることになりました。」
「どちらですの?」
「…ネーデルラントです。」
「まあ、それはよろしいこと。」
クラァラも顔を輝かせた。
「さぞかし、ご商売もお盛んなのでしょう。王妃様に届いたお品に、ガラスの器だとか、香油とかがありました、ネーデルラントから。」
「おお、それは、よくご存じだ!」
「でも、何処にある国かはわかりませんわ。」
二人は、声をあげて笑った。
そして、ヨアンが言った。
「あなたの笑顔を見るのは、これが初めてだ。」「そうですわね…。でも、それは私もですよ。」暫く、また沈黙が続いた後、ヨアンは意を決したように真顔でクラァラを見た。
「クラァラさん、私と一緒に、ネーデルラントに来ていただけませんか?」
「…えっ?」
「私という人間を、まだよくご存じではないでしょうが…、私には、あなたという方がよくわかります。今、すぐでなくてもいい、考えていただけませんか…」
ヨアンは精いっぱい、落ち着こうと努めているようだが、声はうわずっていた。
「…、私の妻になっていただきたい。」
あまりにも思いがけない申し出であった。
そして、彼女にとって、それは初めての経験だった。美しく清楚な顔立ちで、普通ならそんな申し出も引く手あまたに思えるが、なにぶん、少女の頃から侍女として王宮に仕え、しかも王妃付きであったため、男性と親しくする機会などなかったし、それを望んでもこなかった。そして、年は二十を幾ばかりか過ぎていた。
クラァラは胸を高鳴らせつつ、こう答えた。
「…私、ヨアン様より年上でございます。」
「そんなことは、問題ではありません。めずらしいことではありませんよ。特に、私のような稼業では…。」
「でも、私には、王室の仕事が…」
クラァラはためらいながら続けた。ヨアンの顔をまともに見ようとはしなかった。
「…王妃様にお仕えする身ですので…」
やっぱり…、ヨアンはそんな顔をした。
「…私を好いてはいただけませんか?」
その言葉は穏やかで、そして優しかった。クラァラを問い詰めるものではなかった。
「とんでもない!私にはもったいない、立派な御方です。」
「では、…心に決めた方がおられるのですか?」クラァラは、その問いには即答できなかった。
ヨアンは静かに、微笑んで言った。
「すみません、あなたを困らせてしまいました。…でも、もしも…もしもでいい、…気持ちが変わったら、外港のあの商館から、連絡をください。私は迎えに参ります。いや、気持ちが変わらないまでも、何か困ったことがあったら、遠慮なく…。今度は、お力になります。」
クラァラの肩に手をかけるヨアンに、クラァラは素直に頷いた。
ヨアンを乗せた馬車は、遠い国に向かって走り出した。窓から見えるヴィグボルグ城はどんどん遠く小さくなっていった。自分がクラァラをどんなに想い続けても、あの城は決して彼女を離しはしない、ヨアンはそんな思いで城を眺めた。
